第50話
「言ってた、『共鳴雑音』に当てられたんだろうって。耳がいいけど、逆にそれが原因らしいね。たまにそういう調律師いるけど、ここまでひどいのはサロメちゃんぐらいだろうって」
ジャズのリリシズムに酔いながら、アトリエの仲間から言われた言葉をマチューは告げた。そのおかげで今、ピアノには人だかりができて、新しい名物となるのだろう。複雑な気持ちだった。なにかを得るためになにかを犠牲にしたような。
「調律師としては失格です。終わらせることができなかったんですから」
悔しさだけが残る。サロメはあの女性と約束した、完璧なものにすると、世界を繋ぐと。それを破ってしまった。結果だけ見れば、繋がったのかもしれない、あの人のおかげで。
「そんなことないよ、すごくいい調律だって言ってた。タッチも音の質感も申し分ないって」
あの人褒めてくれたってことは、あたしも上手くなっていると思っていいのだろうか。いや、そんなこと言うだろうか。マチューのフォローは、この人の優しさなのではないか。疑ってもしょうがないので、ここでサロメは思考を切り替える。
「お腹空いてるでしょ、戻ってご飯にしよう」
「……はい」
言われてサロメは思い出す。最後の食事は、昨日の調律終わりにクロックマダムをかじっただけだった。自分でもここまでなにも食べないのは初めてかもしれない。色々片付いたからか、お腹が空いてきた。時刻は一八時。食事が出来上がるまで、ここでもう少しピアノを聴いていたい。
その後も演奏者が変わって、セミプロのピアニストも来てたらしい。曲はミシェル・カミロの『ON FIRE』。さすがセミプロだけあって、あの激しい曲が書店にマッチするアレンジが利かせてある。まるで元からBGMとして作曲されたかのようだ。ただ、火というのはなんか燃えそうで怖い。
「準備できたよ、冷めないうちにね。裏メニューだから、ひっそりね」
と、マチューからベーコンとポテトのキッシュを渡された。ひっそりと、と言われたが、とりあえずテラス席へ。体調はまだよくないが、食べていればそのうちよくなるだろう。エスプレッソもいただき、至れり尽せりだ、とサロメは感謝する。
夜風が冷たい。汗をかいていたので余計に冷える。それゆえにキッシュとエスプレッソの温かさが染み渡る。とりあえず、調律はまた馴染ませてからするとして、誰か他の人がやるのだろうか。ここは特別な場所の気がする。自分が本当なら請け負いたいが、また迷惑をかけるかもしれないし、店長か社長がダメというだろう。ランベールは行けと言うだろう。
「まいったなぁ」
ため息とキッシュとエスプレッソの熱が、上空へ消えていく。いつか冷やされて雨か雪として降るのだろうか。サロメはそんなことを考えていた。
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