塔の管理人

第2話 逆さの塔

 オルランディアの個性豊かな四つの街も、このときばかりは一様に静まりかえった。


 スリの獲物を探す子供、点検に駆けまわる整備士、会議の途中だった四人の町長までもがわざわざ外まで駆け出て空をあおいだ。


 あんぐりとく口。見ひらかれる瞳には、遠い昔にオルランディアが繁栄と引き換えにして失った『青』が、鮮やかに映りこむ。


 常にたれこめる暗雲はどこにもなかった。

 かわりに、洗濯したてのような純白の雲がひとかたまり、ぽっつりと干されてある。


 人々の視線が集まるなか、いままさに雲を切り裂いて、が現れようとしていた。


「南南西に二五五リュール……」


 繁華街ソルティアの大通り、立ち尽くす人混みのなかでいち早く我にかえったグレイは、すぐさま腕時計から光線を放って位置の測定をした。


旧市街ペルポネのほうか。いや、中心街ナツネグ? ま、どっちにしてもこの距離じゃあ壁は越えないな」


 独り言の語尾は盛大なあくびに濁される。


 背格好こそ若々しいものの、黄昏色の目にどんよりぶらさがるクマのせいで、二十代にも三十代にも見える男だった。曇天を思わせる灰色の髪は、後ろの上半分だけが小さな団子にまとめられてあったが、毛量の軽減と寝癖隠滅が目的の大雑把なできばえである。


 首にぶらさげていたゴーグルをかけ直すと、よりかかっていたバイクにひらりとまたがって、左右のレバーを交互に握りこむ。


 たちまち彼とその愛車は人の群れから飛び上がって、無数の煙突、鈍色のパイプが立ち並ぶ空へと踊り出た。錆びついて艶のない黒い車体を、オンボロバイクと揶揄されることも多々だが、ほかのどの飛行機能付き蒸気二輪車よりずっと高く精確な飛行ができる——とは、製作者でもあるグレイ本人の談だ。


 いつでもうす暗く濁ってろくに見通せない繁華街ソルティアの街並みが、密集する建物、その隙間を縫う迷路のような道の一本一本まで、はっきりとたしかめられた。反対に、曇りの下ではまっさきに見つけられたはずの灯りが、どれも青空のまぶしさに隠れてしまっている。


「カメラ、レコーダー……しばらく使ってなかったけどまあ、動くよなたぶん」


 腕時計のつまみをあちこちいじりながら、うわの空で呟く。周囲に人がいないと、つい思考を声に出してしまう癖が彼にはあった。


「じゃ、いっちょ仕事しますかね」


 南南西二五五リュール先をめがけて、グレイを乗せたバイクは空を駆けだす。


 蒼天に白い筋が引かれていくのを、繁華街ソルティアだけではなく中心街ナツネグ旧市街ペルポネ邸宅街シュガリエで空をあおぐすべての住民たちが目にした。


 雲のかたまりからは、いよいよ建造物らしきものがはっきりと姿を見せはじめていた。

 灰白色の煉瓦に覆われたそれは、空を突き破るように逆三角のかたちをしている。


 やがて人々がうっすらと想像していた通りに、その上に真っ直ぐ円柱が伸びると、ようやくぽつりぽつりと小さな呟きが生じる。


「塔だ」

「逆さの塔が空から生えてきた」

「——見ろ! 女の子がいるぞ!」


 逆になる屋根のすぐ真上、開け放たれてある窓辺に、片手だけでぶらさがっている少女の姿があった。「危ない! 落ちる!」「誰か助けに飛べよ!」「おい、あのバイク、ボンクラ記者じゃねぇか?」ざわめきが広まって、オルランディアらしい喧騒が舞い戻る。


「ボンクラーっ! 上見ろ、上!」

「女の子がいるぞ! 早く助けにいけ!」


 うわ、とグレイはうめいた。

 少女に気づいたからではない。観衆にせっつかれる前から、誰より先に見つけて、いままさに助けようと最大速度で飛ばしている。


「俺、この街にこんな知名度あったんだ」


 顔つきに特徴があるわけでもなし、この街にはたくさんいる新聞記者の一人として、地味に目立たず過ごしてきたつもりが、思いのほか認知されていたことにおどろいていた。


「にしても『ボンクラ』って……」


 名誉を求めているわけではないが、あまりに不名誉すぎる認知のされ方だった。


 一方で塔にかろうじてひっかかる少女——ナジャの腕は、限界を迎えようとしていた。


 下塔のタイミングがよくなかった。オグルが飛び立ってすぐだったために、窓が開きっぱなしだったのだ。少女のからだが床にぺしゃんこになることはなかったが、そのかわりこうして窓から放り出されることになった。


(勝手に下塔させたヤツっ! 誰だかわかったら、天界からぶんなげてやる……っ!)


 下塔を行えるのは大天使よりも上の階級、おそらくは貴天使の誰かだろうと思われた。おおかた目星もついている。地団駄を踏みたいところだったが、両足とも宙をぶらついているためにそれもかなわない。


「もぉーっ! 翼があれば!」


 首を伸ばせば、奥の壁にかけられる翼が見つけられたが、この状態から手に取る術はない。見るのもうんざりしていたはずの白が、いまはなによりも恋しくてしかたがない。


 ついに指が窓枠からすべり落ちる。


 人間が介入しなければ天使は死なない。だが死なないというだけで、やはりぺしゃんこにはなるのではないか——靴下や綿枕が浮かんでは消えていく。はらりと、涙が散る。


 だが、思いのほかすぐに、しかも優しくからだは着地した。


 地面とはこんなに柔らかく温かいものなのか。きつく閉じていたまぶたをおそるおそる持ち上げたナジャは、そのまま硬直する。


「っぶな……寿命縮むかと思った」


 大袈裟に肩をすくめながら、ため息をついた見知らぬ男。彼の腕に抱えられた状態で、いまなお空にあることはすぐに察せられた。


 問題はその背に翼が見られないことだ。


 おもむろにゴーグルが外されて、クマをたずさえた黄昏色があらわになる。


 グレイはいぶかしむように目を細めながら、腕のなかで石のように固まる少女の顔をのぞきこんだ。


「つーか嬢ちゃん、やっぱ人間じゃないな。羽みたいに落ちてくるなんて。いったい何者……って聞きたいとこだけど、まずはこっちから自己紹介するのがマナーってもんか」


 あくび混じりに、そのうえ腕時計をいじりながらの態度は決して紳士的とは言えなかったが、対するナジャは美しいターコイズの瞳をどこかへやって白目をむきだしにする。


 薄くひらかれてあった、さくらんぼ色のくちびるがわなわなと震えだし、


「うわあああー‼︎ 人間ッ、人間だああー‼︎」


 地上にまで響く大絶叫と共に、気絶した。

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