第2話 第一章 無信仰者は祈らない
第一章 無信仰者は祈らない
白い空間が広がっている。広い世界にはなにもない。まるで漂白された海中のような、空間や時間という概念すらない、そんな場所。
そこに一つの魂がいた。生まれる前の状態なので自分が誰かも分からない、体もないので目も耳もない。そんなぼんやりとした意識が辺りを漂う。
「ようこそいらっしゃいました。はじめまして。わたくしは人々が住まう世界、天下界(てんげかい)の案内を務めさせていただいております、名もなき案内人にございます」
そこへ声が掛けられた。正確には声ではないのだろうが耳がなくてもなにを言っているのか分かる。
「申し訳ありません、驚かせてしまいましたね。この世界には神が住まう天上界(てんじょうかい)と人々が住まう天下界があります。そしてここはその中間、輪廻界(りんねかい)になります。あなたにはこれから天下界に行っていただくのですが、人として生まれ祝福されるその前に選んで欲しいものがあるのです」
人として生まれる前に選ぶもの、それはいったいなんだろうか。
「選んでいただきたいものとは、あなたが天下界で生きていく際の『神理(しんり)』、要は信仰になります」
人として生まれる前に選ぶもの。神理。神の理(ことわり)と書くもの。
「輝かしい誕生を前にして言いにくいのですが、人生とは幸福ばかりではございません。ですが人生の苦難に立たされた時、あなたの信仰が道を示してくれるでしょう。これは親や環境に左右されることなく、自分の意思でどの神理を信仰するか選択できる配慮なのです。あなたが選び、あなたが生き方を決めるのです」
何を信仰するか。それは生き方にとても影響してくる大事なことだ。習慣も、食事も、それは結婚まで関わってくるだろう。信仰に人生を左右されると言っても過言ではない。しかし、その大事なことを親や環境によって決められてしまったら? それほど不公平なことも不幸なこともない。これはそうしたことがないよう配慮したことのようだ。
「よろしいですか? では、どのような神理があるのかご案内をさせていただきます。天上界(てんじょうかい)には三柱(みはしら)の神がおり、選べる神理も三つとなっております」
人生が始まる前の、最初の選択だ。
「第一の神理は、苦しんでいる者を皆が助ける思想。皆は一人のために。一人は皆のために。誰もが相手を助け思いやることで、苦しみはなくなり皆が幸せとなるでしょう」
それが第一の神理――慈愛連立(じあいれんりつ)。
「第二の神理は、己を鍛え強靭(きょうじん)な肉体と精神を身に付けることにより感じる苦痛を無くす思想。誰もが強き者となることで、苦しみはなくなり皆が幸せとなるでしょう」
それが第二の神理――琢磨追求(たくまついきゅう)。
「そして第三の神理が、己の内から苦痛を無くす思想。欲を捨て物事を達観することで、苦しみはなくなり皆が幸せとなるでしょう」
それが第三の神理――無我無心(むがむしん)。
説明された三つの神理に魂は考える。
「これらが選べる三つの神理となります。あなたに合った神理はどれでしょうか。どれも方向性は違えど、きっと役に立ってくれるはずです」
重要な選択なだけに答えに迷うが、魂は決断したようだ。
「お決まりになりましたか? 分かりました。それではこちらへどうぞ。これから天下界へと降りていただき、あなたの誕生となります。あなたの物語が始まるのです」
魂は導かれ引き寄せられていく。まるで自身が落下していく感覚に襲われた後、肉体を得た実感と共に誕生の産声を上げる。
「オギャア! オギャー!」
こうして天下界にまた一つ、新たな命が生まれたのだった。
「それでは、いってらっしゃいませ。あなたの人生に幸多きことを」
人生の、始まりだ。
*
天下界。それは三柱(みはしら)の神による信仰が根付く世界。人は生まれながらに神理を信仰し生きていく。故にここには仲間外れというものはなく、必ずや自分と同じ信仰で結ばれる仲間がいる。神が創った神理を信仰することが天下界に生きる者にとって目的であり幸せだった――
「――で、あるから自身の信仰に精進(しょうじん)しましょう、か」
俺は校門前で立ち学校のパンフレットを読んでいた。書いてある内容は以前読んだ教科書と同じだ。どこもかしこも信仰を精進しましょうとかそんなんばっかり。
見飽きたわ。
「ハン」
忌々しさと共にパンフレットを破いてその場に投げ捨てる。
「知るかんなもん、自分の生き方くらい自分で決めさせろよ」
まったく余計なお世話だ。だっていうのにそれから逃げることも出来ない。
顔を上げる。そこにはこれから入学する神律(しんりつ)学園の校舎がある。全寮制の学校で基本的に信仰別にクラス分けがされている学校だ。
そして、今日はその入学式だ。
「ここが今度の学校か……」
俺、宮司神愛(みやじかみあ)が通う新しい学校。入学式なんて本当は楽しいことなんだろうけれど俺からすれば刑務所行きと変わらない。面倒くさそうに黒髪を掻く。
高等学校にあたる神律学園の正門前、視線の向こうにはレンガで塗装された道。その奥にはコンクリート製の白い校舎が立っている。続く道の両側にはトンネルのように桜が咲いていた。春の陽気に桃色の校門、ザ、入学式って感じ。
しかしここには俺以外だれもいない。それにはある事情があるのだが、ようは入学式はもう始まっており俺はこの時間に来る決まりだったのだ。
新しい学校を今一度見上げる。正直に言うと憂鬱だ。帰りたい。
「どうしよ、ほんとに帰ろうかな」
「あ、あのッ」
そんな時だった。背後から声を掛けられた。誰だろう、女の声だ。
しかし姿が見当たらない。
顔を右に左に動かすがやはり見当たらない。気のせいだったか?
「あの、こっちですこっち! 正面の下!」
下?
