第82話

 少しずつ彼の感情の殻が剥がれてきたことに、サロメは面白さを感じ取る。今は『怒』かな。


「あんたが調律するよか何倍もね。まぁ、あんたが優勝できるほどの腕前があるならね。ほら、弾いてみなさいよ」


 と、ブリュートナーのフルコンを指差して、演奏を促す。が、予想自体はできている。


「……だからなんなんだこいつは」


 相手は女性。本気になることに多少の抵抗。ゆえに、ユーリの言葉の矛先は、連れのランベールに向く。


 それを向けられたランベールは、もうどうにでもなれ、と諦めた。


 そういった様々な思惑が渦巻くこの大広間で、あえて空気を読まない少女がいる。


「チャイコフスキーだし『白鳥の湖』なんてどう?」


 呼ばれたとは言え、ズカズカとラヴァル家に土足で踏み込み、掻き乱す。そういった刺激が楽しい。


 静かに怒りを溜めつつも、頂点を過ぎたあたりで少しずつ冷静さがユーリの脳内を占めてきた。言われた通りにするのは癪だが、さっさと帰宅してもらうには、従うしかない、と決めた。


「……いいだろう」


 イスに座り、蓋を開ける。なんてこともない、ただの試弾。いつもの通り。難しい曲でもない。


 その様子を確認し、サロメはランベールを手招きする。


「ランちゃん、ちょっと」


「なんだよ」


 一連の流れに呆れつつも、もう慣れているランベールは、適当にこのお嬢様の気が済むまで、やりたいようにやらせる。というのも、たしかにユーリの強情さには少しムッとするところが、彼にもあった。もう、この際どっちもどっち。


「あんたはピアノの真横で」


 と、サロメに場所まで指定される。


「?」


 まぁ、ピアノや音の関して、こいつが適当なことはほとんどない。なにか意味があるのだろう。そう決断してランベールは位置につく。


「では」


 掛け声とともにユーリが弾き始める。


 チャイコフスキー『白鳥の湖』より『情景』。バレエといえば、という曲の代表でもあるこの曲。バレエは白いチュチュ、と思い浮かべる人も多いが、それはこの白鳥の湖が発端となっている。


『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』と並び、チャイコフスキーの三大バレエのひとつであるが、台本は誰が書いたのかも不明。振付師が作ったと言う説や、モスクワ帝国劇場の館長が作った、など様々な説があり、未だ不明。元はムーゼウスの童話『奪われたベール』が濃厚。


 そしてオーケストラの難解すぎる譜面を指揮者も上手く表現できず、主役のオデットを演じる予定だったバレリーナは、仲間のダンサーと駆け落ちして解任されるなど、初演はとんでもない大失敗だった。その後、振付やストーリーが改められ、世界的にヒットという今に至る。


 その悲しげで憂いのあるピアノの弱音。クレシェンドしつつ、少しずつ華やかに輝きを増していく。切なくも魅力的な音。


 それにランベールは吟味しながら、耳を傾ける。腕前は、まぁ上手いほう。


 (……素人が調律したにしては、いいのではないだろうか。もちろん直すところはあるが、悪くない)


 最低限、という印象。これで「調律ができる」と言われるのも癪だが、習っていないにしては整っているか。しっかりと調律師が調律すれば、腕を加味するともう少し上にいてもいい。


「どうだ?」


 弾き終わり、ユーリは感想をランベールに求める。


「上手いです。ただ、まだ判断しかねます」


 なんとも煮え切らないものだが、実際難しい。というのも、なにを基準にしたらいいのかわからない。コンクールを狙う人物という点なのか、素人の調律にしては、という点なのか。曖昧なことしか言えない。


 もちろん、ユーリとしても試弾程度の慣らしであるため、全力とはいかない。難易度も低い。手を抜いているわけではないが、まだ限界ではない。

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