第49話

「あ」


 ゆっくりとサロメが瞼を開けると、そこには書店のオーナー、マチューが一番最初に目に飛び込んできた。


「起きた?」


 起きた? なんのことだろう、そう思い、ふと記憶を辿る。自分は調律中だった。正確には、調律が終わったあたりで、次に整音に入ろうとしたところまでは覚えている。ハンマーのファイリングに、板ヤスリとピッカーを取り出した後、そこで記憶は終わる。


「……? なにが起きたんです……?」


 体調は最悪だが、サロメは起き上がって状況を確認する。今、ピアノはどうなっているのか。店に迷惑かけていないか。いや、存分にかかっているか。


「いきなり倒れちゃったんだよ。覚えてない?」


「倒れ……? あれ、だってあたし」


 と、サロメが言葉を紡ごうとしたが、マチューが制す。


「いいから、寝ときなって。やっぱ無理しちゃってたんだよ。いや、無理させちゃったのはこっちだ。ごめんね」


 優しい目で謝罪をしてくるマチューに、申し訳なさに襲われてサロメはそれでも調律を続けようとする。


「いえ、そんな、でもまだ途中で」


「それなら大丈夫。同じアトリエの人が来てくれたから。四〇歳くらいで大柄な男性。本業があるって帰っちゃったけどね」


「本業……?」


 じゃあ今、ピアノは……と、体調の悪さとマチューの制止を振り切って、サロメは室内を飛び出す。どうやら二階の控室だったらしい。階段に向かってふらふらと歩き出す。


「ちょ、ちょっと! 危ないよ」


 マチューが後ろから追いかけてきたが、追いつかれると、肩を持って支えてくれた。感謝しつつ、階段を二段ほど降りたところから、少しずつ聴こえてくる。ピアノの音だ。ドビュッシーのアラベスク。優しくて、書店でかかっていても心地いい選曲だ。


「あの女性……」


 演奏者を覗くと、見覚えがある。昨日の女性だ。弾きにきてくれたんだ、と喜ぶと同時に、気になっていたところが耳に入ってくる。途中だったハンマー。だが、


「……本当に終わってる……いいハンマー……」


 音量を抑えつつも、濁りのない見事なファイリングが、遠くからでも聴いてわかる。グロトリアン・シュタインヴェークの強みを理解した、力強くも優しい音色。サロメは笑みをこぼした。


「馴染むまで数回調律しなきゃだから、また来るって。その人が空いてる時に」


 あぁ、あの人はすぐに理解したんだろう。美味しいところだけ持っていかれたな、とサロメは苦笑した。あの人はいつもそうだ、いつもいないくせに、ここぞという時にいつの間にかいる。


(そっか、あたし、失敗しちゃったんだ)


 演奏者が変わる。今度は黒人の男性だ。弾いている曲はクラシックではない。ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビイ』。ジャズだ。ピアノはこんなにも自由。

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