『いとしい私のメフィストフェレス』
ヒニヨル
『いとしい私のメフィストフェレス』前編
人は生まれて死んでいくまでに、
だけど稀に、自分の人生の根本的なことを揺るがす、出会ってはいけない種類の人間がいると思う。自分自身では避けようとしても、避けられなくて、一度出会ってしまえば振り払うのも心労を伴うような。
私にとって、イチはそんな男だった。
私は、正直、何も取り柄がない女だ。自分のことを語ろうにも、美人ではないし、可愛いとは言い難いし——そこまで偏差値が高くない大学を出て、ただ働いているしがない社会人とでも言おうか。
親しい友達はそこそこいるが、車の運転はできないし、料理は下手だし。これといって強みになる資格も持っていない。
趣味は昔からコツコツ書いている物書きの真似事くらい。熱しやすくて冷めやすいから、書くことと、人を観察すること以外にあまり興味が持てない。
唯一の特技があるとすれば、出会ってみたい人を想像すると、遠くない未来に出会ってしまうこと。
※
出会ったキッカケは、とあるライブ。いつもは小さな箱しか使わないアーティストが、ウン十周年記念を祝して、大きな会場でライブを開催した。私は女友達数人と参加をして楽しんだ。
終わった後、私たちはこのまま終わりたくない、名残惜しい余韻に浸っていた。
見ず知らずの人たちと、同じ空間を共有する——今日会ったばかりの人が、なんだか気持ちを分かち合える同士のような心地。それに高揚感が相まって、お酒に酔ったように、思考回路が細かい事を気にさせなくなったのかもしれない。
「晩ご飯、食べて帰ろうよ」
「ライブで知り合った人と、飲みに行くのとか憧れるね」
私たちがこんな話をしていたのも、キッカケかもしれない。信号待ちをしていた私たちに、イチとその男友達は声を掛けてきた。
今思えば、それはナンパだったのかもしれない。けれど私は気が付いていなかった。我ながら、
出会いはそんな些細な事で、初めて出会った時にはあまり感じなかった。イチがこんなにも、私の心を侵食するような男だとは思ってもいなかった。
とても洞察力のある男の人だと思った。私が話した言葉やその表情を見るだけで、一つどころか二つ三つ、それ以上の情報を汲み取ってしまう。
会話をしていると、「あれ、そんな事まで私話したっけ」と思う事が度々あった。
最初に興味を持ったのは私だったかもしれない。なんとなく、一緒にノリで晩ご飯を食べて、呑んで、はしゃいで騒いで、離れがたくなっていた。それで、また会えたらいいな、と思って連絡先を交換したのだ。
2回目に会うことになった時、意図せずして、ふたりきりになってしまった。何人かで会う約束をしていたのに、相次いで友達たちが不参加になった。最後の一人も当日に「ごめん、仕事で抜け出せなくなっちゃって」とメッセージがきた。
今考えても、これが良くなかった。
自分の思った通りに人を誘導することが得意なイチと、流されやすく隙の多い私。この組み合わせで出会った男女に、何か起こらない訳がない——少なくとも私はその時、起こるわけがないと思っていたから、気にせずに食事をしていた。本当に考えが甘かった。
「モモちゃん、ちょっといい?」
そう言って、正面に座ったイチが私の前髪に触れた。
「ごめん、なんて言うか……ピョコンて跳ねてたから。直したの」
イチは男らしい体格に似合わず、可愛らしくクスッと笑った。私たちは連絡先を交換した後、何気なく毎日メッセージのやり取りをしていた。
時々少し、卑猥なやり取りもあったが、もういい大人だったので、私はさほど気にせずに流していた。男の人はそんなものだろうと思っていたのだ。
「何食べる? 頼むときは俺が言ってあげるよ」
食事をする店は、イチが決めた。
確か和食系の店だった。部屋は和室で、個室。私たちは2階に案内されたが、部屋にはなぜか呼び出しベルが無かった。
優柔不断な私が、料理を選び損ねていると、「適当に俺が選んで良い? 好き嫌いはある? これ食べてみない?」イチがリードして決めてくれた。そしてさっきまでの優しい話し方とは違う、よく通る低い声で、「すみませーん!」と襖を開けてお店の人を呼んだ。
私がその声にじっと見入っていたせいだろうか。
「俺ね、ずっと柔道してるんよ。武道が好きで柔道以外も色々とやってた。よく声通るでしょ」
そう言って、おしぼりで手を拭いて、顔を拭こうとしたところで、「あ。顔まで拭くとオッサンくさいかな」と恥ずかしそうにした。
「オッサンくさいね」
私が笑うと、「モモちゃんひどい」とわざと
正直、私はお酒に弱い。
好きなお酒はサングリア、マッコリ、紹興酒。あと、後味がむあんとする、強めの日本酒をちびちび飲むのが好き。
そんなにたくさん呑んではいないが、イチとの時間が楽しくて、すっかり酔っ払っていた。
「モモちゃん、彼氏とは上手くいってるの?」
話していなかったが、そう、私には遠距離恋愛をしている彼氏がいた。飛行機に乗らないと会えないので、会う頻度は年に数回。仕事が忙しいのと、あまり連絡を取るのが好きではない人なので、時々電話をするくらい。それでも、気にしていない。少し寂しいけれど。