視線を下げる。するとずいぶん背の低い女の子が俺を見上げていた。小学生にも見える幼児体型で、白色の髪をツインテールにしてまとめている。二つの髪束は大きな耳のように垂れていた。
「どうしたんだ? なにか用か?」
可愛らしい瞳は愛嬌があるがなんだか不安そうな表情だ。
「そ、その、もしかして、君も遅刻さん組ですか?」
白色の少女が聞いてくる。
「あ、えっとー」
「よかった~。実は、ボクもなんですよぉ」
「違う、勝手に遅刻にすんな」
こちとら死ぬほど憂鬱な中ちゃんと予定通りやって来たんだぞ。
「え、そうだったんですか?」
そう言うと女の子は「うーん」と考え出し、思い付いたのか両手をポンと叩く。
「じゃあ、教室が分からないとかですか? それならお手伝いしますよ!」
「はい?」
いや、そうでもないんだけど。
気持ちは嬉しいが俺は初めからこの時間に来る決まりだったんだよ。それを誤解したのか女の子は照れた笑みに変わっている。
「いや、そんなんじゃないから。別にいいって」
「遠慮しなくても大丈夫ですよ」
「遠慮じゃねえよ!」
「いや~、せっかく来たのに教室が分からないなんて。ププ、君もおっちょこちょいさんですね~」
「あああッ!?」
おい、こいつなんかムカつくぞ!
そんな感じで俺は反論するが、彼女は笑顔で言ってきた。
「でも大丈夫です! お手伝いするのがボクの信仰ですから!」
「信仰?」
瞬間、表情が固まった。
神律学園では制服と共に腕章(わんしょう)を付けるのが義務になっている。そこには己の信仰を示す印が付いており、己を鍛える琢磨追求は赤のスペード。心を無にする無我無心は緑のクローバー。そして、目の前の少女の腕章には、
(こいつ、慈愛連立か)
人を助ける慈愛連立である白のハートが誇らしく垂れていた。
慈愛連立は困っている人を見かければ助ける神理だ。だから彼らは人を助けるし、それが分かっているからたいていの人は助けられる。
慈愛連立の彼女は人助けができるのが嬉しそうにはしゃいでいた。
「ですから遠慮しなくて大丈夫ですよ。ボク、頑張りますから! えっと、あなたのお名前はなんですか? あ、信仰が分かればクラスも分かりますよね!」
少女はにこにこと頬を持ち上げ俺の腕章を覗いてくる。
直後「え」と小さな声を零して、表情から笑みが退いていった。
それを見るのが辛い……。
俺も自分の腕章を見つめてみる。
俺の腕章。そこには何も描かれていなかった。生まれた時から信仰を持つ天下界の人々に無地というのはあり得ない。
しかし、違うんだ。天下界にはたった一人の例外がいる。
少女が恐る恐る俺を見てくる。表情は驚いているのか怖がっているのか、小さな口は震えていた。
「もしかして、宮司、神愛……?」
聞かれるが答えない。気まずくて目も合わせられない。
そうしていると女の子は大声を出して逃げ出していった。
「あ、あの、ごめんなさいぃい!」
「おい! 待てよ!」
「襲われるぅううう!」
「襲わねえよ!」
「殺されるぅううう!」
「殺さねえよ、おい!」
呼び止めようとするのだが彼女は猛ダッシュで校舎へと行ってしまった。伸ばした手が虚しい。正門前には俺だけが取り残される。
「……ちっ!」
胸がざわつく。
「まったく、知ってたよ」
愚痴を地面に叩き付け、俺はその場を立ち去った。
その途中、脳裏に浮かんだ言葉があった。
――無信仰者(イレギュラー)。
「……くそ!」
忌々しさに唇を噛む。
学校の中へと入り自分の教室を探す。廊下を歩いていくがこの棟の一階には学習室と特別教室、そして一つの教室しかなかったのでクラスはすぐに見つかった。
教室扉の上に掲げられた札には一年一組の文字。その札を見る目がどうしても嫌そうに曲がってしまう。
というのも、神律学園のクラス分けは基本信仰別によってされるが、成績が優秀な者を集めた特別進学クラスというのがある。ここでは信仰の区別なく、何かしらに秀でている分野があれば誰でも入れる。それがここ一組だ。
まさか、そんな場所に俺が入ることになるとはな。
天下界の例外、唯一の無信仰者。
それが俺だ。蔑称としてイレギュラーなんて呼ばれたりもする。
全ての人間が信仰者である天下界においてそれはあり得ない存在だ。俺だってどうして自分が無信仰者なのか知らねえよ。でも、無信仰という事実がどうしようもなく世界で孤立する。入学式に出られなかったのも、式が混乱しかねない、という学校側の判断からだった。
「はあ、マジ憂鬱だ」
どうせ嫌な思いをするんだろうが、仕方がない。せめてもの思いから教室の後ろから入室する。
中では説明会が始まるまで生徒が自由に過ごしていた。あちこちですでにグループができており、集まるメンバーには明確な共通点がある。
男子二人が腕相撲をしようと話し合っているのを、今も勉強に勤(いそ)しむ女子が迷惑そうに抗議しているのは琢磨追求の者たち。
反対に初対面の初々しさを出し、緊張しながら挨拶を行なっているのは慈愛連立。
その二つを遠目に見ながら、落ち着いた様子で語り合っているのが無我無心。
皆が腕章を身に付けているため誰がどの信仰かは一目瞭然だ。
そして、印がない俺は無信仰者だと一発で分かるというわけだ。晒し者かよ。
気にしても仕方がない。教室に入り自分の席を探す。見れば一番後ろにある窓際の席が空いていたのでそこに向かって歩き出した。
すると和気藹々(わきあいあい)としていた場の空気が変わる。入学式にはいなかった生徒が来れば当然か。だが、ざわざわとした話し声が聞こえ初め腕章を付けている左腕が特に視線を感じる。
表情をしかめどかっと座った。こういう時は無視だ無視、それに限る。机に頬杖を突き、周りを意識しないよう窓から青空を見上げる。
しかし、声というのはどうしようもなく聞こえてきた。
「ねえ、あれって」「やっぱり!?」「おいおい、マジかよ」「どうしてあんな奴が特進(とくしん)に?」
「…………」
