第6話

 このアパート、明らかに二人で住めるものであることはわかっている。ダブルベッドや、単身の老婆には広すぎるといっていいリビング。長年住んでいるのか、壁や床に傷が目立つ。


 ピアノに目をやると、メラニーは優しく笑いかけた。まるでピアノがおじいさんであるかのように。


「いつもこのピアノでオー・シャンゼリゼを歌ってたわね。もうあの人、下手ったらなくて」


 オー・シャンゼリゼ。パリのシャンゼリゼ通りをイメージして一九六九年にジョー・ダッサンが歌い、大ヒットした、フランスを代表する曲である。明るく弾けるようなリズムで、歌っていると朗らかな気持ちになるシャンソン。世界中で流行したため、歌手は知らなくても歌を知っている人は多いだろう。


「下手なのに大きな声で。辛いことがあっても、この歌を歌ったら、辛いのはそこでおしまいってルールだった」


 声のトーンを落とし、メラニーは窓を見る。いや、窓ではなく、その先、空を見ているか。たっぷりと数秒かけたあと、視線を部屋の中に戻し、笑顔を作った。


「でも、その声も、ないならないで寂しいものなのね」


 笑顔だが、どこか寂しい。なにか心にぽっかりと穴が空いたような笑顔だった。


「……本当に愛してたんだね」


「ええ……そうなのかもね」


 心情を察したサロメは、優しくメラニーに語りかけ、メラニーもそれに応える。


 ランベールもその雰囲気に気付き、カリカリと書いていたペンを止めた。場を包む空気がどこか憂いを帯びていることに気づいたからだった。目をつむり、同調する。


 だがその空気に悲しさや寂しさは感じなかった。感じたのは


『怒り』


 だった。


「老人ホームで浮気なんかしてなかったらね」


「ん?」


 サロメとランベールはお互いに顔を見合わせた。3秒ほど口を開けてフリーズする。「マジ?」と口パク。


「さっきのいい話で終わりじゃなかったの?」


 失敗したジェンガのように、予想が崩れたサロメがメラニーに詰め寄る。なんで空を見たの?と言わんばかりに。


「いい話? なに言ってんのよ。おじいさんまだ生きてるわよ。あんな男、浮気相手にくれてやったけど」


 さっきまでの憂いを帯びた表情はいつの間にか消え去り、メラニーは険しいものに変化していた。「あぁもう」と思い出したらしく鼻息が荒くなる。一気に血圧上がったりしないか心配だ。


「……今のは死んでる流れでしょー……」


 と、不謹慎だと思いつつも、サロメは本音が漏れた。口には出さなかったがランベールも同じことを考えていた。


「いい? 男の『もうしない』は嘘よ。『もうバレるようにはやらない』よ」


 次々とおじいさんへの愚痴を言い出しかねない状況であり、ストックは相当ありそうだった。夫婦で三〇年連れ添っていれば、それなりに色々ある。


「いや、浮気一回じゃないんかい」


 若干ひきつつあるサロメは、すでに興味を失ったランベールに視線を向けた。

 

「フランスの男はしょーもないねぇ」

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