第181話

 ぼーっと分解されているピアノを見つめながら、ベアトリスは脅しにかかる。


「あのピアノ、一三〇万ユーロはするぞ」


「ひゃ——」


 いち高校生にはなにをしても払えなそうな額。口をあんぐりと開いたまま、ブランシュは目だけピアノに向ける。


 しかし話したい内容を持っているのはベアトリス。今、ここにはないモノにも触れる。


「お前の持っているヴァイオリンも。それくらいするかもな」


 ヴァイオリン、そう言われて、手元にあるケースをブランシュは大事に抱きかかえた。


「え? いえ、これはそんな——」


「もうひとつのほうだ。ストラディバリウス『シュライバー』。長らく行方不明だったらしいが。大事にしろ」


 持っていることをベアトリスは知っている。ここには持ってきていないようだが。


 しかし、そんなことは知らないブランシュ。一瞬ドキッとしつつも、落ち着いて問いただす。


「……なぜそのことを?」


 不可解。だが、なんとなくオーラがあるのは気のせいじゃない、と断言できる。レダさんから聞いたのだろうか。


 そんな熱視線を受け流すベアトリスは「ほら」とピアノを指差す。


「どうでもいいだろう。もうすぐ調律が終わる。お前もそこで聴いておけ」


 そろそろ準備をしておこう。なにせ疲れる曲だから。


「……? なんの、曲ですか?」


 試弾ということなのだろうが、表情からはどういう感情なのか読み取れない。まっさらで微動だにしないその様に、ブランシュは少し潜在的な恐怖も感じ出す。


 そんな怯えた精神を読み取ったかのように、ニヤリと笑みを浮かべてベアトリスは曲名を披露。


「バラキレフ『イスラメイ』。やれやれ、面倒な注文だ」


 言葉とは裏腹に、非常にまったりとした空気感。まるで寝る前のような。


 しかし曲名を聞いた瞬間に、背中を叩かれたかのようにブランシュは衝撃を受けた。


「——! ……あの曲は、作曲者本人ですら満足に弾けなかったはず……シフラやギレリスですら完璧には……! 正確に弾くことが難しすぎるため、楽譜には別の案が載せられている、あの……」


 あの。作曲家ラヴェルが『これよりも難しい曲が作りたい』と目標にした、人類の到達点。


 当然、ベアトリスはその情報もわかった上で今、リラックスしている。むしろ、さっさと弾いて帰りたい、ということしか考えていない。


「よく知っているな。名ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローが最も難しいと認めた曲だ」


 そんなことより、弟をたぶらかすヤツが〈Sonora〉に来ていないか、そっちのほうが気がかり。集中力を乱されそう。

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