ちっ。いちいち言うなよ、聞こえてるんだよ。
「腕章に印がない。本当に無信仰なんだわ」「なんで神理を信仰しないんだ? 馬鹿か?」「理解出来ないな」
「…………」
窓から空を眺めて時間を潰すつもりだったが、やめだ。俺は周りを見渡して、最初に目が合った奴のところまで近づいていった。
「さっきからなに見てんだ、俺とにらめっこでもしたいのか?」
それで相手はすぐに目を逸(そ)らした。
「ハッ、俺の勝ちだな」
自分の席に戻る。教室は一転して沈黙した。せっかくの入学式なのにお通夜みたいだ。でも気にしない、悪口が聞こえてくるよりマシだ。俺は不機嫌さを隠そうともせず座っていた。
ギギ。
「ん?」
すると沈黙を切り裂くように椅子を引きずる音が響いた。見れば女子の一人が立ち上がり俺の前まで近づいてくる。当然他の生徒の視線を集め、女子は席の正面で立ち止まった。
最初に目に入ったのは赤い長髪。見下ろす黒の瞳には怖気づく気配はない。凛(りん)とした姿勢は武人のようで、袖やスカートから覗く四肢(しし)は引き締まっている。口は固く結ばれ露骨(ろこつ)に敵視を飛ばしてきた。
良い雰囲気じゃない。ふと視線を彼女の左腕に向ければ思った通り腕章は赤だった。
「なんだ、俺になんか用かよ」
「ええ。聞きたいことがあるの。もし違ったら悪いんだけど、てか違ったら違ったで思わせぶりな態度にムカつくけど」
澄(す)んだ声だが口調はきつい。
「先に名乗っておくわ。私は加豪切柄(かごうきりえ)。信仰は、腕章の通り琢磨追求(たくまついきゅう)よ」
「そうかい、初めまして」
「ええ、初めまして」
白々しい挨拶を交わす。
「それであなた、宮司神愛よね?」
「そうだよ。サインでも欲しいのか?」
「そういうのじゃないわ。ここに来たのは言いたいことがあるからよ」
目の前の女子、加豪は一度嘆息すると俺を見た。
「無信仰者だがなんだか知らないけど、その態度止めてくれない?」
「ほぉう」
加豪は鋭い目つきで見下ろしている。ああ、気持ちは分かるよ。でもちょっと待ってくれ。
「俺の態度を止めろだって? 俺はてっきりお前らが俺を不機嫌にしてると思ってたんだが? どいつもこいつもガン飛ばしやがて、そんなに俺とにらめっこしたいのか? お前もその一人かよ?」
「仕方がないでしょう、無信仰者なんてのが同じ教室にいたら誰だって気になるわ」
「仕方がない? ハッ。俺のことを無信仰者だと分かるなり逃げ出した奴がいたが、それも仕方がないか?」
「元はといえばあなたが無信仰者なのが悪いんでしょう。ここは天下界よ? 神が実在するのにどうして信仰しないわけ?」
なるほど、そういうことか。そうだよな。目の前の女が言っているのはその通りだ。
たとえば牛を食べてはいけないという信仰があるとする。そんな人たちの前で牛を得意気に食っていたらどう思うだろうか。いい気はしないはずだ。敵視されても仕方がない。牛が神聖な生き物なら襲われたって不思議じゃないんだ。
無信仰者というのもいわばそういうもので、神理を信仰するのが当たり前の天下界でしないというのは、さっきのたとえでいう常に牛食ってる状態だ。メンチきられるはずだぜ。この言い寄ってきた女は俺から見れば鬱陶(うっとう)しいだけだが周りから見れば無信仰者を注意する優等生なんだろうな。
ほんと、生きづらい場所だ。
「あー、そうかよ。悪いのは全部無信仰のせいだって? 全員からガン飛ばされるのも無信仰のせい。逃げ出されるのも無信仰のせい。おまけにお前が可愛くないのも無信仰のせいか?」
「言ってくれるじゃない」
「センキュ~」
しばらくの間二人で睨み合う。
「まったく、無信仰者なんてろくな人間じゃないわ」
「はあ!?」
その一言に俺は勢いよく席を立った。
「ふざけんな、てめえらが勝手に俺を見て怖がってるだけだろうが、それがなんで俺のせいになるんだよ!?」
「そう。それもそうだけど、あんたの喧嘩腰と外見をバカにするのが原因だと私は思うけどね」
「いや、それはそういう意味じゃなかったんだが」
さきほど加豪を可愛くないとは言ったがそれは性格の話で、顔自体は美人の部類だと思う。鋭い目つきだが瞳は大きく鼻筋もスッと通っている。可愛いというよりもきれいだ。
って、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて。
「だけど喧嘩売ってんのはてめえらの方だろう。いい加減にしろ、殴られてえのかお前は!?」
互いに熱が入っている。しかし加豪が急に静かになると、俺の胸を片手で押してきた。
「……へえ」
「うお!」
その力は圧倒的だ。耐える余裕すらなく吹き飛ばされた!
「があっ!」
背後のロッカーに激突する。この騒ぎに他の連中が慌て出すが、止めようとするのは一人もいない。
普通ならおかしい。女が男を吹き飛ばすなんて。それも片手だ。
しかし加豪はさも当然そうに立っていた。
「殴り倒すですって? それ、本気で言ってるの?」
加豪はその場から動かず、苦しむ俺を苛立った目で見つめてくる。
「神理を信仰する者は神に近づく」
加豪が呟く。それは威張るでもなく、けれど厳しい表情だった。
「それは『神化(しんか)』と呼ばれる。無信仰者のあんたでも知っているんでしょう?」
「ああ、知ってるよクソッタレ」
認めたくないが加豪の言う通りだ。それは俺も知ってる。
天下界には神理がある。そして神理とは神の教え。それは信仰すればするほど神に近づくということだ。神に近づけばそれだけ強くなれる。
おまけに、天下界にはもう一つの恩恵(おんけい)があった。
「殴る? 無理ね、無信仰者じゃ。あんたは理解していないようだけど」
「ハッ、理解したら勝てるのかよ?」
「それもそうね。なら、敗北して学ぶといいわ」
「なに?」
そう言うと表情はそのままに加豪の視線が強くなる。今までとは明らかに意識が違う。
まさか? そう思うが危機感が暴れ出す。まずい。直感がする!
