第186話

 メリハリのある力強い音の感触。そして大胆に転調など、本来は存在しないアレンジを効かせる。曖昧にぼかして聴衆に解釈をあえて投げかけ、その後に明確に答えを打ち出して遊ぶ。調性感に彩られ、音という形のない『なにか』が楽譜から顔を覗かせる。


 これには実際に調律を行ったレダも苦笑する。


(やれやれ。むしろ時間を経てより表現力が増している気がするね。ピアノだけ、音楽だけ学んでいるままでは手に入らないような、そんな音の波動、というのかな)


 なんとも言い難いが、鍵盤を叩く技術ではない、彼女の生き方から溢れ出る蜜のような。それが程よく音に絡まり、より複雑に味を楽しめる。


「……これが、本当のこのピアノの力……」


 素人からしても、以前よりも光り輝いているピアノの音に、呆然としながらリュカは呟いた。それまでに頼んだ調律師も全力でやってくれていたし、弾いてくれたピアニストも素晴らしいものだった。だが、さらに上がある。奥が深い。


 もっと音というものを知りたい。そんな欲が出てくる。


 その壮大な物語に華を添えるように、ヴァイオリンを担当するブランシュも、引き離されないように懸命に支える。が、以前チェロも込みで演奏したことのあるこの曲。その時とはまた違う、ベアトリスによる『新世界』。


(……本当にピアノだけで演奏しているのか、信じられないほどの圧力を感じます。背後に楽団を従えているような、圧倒的なまでの世界観……)


 そして『この人なら』と、奥歯を噛み締める。


 曲も終盤。静かにホ短調の第一主題に戻り、クライマックスには懐かしさを感じさせるように、本来であれば管楽器の長い和音をエコーのように締めくくる。だがあえて余韻を多く残すように短く切った。約一〇分。その演奏が終わる。


 ふぅ、と息を吐いたベアトリスは、すぐに立ち上がる。


「もういいな。帰るぞ」


 手ぶらできたのでそのままドアのほうへ。やることはやった。文句はないだろう。


 一瞬、我を忘れたレダだったが、たしかに役目は終えた。口を挟む余地はない。


「あ、あぁ。今日はありがとう……」


「これで貸し借りはなしだ。今後一切受け付けない」


 それだけ残し、ベアトリスはこの場をあとにしようとした。二曲もやる予定はなかった。疲れて歩く姿勢は悪い。すでに夕飯のことを考える。帰れば作ってあるだろうから、寄り道せずに。


 そこへ、躊躇いつつもブランシュが声をあげる。


「あ、あのッ!」


 そして再度、なにかに迷う。言っていいのか、悪いのか。言うべきか黙るべきか。その鍔迫り合い。言葉が絡まって、上手くまとまらない。

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