第95話

 しかし、失音楽症によって、自身の音をしっかりと聴くことができず、目指す音が曖昧になったヴェロニカには、そういった感情はもうない。表舞台に立つことはない。


「いや、いいの。もうそういう問題じゃない。自分自身が納得できない音楽。それをみんなに届けるわけにはいかないわ」


 彼女なりのプライド。誤魔化したくはない。自分の音を。

 

「カッコいいね。だから好きなんだ」


 その生き様にサロメは胸を打たれつつ、その意志を尊重する。


 やはり、弾いてみたもののヴェロニカには、あまり音が頭に入ってこない。『鉄道』が弾けたのも、ただ単に体が覚えていたから。サロメの反応を見る限り、悪くはないものだったようだが、自身には感動がない。


「年を取って若い頃と同じ演奏技術を保つのは不可能。ただ、代わりに経験や譜読みで、違う形に進化していく。軽微とはいっても失音楽症は、それすら許してくれないわ。ユーリに教えるくらいなら、と思ったけど、それすらも私が足を引っ張っているわけね」


 きっと、ユーリはそれでも母からのレッスンや調律を熱望するだろう。しかし、それは彼の将来を閉ざすことになる。こっちも引き際か、と決意した。この瞬間、自身のピアノが全て終わる。


 しかし、それでも気になることがある。なぜ隠すのか。サロメは追求する。


「なんであの息子に言わないの? 別に恥ずかしいことじゃないじゃん、なる人はなっちゃうんだから」


 それゆえに、ややこしい話になっている。そして、それに付き合わされているこっちの身にもなってほしい。ま、こうして伝説のピアニストに会えたけど。


「あれだけやる気出されちゃうとね。もし私という目標があってピアニストになりたいんだったら、秘密にしといたほうがいいでしょ」


 あえて伝説は伝説として。追いかける背中があるからこそ、ユーリと繋がれている。そのためにヴェロニカは隠す。


 ふむ、とサロメも合点がいく。


「なるほどねぇ。だけど、厳しいこと言うと、今のままじゃ無理だ。地方の小さなコンクールくらいだったら、なんとかなるかもしれない。だが、チャイコフスキーコンクールは過去の優勝者を見ても、今でも語り継がれている人物ばっかり」


 そこに並ぶのには、あの子じゃ荷が重い。なにもかも足りていない、とサロメは容赦はしない。中途半端な優しさはこの人には通用しない。優しくする気もないけど。


「ちゃんとした先生に習ってくれたらよかったんだけどね」


 諦めに近いため息をつきながらも、ヴェロニカは笑む。子が慕ってくれるのは、それはそれでやはり嬉しい。だからこそ、甘えてしまっていた。だがそれも今日まで。決意はできている。

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