「我は練磨(れんま)を積み頂(いただき)を目指す者。あなたに近づくために、どうか我が願い、我が神リュクルゴスよ叶えたまえ」
それは詠唱だった。天上の神々が一柱(ひとはしら)に己の祈りを捧げる言葉。
「嘘、すごい」「マジか!?」「これは……」
すると、今まで見ているだけだった生徒たちがどよめいた。
「我が信仰、琢磨追求の祈りここに形(けい)を成す。我が神の威光よ、天地に轟(とどろ)き力を示さん」
今や加豪は注目の的だ。全ての視線を独占し、彼女はついに詠唱を言い終える。
「神託物(しんたくぶつ)、招来(しょうらい)」
右手を虚空(こくう)に翳(かざ)す。すると差し出された手の平に光が現れ、それを迷わず手に取った。
「雷切心典光(らいきりしんてんこう)!」
掴んだ光が弾けまばゆい輝きが広がる。光は消え、代わりに彼女が手にしていたもの。
それは帯電(たいでん)する太刀だった。刀身だけでも彼女の胸元まである。赤い刀身にまっすぐな刃、柄も赤く放電(ほうでん)される破裂音がバチバチとなっていた。
「これが私の信仰の形、神託物。神が認めた信者(しんじゃ)のみが手に出来る信仰の具現(ぐげん)。これが出せる時点で信仰心が強大っていう証よ」
「すごい!」「うおおおー!」「初めて見た……」
突如出現する武器。それに周りは歓声を上げていた。
「ちょっと待てぇええええ!」
「なによ?」
が、ちょっと待て。だってそうだろう!?
「おい」
「なに」
加豪は平然としている。そんな態度がさらにムカつく。
「どういうことだこれは?」
「だからなに、はっきり言いなさいよ」
「ならはっきり言ってやる! そんなもん取り出して犯罪じゃねえのかよ!」
指を突きつける。加豪の手には何度も言うが刀が握られている。どう見ても凶器だろうが!
「分かってないわね。これは確かに刀だけどそれ以前に神託物。神からの贈り物よ? それを取り締まる法があると思ってるの? 所持だけなら罪にはならないわ」
「なんだそれはぁ!?」
ふさけんな! インチキも大概(たいがい)にしろよおい!
「そんなのありかよ!?」
「あんたこそ何十世紀も前のこと言ってんのよ。こんなことでいちいち怒鳴ってばかり。無信仰者って言うのは噂通り野蛮(やばん)なのね」
「刃物取り出す女に言われたくねえんだよ!」
忌々しい。偉そうに言いやがって、だから信仰者は気に入らない。
「神託物は強大な信仰心を持つ証明。神託物っていうのは尊(とうと)いものなの。でも、あんたじゃこの価値は分からないでしょうね」
精悍としていた加豪の顔がまた侮蔑の表情に変わる。見下す者特有の、嫌な目つきだ。
「出来損ないの無信仰者(イレギュラー)」
「くっ」
そう言って加豪は刃先を向けてきた。目の前にまで迫る刃に声が漏(も)れる。
男女の違いがあっても神化(しんか)によって力はむこうが上。さらに神託物まで加豪にはある。
彼女が言ってくる。無信仰者は駄目なやつだと。
でもそれは加豪だけじゃない。周りの連中だって同じだ。
「ねえ、止めなくていいの?」「だって相手はあの神愛でしょ?」
慈愛連立からは見捨てられ、
「やっちまえ! 無信仰者なんて神への冒涜(ぼうとく)だ、叩き潰せ!」
琢磨追求からは罵声(ばせい)を浴びせられ、
「どうする?」「放っとけ、知ったことか」
無我無心は気にもしない。
全員が、無信仰というだけで増悪(ぞうあく)していた。
「ふざけんじゃねえええええええ!」
怒鳴った。叫んだ。この理不尽(りふじん)さに。
おかしいだろう! どうして無信仰者として生まれてきただけで憎まれなければならない? なぜ嫌われなければならない? 俺がなにかしたのか?
俺の怒鳴り声に周りは黙り込むが、それでも冷たい視線は変わらない。
悔しかった。両手を痛いくらいに握り締め、怒りが全身を巡るのに力の前になにも出来ない。それが悔しくて、悔しくて堪らない!
天下界。ここに、無信仰者(おれ)の居場所なんてないッ。
「くそ!」
俺は、生きてちゃダメなのかよ!?