「それよりイチはどうなんよ。彼女はいないの?」
「彼女はいないよ。でも結婚してる。子供もいるよ……みんな彼女いるの? としか聞いてこなかったから。言いそびれた」
こう言うところが、この男の悪いところだ。聞かれないと答えない。聞かれても、都合の悪い事はうまくかわしてくる。
「へえ、そうなんだ」
私は酔っ払っていた。酔っ払っていなくても、そうなんだ……で終わらせていたと思う。
私には彼氏がいる。イチには家族がいる。なら安心だね、何も起きない。心置きなく呑んで話せる。この時の私にとっては、これが自分の中のあたりまえだった。
「今日は夜に出歩いて、大丈夫だったの?」
酔っ払ってはいたが、気になって聞いた。
「試合の合宿や打ち上げで、出かける事はあるし大丈夫だよ。奥さんの親も近くに住んでるしね」
今思えばわかるが、たとえそうだとしても、フラフラと出歩く父親ってどうなんだろう。まだその逆の立場を味わった事がなかったから、そうなんだ、で済ませてしまった。
「かなり酔っ払ってるね。モモちゃん店を出ない?」
私は結構いい感じに酔っ払っていた。少し眠い。そしてすごく心地よい。
私たちは店を後にして、駅前を歩き始めた。
イチの隣に並んで歩く。何を話していたのか覚えていないけれど、私はすっかり警戒心が解けている。
ふと、私は言った。
「昔から、お姫様抱っこっていうの? 憧れてたなぁ」
身長は、私よりも数センチ高いイチ。服を着ていても、体を鍛えているのがわかる。正直、こういうタイプの男の人に出会って、仲良くなった事がなかった。初対面の人は、少したじろいで、道を開けてしまうかもしれない。
だけど、こうして並んでいると、昔から仲の良い——気心がしれた友達のようだ。少なくとも、私はその時も、今もそう感じている。
「ねえ、モモちゃん」
急にイチが足を止めた。そして荷物ごと、私を軽々と両手で抱え込んだ——そう、お姫様抱っこというやつ。
私は驚いて、イチの首にしがみ付いた。怖がりなのだ。地に足がついていないと、不安になる。
「重いでしょ?」
「重くないよ」
「でも怖いな。そろそろ下ろして」
そう言うと、イチはそっと下ろしてくれた。私はドキドキしている。でもこのドキドキは、地に足が付いていなかったせいだった。うっかり、片手がイチにしがみ付いたままでいた。
「ごめん、怖がりなんだ。重たかったよね、私」
「重くないって言ってるでしょ。モモちゃんは気にしすぎだよ。俺、筋トレしてて100キロまでなら持てるし。重たいに入りません」
「そっか。なら良かった」
私はホッとした。少し酔いが覚めた気がする。
急にイチが私に近づいた。
「モモちゃん、可愛いね」
私はぼうっとしていた。気づいた時には、なぜかイチの感触が私の唇、舌を伝っていた。
さっきより至近距離でイチが笑っている。
何が起きたのか分からず、ただ、また歩き出したイチの後を追いかけた。
「ここ何周した? 覚えてる? モモちゃん」
「分からないよ」
駆け寄った私の手を、イチが繋いだ。
「モモちゃん、フラフラして危ないから」
「そうかな」
あまりにも自然で、私は違和感に気が付いていない。イチはそういう男だ。
歩いている時も、さり気なく自分は車道側を歩く。お店の扉はサッと開けてくれる。こちらが言う前に、考える前に、思う間もなくやってしまうのだ。
こんなにも他人に、ましてや異性に、自分が思っている事が伝わる事があるだろうか。私は今まで生きてきて、これほどまで完璧な男の人を見たことがない。
駅前をもう一周して、この駐車場のそばを通ったのは何回目だろう。あたりは真っ暗で、人通りはない。イチは立ち止まると、今度は分からせるように、私を抱きしめた。そして一度キスをすると笑った。
「モモちゃん、気づいてた? 俺が顔を近づけたら、自分から口を近づけてたんだよ。可愛いね」
私は勘違いをする。私って、そんなに可愛いの? イチのことを欲しているの? このように、人を扱うこと、
後で聞いたところによると、ヨーロッパへ留学中は、金髪の美女を恋人にして楽しんでいたらしい。日本人と外国人のセックスの違いについて、面白おかしく教えてくれた。イチの落とすテクニックは、万国共通で通用するのかもしれない。
話は戻るが、暗い駐車場のそばの路地裏で、私はイチに、今まで味わったことのないような濃厚なキスを教わった。
「もっと口を開けて」
囁くようにイチが言う。私はなぜか拒否できず、言われるがまま。されるがままだ。知らないうちに、服の中にイチの手が入り込んでいる。力強いのに優しい、なんていやらしくて気持ちがいい愛撫なんだろう。これは才能といっても過言ではない。
私はさっきまでのお酒の酔いとは比べ物にならない程、イチに酔い始めていた。
「これからどうする? カラオケでも行く?」
イチに聞かれて「そうだね」と答えた。
認めたくはないが、私はものすごく天然らしい。そしてツッコミを入れたくなるくらい、こういう事に鈍いのだ。
この時私は、何を歌おうかな……なんて呑気に考えていた。自分でもツッコミたい。そこは個室だぞと。
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