第31話
と、内心では毒づいているが、それを表情に見せない。これはこれでプロなのかもしれない。
《はい、えーと、エラールだしリストを弾いてください、ってリクエストきてますんで、じゃあ『愛の夢』やりましょうかね。結構難易度もあれなんで》
あれ、とは簡単ということなのだが、なんとなく自分の実力を低く伝えることになりそうで、誤魔化しつつパスカルは指を走らせる。あまりクラシックは弾かないのだが、こういう時のために何曲かはストックがある。元々はクラシックからピアノは入ったクチだ。
(……ん? やけに入りがスムーズに……ん……!)
昨日運び込まれた時にも弾いたが、その時は疲れるわ音が響かないわで、やっぱりエラールといっても古いものはこんなもんだな、と半ば諦めていた。 しかし、
(おいおいおい、嘘だろ! 昨日と全然違う! タッチが指に吸い付くような、それでいて指離れもいい、まるで上質なシルクみたいな鍵盤の感覚! 濁りがなく、それでいて昔のピアノの古典的な渋みのある音色!)
よく調律されたピアノは、いわゆる『レスポンス』が違うと言われる。一音一音が粒立ちながらも、滑らかに次の音に繋がり、そこに各メーカーの倍音や弦の共鳴、音域のレンジの広さなどで違いが出る。エラールはクリアな音色で、ショパンに「エラールなら細心の注意なく弾いても美しい」とまで言わせたほどだ。
(これが、本当のエラールなのか!)
透明感と丸みのバランス。現代のピアノとは違う平行弦を使った、繊細で歌うような響き。それがサロメの調律により蘇る。
先ほどまでサロメに対し懐疑的であったコメントも、『なんかいつもより響いてる』『いい』『CD買うわ』『マジでこれサロメちゃん?』と、電波越しでもわかるほどに反響がある。ピアノの弾きやすさは、聴く側にも心地よく届く。
「コメントすごいですね。手のひら返しが」
「まぁ、プロじゃなくてもわかるくらい、音の伸びや粒が際立ってるからね。いやはや、初めてとは思えないね」
特にエラールは二〇世紀半ばに工房が閉鎖されているため、触る機会自体珍しい。さらに弦も現代のピアノと違うため、ピッチを合わせることすら困難である。しかし、様々なピアノを触れることで経験を積めば、自ずと最高の状態が見えてくるのである。
「これでアトリエ・ルピアノも広く知れ渡るといいね。電話準備しなきゃ」
演奏を聴き終えたロジェは、気を取り直して開店準備に向かった。調律以外にも、中古ピアノの販売や査定依頼なども増えるだろう。やることは多い。
そんな中、まだ画面を凝視しているランベールには、腑に落ちないところがある。
「しかし、結局あいつの言ってた『血祭り』はなんだったんですかね。今のところ、なにも問題なく終わりそうですけど」
むしろ、変態マゾ野郎の評価が上がってしまったような気もしているのだが、サロメの意図はなんなのだろうか。あいつのことだから、最後までこの絵の結末は見えているだろう。
やれやれ、と予想がついていたルノーが質問に答える。
「今日のパリの気温は何度?」
「最高気温で六度ですね」
「今のピアノのある室温は?」
「二五度くらいの設定ですかね、たぶん」
「このあと運び出して、何分くらい外に置く?」
「一四時かららしいんで……三〇分くらいですか」
「二〇度近く温度差がある場所に三〇分間置いておくと、ピアノはどうなる?」
「あ」
「そういうことだろうね」
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