「そこまでです。我が主(あるじ)を害するならば、私が相手になりましょう」
その時だった。
突如として異変が起こる。俺たちの間に突然人が現れたのだ。
そこにいたのは金髪の少女。純白のワンピースに身を包み、ひらひらとした裾とショートカットに切り揃えられた髪が揺れている。加豪の刀を前にしても少女は気丈(きじょう)に正面を向けている。
そんな彼女を、俺は知っていた。
「ミルフィア!」
俺の呼び声に目の前の少女は半身だけ振り返る。
「ご無事ですか、主?」
少女は柔らかい目で俺を見つめ返してくれた。
ミルフィア。小柄な体型は華奢(きゃしゃ)だが人形のような優雅(ゆうが)さがある。青い瞳は丸みのある形をしていて、小顔に収まるパーツはどれもが一級品の美形しかない。
ミルフィアは、この場で唯一親愛(しんあい)が籠(こも)った声を送ってくれた。
「え、ええ?」
ミルフィアを前に加豪がたじろいでいる。金髪の彼女を見つめ疑問符(ぎもんふ)が顔からいくつも出ていた。
「え、てか、今どこから!?」
今の今まで、間違いなくミルフィアは教室にいなかった。突如として現れたミルフィアにクラスの連中も驚いている。
「突然出て来て、しかも主って。まさか……」
なにもない場所から登場したミルフィアはまるで先ほど加豪が行った再演(さいえん)のようだ。それで答えを思い付いたのか、加豪が叫ぶ。
「あなた、神愛の神託物!?」
『えええええええ!』
加豪の答えに皆が大声を上げる。雷のような衝撃が教室を駆け回った。
「嘘。いやまさか……。でもッ」
言った本人でさえ戸惑っている。そりゃそうだ、そもそも神託物とは神からの贈り物。無信仰者が得られるものじゃない。また、人の神託物なんて俺だって聞いたことがない。
ミルフィアは俺に向けていた微笑みを消し加豪に向き直った。それで困惑していた加豪も鋭くなっていく。
「あんた、私とやるつもり?」
「はい。我が主を守るのが私の務め。あなたが主に危害を与える以上、排除します」
「そう。なら琢磨追求の信者として受けて立つわ」
そう言って加豪は神託物を消す仕草を見せた。互いに女、素手で戦うつもりだ。
「構いません」
「なんですって?」
しかし、ミルフィアの発した言葉に加豪の手が止まる。
「全力でどうぞ。でなければ、敗北した時悔いが残るでしょう。それでは意味がない。敗北を知るのはあなたです」
ミルフィアに動揺はない。真剣の刀、しかも雷を纏(まと)った武器だ。
「おいミルフィア。危険過ぎる、止めるんだ!」
相手が悪い。下手すればただじゃ済まない。
「主は下がっていてください、すぐに終わらせます」
「ザコは引っ込んでなさい!」
「んだとコノヤロー!」
誰がザコだオラァ!?
再びミルフィアと加豪が対峙(たいじ)する。
加豪は怒りを露(あら)わにしながらゆっくりと刀を構える。荒々しい怒気を感じるが、構えと共に静かな戦意へと変えていく。
正眼(せいがん)の構え。右足を前に出し、気と刀が一致し真の剣となる。
強い。集中するその姿勢だけで戦い慣れていると分かる。
対してミルフィアの気配も静かに高まっていく。戦いの雰囲気となり戦闘態勢となっていく。
見ている俺の方が緊張する。それだけに二人の空気は真剣なものだった。
一拍の間。その瞬間、加豪が駆(か)けた。
「終わりよ!」
それは疾風というべき突撃だった。一足(いっそく)一刀(いっとう)の間合い、それを余りある距離を瞬時に移動するのは神化(しんか)の力だ。人体を超えた跳躍と同時に刀は袈裟切りに振り下ろされる。
稲妻を纏い、雷鳴が轟(とど)いた。
まずい! 心配に心臓が跳ねる。
「安心してください、主」
その瞬間、聞こえるはずのない声がした。
攻と防が重なる直後、響いたのは加豪の驚愕(きょうがく)だった。
「そんな!?」
ミルフィアは傷一つ負っていない。加豪が前方に展開していた雷撃(らいげき)を素手で掻(か)き消し、両手で刀を受け止めていたのだ!
「すごい!」
素直に感心する。あれほどの電撃を素手で掻き消し、さらに刀を受け止めるなんて。
二人は鍔迫(つばぜり)り合いのようにしてもみ合っている。
「峰(みね)打ちですね」
「ちっ!」
ミルフィアの指摘(してき)に加豪が顰(しか)める。見れば加豪の刀は峰打ちだ。
「だからなんだって。これで十分よ!」
加豪がミルフィアを突き放す。距離が開けたことに再び斬撃(ざんげき)を振るう。
迫る刃に対し、ミルフィアはその場を跳んだ。さらに机を足場に移動していく。生徒は全員壁際にまで退避しているのでミルフィアは空席(くうせき)を縦横無尽に走り回っている。
「速い!」
ミルフィアの速度は電光(でんこう)石火(せっか)を思わせる。俺なんか目で追うのがやっとだ。加豪にしてもそう。あれだけ大きな得物では室内を動き回るのには不向きだ。真似なんか出来るはずがない。足場の悪い教室で神託物を振るうもミルフィアは颯爽と躱(かわ)していく。
加豪が振るった一瞬の隙を突き、ミルフィアは地面を蹴った。刀よりもさらに近い近接(きんせつ)格闘の間合いに入り、加速したまま、
「ハッ!」
放つのは掌底(しょうてい)の一撃。加豪は神託物、雷切心典光の柄で防ぐものの吹き飛ばされ背後の黒板に衝突した。
「くぅ!」
背中からぶつかり苦悶(くもん)の表情を浮かべる。けれどすぐに立ち上がり、真っ直ぐな眼差しをミルフィアに向ける。
「なるほど。強いわね」
口調は静かだ。嵐の前を思わせる、それは危険な静寂(せいじゃく)だった。
「でも、私は負けない、負けられない! 強さを目指す琢磨追求の信仰者が、負けてなるものか!」
静けさはすぐに反転し激(げき)を飛ばす。主人の気概に連動するように雷切心典光も吠える。今までの比じゃない。こいつ、今までのでさえ手加減だったのか?
