第72話
急いで立ち上がり、向かおうとしたブリジットだったが、一瞬思い詰め、サロメのほうへ向き直る。これから先、プロになれたとして。自分の『音』を追い求めるとして。その姿を想像する。その時、どんな音を響かせているか。
「……強いて言えば……もう少し倍音を効かせたい……かな。ショパンなら、やっぱり歌うような響きのある感じで弾いて——」
「あなたはどうしたいの?」
「え?」
自分の理想とするのは、ショパンをより美しく。だが、このサロメという少女は、それは違うという。勇気を出して要求をしたブリジットだったが、なにか間違えたのか、と目が点になる。
こういうことでしょ、とサロメは目でルノーに合図を送った。
「ショパンの正しい弾き方はショパンにやらせればいい。コンヴァトの講師は、今の段階だと楽譜通り弾けるよりも、未来の可能性を感じる子にレッスンをつけることが多い。それにこの残響。真面目に弾くより、もっと遊びなよ」
大きく手を広げて、教会全体をサロメは示す。本当のあなたの音はどれ? あたしなら、全てを叶えることができる。ショパンなら、じゃない。あなたなら、この譜面をどう弾きたい? そもそもショパンとは楽器そのものが違う。
「……」
押し黙るブリジットだが、ひとつの事象が頭をよぎる。それもショパン。
えてして、独自の解釈というものに賛否が巻き起こるのは、自明の理である。かつて、世界で最大といって過言ではないショパンコンクールにて、大事件が起きた。
イーヴォ・ポゴレリッチ。
この名前に反応する人も多い。技術だけでいえば、おそらく世界でも一〇の指には入るであろう実力者。だが、あまりにもショパンの曲をアレンジしすぎて、コンクール向きではない、の烙印を押された男。だが不思議と、彼のピアノには惹きつけられるものがある。
まるで『天使が舞い降りた』とも称される、弱音の心地よさ。音の柔らかさや響きも極上。だが、ピアニッシモをフォルテッシモに、レガートをアパッシオナートになど、時折真逆の演奏する独自の解釈。それを良しとしない審査員が、予選で落としたのだ。
それに対し、当時同じく審査員を務めていたアルゲリッチが、彼の実力を正しく評価できない他の審査員に激怒し、降板した、通称『ポゴレリッチ事件』。コンクールとなると、吉と出るか凶と出るか、運によるところが大きい。
だが、未来の自分を想像したブリジットは、覚悟を決めて賭けに出る。
「……ソコロフみたいな、キレが欲しい。この残響に負けないためには、歯切れのよさが必要」
グレゴリー・ソコロフ。『神』『幻』とまで崇める人もいるほど、その音の粒立ちはまるで真珠のように力強く、それでいて柔らかい。二〇世紀を代表するピアニストのひとりだ。
受け止め、サロメは笑う。
「あれは真似できるフォルテッシモじゃないんだけどね。ま、となるとアクションをいじるか」
またもキャリーケースを開け、針を取り出す。弦を叩くアクションハンマーの弾力や固さを調整するものだ。調律だけのつもりだったが、整音、つまりアクション部分を改善することで、さらに望み通りのタッチに近づける。当然、時間はかかる。
残り時間を腕時計で確認したブリジットは、驚き慌てる。
「今から? もうあと少しで始まるのに?」
あと三〇分もない。軽く弾いて感触を確かめる時間を考えると、二〇分ほど。調律に詳しいわけではないが、そんな急ピッチで変えていいものか、気が気ではない。
だが、当のサロメは気にせず、頭の中で構築し直す。時間のせいにして調律をサボろうとするなら、その人は調律師なんて職業は辞めたほうがいい。そう考える。
「全く……」
ソコロフのようなスタッカート。鍵盤のレスポンス。倍音や和音の響き。全て頭に入っている。ショパンを一度崩し、さらに再構築する。そのためのピアノ。
「誰に向かって言ってんの?」
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