第106話
「? なに? 早く、次」
なにやらひとりでブツブツ呟いているランベールを無視し、サロメは迷いもなくチューニングハンマーを決める。大きさが違かろうが、メーカーが違かろうが、ピアノはピアノ。全部調和させてみせる。
隅っこへと追いやられた親子だが、背筋を伸ばし、調律を見据えるヴェロニカとは対照的に、ユーリは気まずそうに言葉を探す。
「……あの」
「ちゃんと見ていなさい。あれが本物の調律師です。私が教えたものは、全て忘れてください」
技術よりも、ピアノにかける情熱。それをサロメとランベールから学んでほしい。ピアニストと調律師は、どちらが上、という関係ではないこと。ピアノを愛してもらうために。
「……忘れません」
力無く抵抗するユーリ。最後のレッスン。ということは、これが終われば、なにかを失ってしまう気がして、受けたくはない。間違った調律でもいいから、もっと教えてほしい。
「コンクールの優勝など、二の次です。もっとピアノを知ることから始めてください。私にできることは……ブリュートナーを輝かせることだけです。それを覚えていてください」
今日が最後の演奏になる。本当はもっと弾きたかった。だが、だからこそ、その一曲に全てを乗せることができる。曲は決まっている。気持ちとしては、息子を解放する嬉しさと、本当に引退する悲しさと。やっぱり悲しさが勝つ。
言いたいことはユーリにはまだまだある。最後の演奏。最後。
「……だとしても、彼らの調律でいいんですか!? 最後だなんて、それならいっそ、僕が調律を——」
「あの方々の調律は、私の知っている調律です。ユニゾンもタッチも。私が最も弾きやすいと感じていた調律を、そっくりそのまま再現していただいています」
曇りのない眼差しで、ヴェロニカは調律を見つめる。
その言葉の意味をユーリは上手く飲み込めず、問い返す。再現? 再現とは?
「……どういうことですか?」
深い説明を求めるユーリに、ヴェロニカは順を追って解説する。
「私が一番弾きやすいと感じたのは、チャイコフスキーコンクール後の、最初の録音を行った時のピアノです。その音源を彼女に渡してあります」
昨日、カリムにサロメがお願いしたこと。ピアノの移動、そして音源の確保。
「渡してあります、って……それじゃ、いや、まさか……そんなことが……?」
音源を渡して、それを再現する。当然ながら、人間の手作業で調律は行われる。機械のようにコピーができるわけではない。だが、それを再現する、ということは。ユーリはひとつの可能性に行き着いた。
それをヴェロニカも理解し、同意する。
「はい。サロメさんは、『録音の音源から八八鍵盤、全てを再現することができる』と断言してくれました」
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