加豪は構え、ミルフィアも構えた。踏み込みは同時、距離は瞬く間に消失し、両者の攻撃が交わる――
その直前。
「おや、何事ですかこれは」
二人の間に男が割り込んだのだ。白の法衣(ほうい)に身を包んだ三十代ほどの男。
男は加豪が振り下ろした両手を右手で掴むとひねり、重心をずらされたことにより加豪は勢いのまま転倒した。
さらに左手でミルフィアもつかみ、同じくひねって転倒させていた。
突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に二人は成す術もなく床に横になる。
立っているのは男だけ。神父が着る服装と同じで、腕章は慈愛連立。くせっけのある白髪と細身の体躯(たいく)で、男は顔を横に振っていた。
「いえ、おおよその見当(けんとう)は付くのですがね。まったく、新学期早々問題ですか。やれやれ、これから一年楽しくなりそうですよ」
男は顔面を顰(しか)めるが、その後気を取り直してから微笑(びしょう)に変えた。
「お二人とも大丈夫ですか? そんなに強く倒してはいないはずですが痛むようでしたら手を貸しましょう。ああ、加豪さんは琢磨追求でしたね。でしたらこれくらい慣れっこでしょうか」
男は笑っているが加豪は悔しそうに黙ったまま立ち上がる。
「ミルフィア、大丈夫か!?」
「はい、大丈夫です主」
すぐにミルフィアに駆け寄る。彼女も怪我はないようで自力で起き上がっていた。
この事態に当然他の生徒からはざわざわと話し声が漏れている。
「皆さん、戸惑うお気持ちは分かりますがまずはお静かにしてください。私はここのクラスを担任することになった、ヨハネ・ブルストと申します。神律学園特別進学クラスへの御入学おめでとうございます、……と挨拶を続けたいところですが、そうもいかないようですね」
見ればヨハネという男は苦笑するも、笑みを崩すことはしなかった。
「お二人ともも収めなさい。特に加豪さん、神託物を見せたい気持ちは分かりますが、そう軽々(けいけい)に出すものではありませんよ。神の恩寵(おんちょう)を日用品にでも失墜(しっつい)させるおつもりですか?」
「いえ、私はそんな……」
「では、すぐに収めなさい。それと、この場で言っても説得力は酔漢(すいかん)にも劣るでしょうが、立派な神託物でしたよ。今後も自身の信仰に精進なさい」
「はい、ありがとうございます……」
加豪は反省の色を浮かべ神託物を消した。出現時同様、雷刃(らいじん)は空へと消える。ヨハネから一応褒められるが表情は落ち込んでいた。
「それで宮司さん」
「ん?」
落ち込む加豪をやれやれと、けれど温かい眼差しで見つめた後教師ヨハネが俺に振り返る。
「怪我をしているようですね。大事ではないようですが念のために保健室へと行きましょう」
「別に、なんでもねえよこれくらい……」
顔を逸らし提案を跳ね除ける。どうやらロッカーとぶつかった際に頬(ほお)を切っていたらしい。
「いえ、これは教師としての指示です。保健室への場所は分かりかねるでしょうから私が同行します。他の人たちは私が戻るまで待機(たいき)していて下さい。それと」
ヨハネは俺から視線をミルフィアへと向けた。
「あなたも、ご同行願えますかな」
「はい、そのつもりです」
乗り気はしないがここにいても居心地が悪いだけだし他に行く宛(あて)もない。足取りは重いがここよりはマシだ。
収まらない苛立ちと不満を表情に浮かべつつ、俺たちは教室から出て行った。
*
「痛っ!」
保健室には俺とヨハネ、そしてミルフィアの三人がおり、新学期初日とあって保健室の先生は不在(ふざい)だった。机のある椅子にはヨハネが座り、対面(たいめん)する患者用の丸椅子二つに俺とミルフィアが腰かけている。
切り傷に消毒液で濡らしたガーゼを当てられる。沁(し)みる痛みに顔を引き離そうとするがヨハネは笑顔で許さなかった。
「これこれ、逃げないでください。しっかり消毒しておかないと。雑菌でも入って腫(は)れたらどうするのですか」
「もう十分だよ」
どうもこの男は笑っているのが普通らしく、俺は反抗的な態度で言うんだがヨハネはそよ風のように受け流しご満悦だ。そんな俺たちの様子をミルフィアは黙って見守っている。
「よし、これでいいですかね」
切り傷の上にガーゼを当てテープで固定される。無事に終えたことにヨハネは満足気に頷いた。
「いやー、やはり人のために働くのは気分がいい。相手が返してくれる笑顔と感謝は、まるで自分のことのように嬉しい気持ちにしてくれる」
「笑ってねえよ! 感謝も一言たりとも言ってねえし! 傷口にグリグリ押しつけやがって、下手ならやるなよ痛ってえな」
「すみませんすみません。まあ、そう怒らないでください。あなたを手当てしたかったという私の気持ちだけでも、汲(く)んでもらえませんかねえ、宮司さん」
「ちっ」
そりゃ人を助けようとする気持ちは高尚(こうしょう)だろうよ。だが実害(じつがい)があったら余計なお世話だ! あー、いた。
「手当が終わったならもう帰るぜ」
カーゼの上から傷を擦(す)りつつ席を立つ。用は終わったんだしここにいる理由はない。
「ああ、待って下さい。とりあえず座り直して」
とするのだが、帰ろうとするのを慌ててヨハネが呼び止める。いったいなんだよと向き直るが椅子を手で叩くだけだ。面倒臭い。そんな目で見下ろすが嫌な顔一つしない。
「……分かったよ」
嫌々だが再び席に座る。そんな俺にヨハネは「ありがとうございます」と言ってから話を始めた。
「それにしても入学初日から喧嘩ですか。遅かれ早かれ問題は起きるとは思っていましたが、まさか出会う前からとは。驚きましたよ」
「自己紹介の手間が省(はぶ)けて良かっただろ?」
「仕事が増えるのは止めて欲しいのですが……」
ヨハネが苦笑しながら頭を掻いている。きっと不良生徒にやれやれと思っているんだろう。
しかし普通の教師なら説教をしそうなものだが、ヨハネは引きつっていた頬を元に戻すだけだった。
「喧嘩はもちろんしてはいけないことです。教師としても起こったならば止めねばなりません。何事も仲が良いのが一番です。ですが、まあ、仕方がない喧嘩、というのもありますか」
声は穏やかで責める素振りは見られない。喧嘩すらもいいことのようにヨハネは明るく口にしていた。
「特に、青春には付き物ですからね」
「そんな爽やかなものじゃねえよ」
その言葉に視線を逸らす。青春ドラマみたいな理由じゃないんだ、他の連中と一緒にして欲しくない。
「あははは……、そうですね、申し訳ない。確かにそうだ。ただ、もし喧嘩の理由が神理の違いからでしたら、私にも経験がありますので少しは宮司さんの思いが分かるかもしれません」
「神理の違い?」
「はい、そうです」
ヨハネは困ったように肩を下げ弱気な笑みをしていた。
喧嘩の理由。おおざっぱに表せば神理の違い、ではあるか。俺と目の前の男では当然事情は違うが。だが俺みたいな無信仰者と信仰者ならともかく、信仰者同士でも喧嘩をするのか?
