逆さの塔のナジャ

はるかす

プロローグ

第1話 下塔

 にわかにうなずける話ではない。

 ナジャは寝ぐせのついたまつ毛を、小鳥の尾のようにしばたかせた。白いまぶたにぬくぬく甘やかされていたターコイズがあらわになるのは、およそ半日ぶりのことであった。


 波打つ白金の髪が敷かれる寝台は、円柱の塔の屋根裏部屋をほとんど独占していた。

 壁際には、衣類やら雑貨やらが手当たり次第に詰めこまれた棚と、漫画本が無秩序に並べられた本棚が窮屈そうに寄りそう。

 いずれも窓辺からにじむ茜色のなかだ。


 日中のほとんどを寝台で暮らすナジャでも、さすがに寝すぎたと思った。


 近ごろ寒くなってきたからと、掛け布を変えたのがよくなかった。冬がいけない。毛布がいけない。明け方まで漫画を読みふけっていたことなどは、都合よく忘れ去られた。


(そうだ。きっとあたし、寝ぼけたんだ)


 浮かされた足が、空中であぐらに組まれる。白いワンピースが腹までめくれあがるのも気にせず、弾みをつけて起き上がった。


 そのひょうしに、弾力たっぷりのぐみ枕が落下して、床でダムッとバウンドする。


「あらあら」


 足もとに転がったそれを、老女が拾う。

 もぐらのようにずんぐりした体躯たいくには、純白の翼が一対、重たげに背負われてあった。


「ナジャさま、落とされましたよ」

「あ、ありがとオグル……」


 毛布の上にあぐらをかいたナジャは、受け取った枕ごしにちらとオグルをうかがった。

 瞳の色がわからないほど垂れた目も、袋のような頬もいつもと変わりない。さきほどの言葉は、やはり聞きまちがいだったのだ——


「……それでさ、あたしちょっと寝ぼけてたみたいで。さっきの話、もっかいいい?」

「ええ、もちろん」


 うなずいたオグルは、一度目と同じように天気の話でもするような口調でくり返した。


「今朝の大天使会議で、正式に下塔が決定されました。今日じゅうに塔を地上へおろすそうなので、ナジャさまも共にくだれるよう、今夜は外出せず待機なさっていてください」


(聞きまちがいじゃない……!)


 怠惰な生活ですっかり頭から抜けていた事柄が、いまさらになって思い起こされる。

 あたかも使用人のようにふるまうオグルは、実際には大天使秘書官という立場で、彼女が仕えるナジャは当然大天使であった。


 その使命は塔の管理。

 つまり、降って湧いた仕事の話だった。


「ちょっと待って、いきなりすぎる!」

「あら、ひと月前から議題にはなっていましたよ。ナジャさまはずっと欠席ねぼうされていましたけど……議事録、お渡ししてましたよね」


 おおげさな咳払いがあった。


「……それでもちょっと急すぎだって! それってつまりは、もう地上を流しちゃうってことでしょ。いまの創世があったのって、ちょうどあたしが創られたころだったよね」

「ええ、ですが地上は天界こちらより、はるかにせわしない時のなかにありますから。ナジャさまが十七の春を迎えるあいだに、あちらでは幾千の春が通り過ぎました。準備をしておくには、ちょうどいい頃合いかと」


 いくせん、と少女は震え声で呟く。


「な、なにそれ初耳なんだけど……」

「あら、もしかしたら資料から漏れてしまっていたのかも……前任者さまもけっこう、そそっかしいところがおありでしたら」


 『天界のいろは』、『大天使の心得』、『塔の管理人引き継ぎ書』……ろくに目を通さなかった書類の数々は、どこかの棚の奥のほうでくちゃっと丸まっているはずだった。記載漏れよりも、単なる確認不足が濃厚だ。


 ナジャはごろりと寝台に背中を預けた。


 投げやりに目をやった先で、上着と並んで壁にひっかけられる真っ白な翼を見つける。

 天使の制服ともいえるそれは、見ているだけで辟易とさせた。背負ってなくても肩がこる。あーあ、とため息をつきたくなる。


「今回の下塔は、ナジャさまの勤労意欲を育てる目的もあるようですよ。連日の会議欠席に、一部の方々がだいぶお怒りで……」

「あー……」


 天界人の多くは仕事熱心に創られている。


(なんで神様は、塔の管理人にあたしみたいなの創ったんだろ)


 塔の管理人の仕事は、新旧世界の引き継ぎ作業。いつ終末が訪れてもいいように、あらかじめ世界から滅ぶべきでない遺物を回収しておいて、次の創世まで塔で保管する。


 責任感は必須だろうが、自身にそんなものは見つからない。さすがに使命アイデンティティなので、駄々をこねて逃げだしたりはしないが、正直な感情はめんどくさいが七割、

 ——こわい、が三割。


 オグルいわく、前任の塔の管理人は、終末と創世のはざまで命を落としたという。


 天使の生は百年。

 定められた理を断てるのは人間だけだ。


「くれぐれも、人間に恋をなさらぬよう」


 珍しく真顔になるオグルの言葉を、このときばかりはナジャも笑い飛ばさなかった。


「わかってる。なるべく近づかない」

「……安心しました。それではナジャさま、名残惜しいですが私はそろそろ出ます」

「えっ、オグルは一緒じゃないの?」


 ナジャの秘書官であるオグルも、当然この旅路についてくるものと疑っていなかった。

 だが彼女は、困ったように眉を落とす。


「それが、同行を禁止されまして」

「なっ、なにそれ!」

「その……私が甘やかすせいで、ナジャさまが塔から出てこないのではないかと……」

「…………」


 完全に、ナジャの自業自得であった。


 最後にオグルはナジャを抱きしめた。

 背中にまわされた短い腕の力強さは、長いあいだ塔の掃除を請け負ってきた証だった。ナジャが創られてから十七年、常にそばにあった彼女と、はじめて別れることになる。


(……あたしひとりで、やっていくんだ)


 オグルが飛び立つなり下塔がはじまった。


 合図もなにもなかったので、ナジャからすれば、唐突に床が消え失せたのだった。


「うわっ⁉︎」


 とっさに寝台にしがみつく。

 積んでいた漫画がバサバサと羽ばたいた。


 筒状になる塔の中を、慣れ親しんだ家具たちと落下していく。重力に押さえつけられる頭をどうにか持ち上げて見まわせば、天井も壁も、寝台のはしからのぞける底も、すべてが黒々とした影に塗りつぶされてあった。


(このまま落ちきって大丈夫なの……?)


 脱ぎっぱなしの靴下、先日捨てた綿枕……あらゆる『ぺしゃんこ』が走馬灯のようによぎるが、翼のないナジャになす術はない。


 ぎゅっと目を閉じて、天に身をゆだねた。

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