第240話

 ファスナーを閉めて完全に片付けは終わり。学園のピアノの調律にはあまり乗り気ではないサロメとしては、さっさとここから出たいわけで。


「悪いけどあたしはやらないわよ。メリットもないし。さっさとお帰りいただいてよろしい?」


 自分の通う学園にウイルスでも混じってしまったかのように、つまみ出そうとする。そもそも、どうやってここに入り込んだのだろう。


 うーん、とひとしきり考えたあと、なにか思いついたように明るい表情でカイルは提案する。


「調律したあとは弾いてみないとだろう? そう言った意味では僕は適任だとは思わない?」


「あんたに合わせたらここの生徒のためにならないでしょうが」


 真っ向から否定。だが彼の実力は正直、サロメにも計算外だった。今までにも上手いピアニストは何人か出会ったことはあるが、それをも超えてくるような。謙遜はしているようだが、この先、世界トップに食い込めるだけの可能性はあると見ている。


 なんだか旗色が悪いことを悟ったカイル。少し多角的に攻めてみることに。


「ランベールくん。彼の音はいいね。ピアニスト目線で調律してくれる。グラハムのほうのピアノも弾かせてもらったけど、メイソンの歴史を感じるような。あれはアレクシスさんの指導かな?」


 聞いた話によると、アレクシス・デビラートという人物は所属の人間じゃないという。脅迫してやらせたとか。やはりこのアトリエの人間達というものはどこかネジが外れている。


 それら全てを無視し、さっさとサロメは舞台横の袖のほうに消えて行こうとする。


「知らないわよ。じゃ、あんたはせいぜい捕まらないように出て行くことね」


 構っていられない。時刻はすでに夕刻。次も終わらせて早めに帰らなくては。


 元から静まり返っていたホール内だが、そこにさらにカイルは沈黙を刻む。


「? まだサロメさんは帰らないのかい?」


 今まさにスタインウェイのフルコンを素晴らしく調律し終えたばかりだというのに。より感情的に、歌曲が似合いそうな。そんな素敵な調律。


「あたしはまだ調律もう一台あんのよ。気が散るからついてこないで」


 踏み込むサロメの足に怒気がこもる。もしサッカーボールがあったら、強い踏み込みを軸足にしていいシュートが蹴れそう。


 しかしそう言われると天邪鬼に行動してしまうのがカイル・アーロンソンという男。やりたいように生きる、が座右の銘。


「へぇ。もちろんついていくよ。言っただろう? 暇なんだ。荷物持ちでも試弾でもなんでもやるよ。もし必要であれば、ここでリサイタルなんてのもいいね」


 そう勝手に決定すると、ウキウキのままキャリーケースを強奪し舞台袖に引っ込む。どこに行くかなどは知らないが、少しでも役に立ちたいという気持ちは本当。

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