人間なんだから喧嘩くらいするだろう。でも俺にはそれが意外というか、新鮮だった。
神理を信仰してる連中は少なくともそうすることで幸せになれるから信仰してるんだろ? なのに信仰者同士でも争うことがある?
「この時期になりますとね、私はまだ自分が新米だった頃を思い出しますよ。皆さんと同じ、教師としての一年生です。ですがいやー、あまりいい思い出とは呼べませんねえ」
「あんたも喧嘩したのか?」
「喧嘩といいますか、失敗ですね」
ヨハネは当時の自分を思い出しているのか、残念そうに消沈し、もしくは困ったように眉を下げている。
「私が教師として働いてまだ日が浅い頃でした。初めは副担任、ということで職務をこなしていたのですが、廊下を歩いているとですね? 頬を押さえて座っている男の子がいたんですよ。どうやら喧嘩でもしたのか殴られたようでして」
ヨハネの話にいつしか惹かれ俺は体を正面に向けていた。信仰者の事情なんてそうそう聞けることじゃない。
しかし、聴いてみればこの話。無信仰の俺でも察しが付くぜ。
ヨハネの腕章を見れば分かるがこの男は慈愛連立だ。そして慈愛連立は人助けを掲げている神理。だから相手がたとえ赤の他人でも助けにいく人がほとんどだ。そのため慈愛連立には社交的であったり優しかったりする人が多い。まあ、さすがに無信仰者なんて究極の異端(いたん)助ける奴はいないが。
ヨハネも慈愛連立の信仰者だから、ここで男子生徒を助けるのは不思議じゃない。
「彼が傷ついていましたから。私は慈愛連立の教えに従い手を差し伸べたわけですよ」
「やっぱりか」
「優しいでしょ私? えらいでしょ私?」
「押し付けがましく言うなよ」
「人助けっていうのは立派な行いだと思うんですよ」
「はいはい、分かったから」
「立派でしょ私?」
「次いけよ!」
なんだこいつ!?
「ですが、彼は琢磨追求の子だったんですよ」
「ん?」
それがなにか問題なのか? 分からず小首を傾(かし)げる。
「私は善意で接しただけなのに、彼は怒りの形相を露わにしてですよ? 『琢磨追求の者に情けなど不要! 僕のことを馬鹿にしているんですか先生!』と拒絶されたんですよ~」
「あー……」
なるほど。納得すると同時に同情する。
琢磨追求という神理は己を鍛(きた)える神理だ。そのため自分に厳しい、また他人にも厳しい人が多い。また強さを求める神理だからか、他者から助けられる、というのは嬉しいというよりも恥、見下されていると感じるんだろう。
「そんな気はなかったとはいえ、これも神理の違いですからねえ。仕方がないと受け入れ謝ったんですよ私。助けようとしただけなのに」
ヨハネはこれ見よがしに肩を落とす。神理の違いから生まれる食い違い。仕方がないのは仕方がないが、とはいえ不幸だ。だが話は終わらなかった。
「そしたら後日、彼の母親が職員室にやって来てですよ? 『ヨハネという教師はどこですか!? 私の息子を甘やかさないでください、軟弱者になったらどうするんですか!?』と怒鳴って来たわけですよ。もうねえ、私、心中(しんちゅう)でえ~と思いながらも平謝りしたわけですよ。その後先輩教師であり担当の先生にその件を相談したんですがね、彼は無我無心の信仰者だったんです。まだ若輩(じゃくはい)で経験の浅い私に向かって、『何事も経験だ。俺に頼るな』って、無表情で! 無関心に! そう言うんですよぉ~?」
「まー、そうなるわな」
泣き面(つら)に蜂(はち)とはこういうことを言うんだろうな。てか、あんたも運悪いな。
無我無心は心を無にすることを目指す神理だ。感情も表に出さないし、何事にも平常心を保とうとする。そうやって苦しいと感じる心を消そうとするためか、奴らは他人の痛みにも希薄になりがちだ。大人しくて消極的、というのが無我無心の典型的な人物像だろう。
連続して災難を経験したヨハネとしてはいろいろ思うところがあるようで、身体が前に傾いている。
「そりゃ経験は大事ですしごもっともだと思いますよ。ですがね? 教師という役職(やくしょく)の身、指導する者が指導しないなんて怠慢の正当化ですよね!? あなたもそう思いますでしょう宮司さん!?」
「ま、まあ」
「ですよねえええ!」
すると急に手を握ってきた。ちょ、お前なに握ってんだ!
「やはり宮司さんは素晴らしい人だ。私の痛みに、きっとあなたは理解を示して下さると信じていましたよ。私かわいそうでしょ? もうあの時は途方(とほう)に暮(く)れて涙ちょちょ切れましたよお~」
「は、ははは……」
ちょっと待て、なんで俺が慰(なぐさ)める形になってんだ? お前が教師だろうが。
するとヨハネはいきなり泣き顔から笑顔へと変わった。
「やはり、あなたは怒っているよりも、笑っている時の方が素敵ですよ?」
「!?」
ヨハネはニッコリと笑いそう言った。慌てて手を振り解く。
「べ、別にッ!」
「おやおや、照れてしまいましたか。ですが私はそう思いますよ」
しまった。ヨハネは俺から笑顔を引きずり出すためにわざと自分の失敗談を話したんだ。愛想笑いとはいえ笑顔を見られたこと。それが無性に悔しいというか、恥ずかしい。あーくそ!
