第189話

「あーあーあー、食事くらい出てくるかと思ったんだけどね」


 すっかり暗くなったパリの街並み。クリスマスマーケットが近いこともあり、街には活気が溢れている。通りには様々な色の電球が備え付けられ、暖かみのある色で盛り上げに一役買う。ショーウインドウに並べられたクリスマスカラーの商品群を横目に、歩きながらサロメは落胆の色を見せた。


 お世辞にも仲が良さそうには見えない同行者、ベアトリスはギロっとした目だけ彼女の方に向ける。


「おい、なんでついてくる。先に出て行ったろう」


 現在は帰宅の途。パリは八区にある花屋兼自宅。そこに向かっているのだが。


 アトリエのある三区は逆。にも関わらず気にせず不満を言いながらサロメはついてくる。


「なんでって。夕飯まだじゃん。それに詳しく聞きたいね。あんたが何者なのか」


 何者なのか知りたい。が、ついでにご飯も食べたい。なら、家に向かうが手っ取り早い。そういう思考回路を持つ。


 なにをしても噛み合わない両者。流石にベアトリスも面倒になってきた。


「ただの花屋だと言っただろ。それ以上でも以下でもない」


 弟もいる。こんな面倒なヤツでも夕食を提供しかねないほどに、甘い弟が。一緒に仲良く食卓を囲む気はない。


 ただの花屋の店員にあの演奏は無理。ムストネンのような一音一音に感情の乗る『イスラメイ』、そして疾走する『新世界より』第四楽章。ムカつくけど。腹立たしさを感じつつもサロメは興味がちょっと出てきた。


「信じられるかっての。ねぇ、ブランシュ?」


「……」


 背後をトボトボとついてくるブランシュ。だが、俯き会話に入ってこない。なんで今ここを歩いているかさえ、よくわかっていない。ただ、なんとなくついてきてしまっている。


 反応もなく、虚な目をした彼女に、サロメは再度声をかける。


「ブランシュ?」


 するとようやく、跳ねるようにブランシュは顔を上げた。


「……え? あ、はい、なんでしょう……か」


 上げたものの、今ひとつ浮かない表情。なにか思い詰めたような、そんな悲壮感さえ感じる。


 反発するヤツ、勝手に落ち込むヤツ。中々に重い状況でサロメはひとり息を巻く。


「かー。こっちもなんか変だし。なんだっつーの」


「……お前こそ何者だ?」


「はぁ?」


 唐突にベアトリスから問い返され、首を傾けたままサロメは返事。


 一応は『こいつはできるヤツ』と認めたベアトリス。調律という、ピアニストの力だけではどうしようもない世界。ピアノには絶対に必要なもの。


「その歳でまるで熟練の調律師のよう、いや、それ以上だ。お前にはなにが『聴こえて』いる?」


 それを自分より若いであろう少女が、恐ろしい精度で仕上げている。ある意味で一番の収穫、なのかもしれない。


 互いに互いが不可解。なにかおかしい。それでもサロメの解答は平静。


「別に。普通よ。勘で調律してるだけ。結局は経験がモノを言う世界だし。座学なんて役に立たない。絶対のない、曖昧な世界だからね」


 事実、人によって聴こえ方も好みも違う。全員に合わせることは無理。ならば、ピアニストの求める音を。自分にできうる最高の音を。


「……まぁいい。それなりに楽しめた。だが、今日のことは忘れろ。いいな」


 別に争う気もない。サロメ・トトゥ。名前だけ覚えておくことにしたベアトリス。頼むことはないが。


 そのつんけんとした態度。なんとなーく。サロメには面白くなってきた。愛でる、ってこういうこと? サイズ的にもちょうどいい。


「なになにー? やってほしいピアノでもあんの? 詳しいことは家で聞こうか」


「帰れ」


 頭に乗っかった肘を払い落としながら、ベアトリスはスピードを速めて家路を急ぐ。そしてひとり、思考の海へ。


(……あのユニゾン。聴き覚えがある。いや、あいつではない。だが、一度だけ弾いた『あの』ピアノのユニゾンに。似ているな……それと——)


 チラッと背後を振り返る。その先には「?」と唇を尖らせたブランシュ。


「あの、なにか……?」


「……いや」


 すぐさま向き直り、電球輝くシャンゼリゼ通りをかき分けて進むベアトリス。


(……こいつも……なにかを隠しているな)


 その不可思議な想いと。白い息は混ざり合って、星の見えない夜空に舞った。







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