第221話
問われたのはアレクシスだが、目線でランベールにパス。選曲に悩みつつもパッと頭に浮かんだもの。
「……ならアルカン『三つの大練習曲 第一番』」
言ってからクセの強い曲すぎたか? とちょっとだけ反省。いきなりだったから心の準備もできていなかった。
委ねた人物以外からのリクエスト。受けたグラハムは鋭い目線を投げかける。
「キミは? そっちが調律師だとして、キミは助手かなにかか?」
たしかパリでは有名なピアノ専門のアトリエと聞いていた。そこの人間なのだろうが、明らかに若い。そして中々に曲のチョイスが渋い。
「あぁ、すみません。ランベール・グリーンです。助手……みたいなものです。というか、フランス語。お上手ですね」
危惧していた言語の問題。あまりに流暢すぎてランベールは忘れてしまったが、普通に会話できている。サロメがワーワーとやりたくない理由の羅列していたが、これなら問題なかったじゃねーかとひとりごちる。
ポロン、と軽く鍵盤に触れながらグラハムは感触を確かめる。
「どうしても師事したい先生がいてね。必死で覚えた。まだ完璧ではないが、日常的な会話と音楽的な議論ならできる。ところで」
「?」
首を傾げるランベールに、ペダルなども踏み込みながらグラハムは自分なりに現状を把握した。
「キミはなにか俺を計測しようとしているね。いや、いい。そういうのは大歓迎だ」
それが選曲に出ている。だがそれが心を乱したり、ストレスになるようなものではない。お互いに初対面ということもあり、わからないことだらけ。これでいい。むしろ時間の無駄を省いてくれて助かる。
それには横で見守っていたアレクシスも同調。自分だったら選ばないが、中々に攻めたところは評価したい。
「面白い選曲だね。一音一音から情報を読み取ろうとしている。やはりCDや配信された曲よりも、生の演奏が一番効果的だ」
とはいえランベールも駆けつけで頼むような曲じゃないことは理解している。ある程度温まってからお願いしたほうが良かったかもしれないが、どんな反応をするかも観察の対象。そして。
「それもありますが、ただの楽しみでもあります。世界的なピアニストがこんな、自分のために弾いてくれるなんて美味しい話。ならとびきりに難しい曲を」
「悪い子だね」
アルカンという作曲家自体が、やはりモーツァルトやベートーヴェンなどと比べて一般的な知名度では劣るが、かなり面白い曲を残していることは周知の事実。そこを突いてきたことにアレクシスはなぜか満足。
何度か指をストレッチしながら、グラハムは無表情で細かく左手を注視する。そう、この曲は。
「……変イ長調〈左手のための幻想曲〉。これを選ぶとは。キミはピアニストか?」
ショパンなどを受けることが多かったが、この曲を受けたのは初めて。なんとなく、普通の調律師とは違うような気がする。もちろん、調律師でも驚くほど演奏技術が高い人物はいるが、それともなにか、不思議な違和感。
つい口をついた曲だけでそこまでバレるとはランベールも思っていなかったが、別に隠すことでもない。
「今はもう調律一本でやっています。今日は助手であり、勉強のために」
なんとなく少しだけ濁してはみる。大物相手にピアニストを目指してました、というのもなんだか腰が引ける話。齧った程度と謙遜しておく。
しかしこんな雑談を混ぜつつもグラハムは冷静沈着。彼がピアニストだったかなどどうでもいい。自分のやることに集中。
「これがグラハム・アーロンソンの超絶技巧だ。よく聴いておけ」
優しく。それでいて熱く。鍵盤に左手の指を走らせる。
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