そんな俺とは反対に、ヨハネは笑顔のまま声は穏やかだった。
「誰しも、笑っている時が一番です。宮司さん。それはあなたもだと私は思っています。そして、それが許されない、ということはあってはならない。私はあなたにも笑って過ごして欲しいですし、それが出来ると思っています」
それから数秒の間を置いて、ヨハネは聞いてきた。
「教室の皆とは、馴染めないですか?」
「……フン」
ヨハネからの問いに俺は答えない。答えは出すまでもないと、鼻を鳴らした後は黙り込む。そんな態度にヨハネは困ったように苦笑した。その後、真剣な面持ちに変わる。
「宮司さん。確かにあなたは無信仰者かもしれない。そして周りは信仰者ばかりです。ですが私は思うのです。そんなあなたでも笑って過ごして欲しいと。実は、あなたを特別進学クラスに編入(へんにゅう)したのは私の提案でしてね。一つの信仰に縛られるのではなく、多くの人と知り合えるこのクラスなら、あるいは変われると思ったのです。自分一人だと決めつけず、友人ができれば人生が今とは違って見えるでしょう。私はそう、強く思います」
ヨハネは祈るように願いを口にする。会ってまだ間もない男だがヨハネが本心でそう言っていることはなんとなくだが分かった。
だが、俺は知っている。
誰もが恐れていること。嫌な物を見る目を向け、神を信仰しない不届(ふとど)き者だと中傷してくる。
記憶を探れば、反吐が出る思い出ばかりだ。
「あんたが、俺の何を知ってる?」
胸の中で沈殿していた怨念が、ゆっくりと顔を上げてくる。
「……いえ、私には思いも付きません」
「なら勝手言うなよ」
自分でも分かるほど、俺の言葉は冷たい針のようだった。
「仲良くなる?」
怒気が上昇していく。苛立ちが弾けた。
「俺を敵視しているのは周りの連中だろうが! 仲良くなるだあ? なりたいんなら変わるのはあいつらの方だ。俺を怖がって内心(ないしん)では馬鹿にしてやがる、そんな奴らと仲良くなんてしてられるか!」
怒りのあまり声が荒げる。体が前に出てヨハネに叫んだ。内容は決めつけだが、俺を咎(とが)める資格なんて誰にもない。
それを聞いて、ヨハネは寂しそうに顔を暗くした。
「すみません。どうやら私が急ぎ過ぎてしまったようです。押し付けがましく、申し訳ありません」
「…………ん」
それで、俺も怒鳴るのを止めた。収まらない怒りはあったが、この男が優しさで俺を心配してくれたのは分かるんだ。ただ、納得出来なかっただけで……。
沈黙ができた。途端に空気が重くなる。丸椅子がギシリと軋み、顔を下げる。ふとミルフィアに視線を向けてみても彼女は不動のまま動く気配を見せない。
気まずい空気だ。そう思っていると恐る恐るといった様子でヨハネから声が聞こえてきた。
「宮司さん。大きなお世話だというのは重々承知しています。ですが私は慈愛連立の信者です。困っている人を見かけたら助けてあげるのが私の信仰なのです。どうか最後にもう一度だけ、おせっかいをさせてはいただけませんか?」
俺はゆっくりと顔を上げる。視線の先ではヨハネが真っ直ぐ俺を見つめていた。
「答えは求めません。宮司さんは黙って聞いているだけで結構ですし、聞き入れなくても大丈夫です。ただ、私は伝えておくことだけはしておきたいのです。私に信仰を行なえる機会を与えてはもらえませんか?」
彼からのお願い。人助けをするのは自分なのに。本来ならば立場は逆なのに。
おかしなやつだと思う。お人好しにもほどがあるってもんだ。
ただ、そこまでして頼むのを、拒もうとはさすがに思わなかった。
「……ああ、好きにしなよ。ただ俺の気持ちは変わらないぜ?」
「はい、ありがとうございます」
返事にヨハネはパッと表情が明るくなる。まるで自分が救われたような反応がなんだかおかしくて、ついフッと笑ってしまった。
「それでですね、宮司さん。さきほど神理の違いによる私の失敗談をお話したわけなんですが、信仰者にはそれぞれ付き合い方みたいなのがありましてね。こうすれば仲良くなれる、とは一概(いちがい)に言えないのです。それは信仰者でも、無信仰者でも同じことです」
それは話を聞いていたから分かる。強いて言えば同じ神理を信仰している者同士なら仲良くなれるんだろうが。だが、それだけに無信仰者の俺じゃ誰かと仲良くなるのは難しいって意味でもある。
だが、ここでヨハネは意外な言葉を口にした。
「ですが、そんな三つの信仰者の誰とでも付き合え、かつ、あなたにも出来る、一つの思想があります」
「思想?」
ヨハネの言葉は意外だった。誰とでも付き合えるだけでなく、無信仰者の俺でも出来ることがあるって?
「はい。琢磨追求でも慈愛連立でもなく、無我無心でもない。無信仰でも行えるものです」
ヨハネの笑顔は嘘を言っているようには見えない。
「それは……?」
気づけば、俺の口は勝手に聞いていた。
「はい、それが」
問いにヨハネが答える。それは――
「黄金律と呼ばれるものです。知っていますか?」
「いや、初耳だ」
黄金律(おうごんりつ)。聞いたことがない。一体どういうものか、考えてみるが見当も付かない。
「黄金律とはまだ神がいなかった時代、哲学や教訓などを考えていた時に唱(とな)えられた一つの教えです。内容自体はとても簡単なものですよ。守るべきことは二点だけです」
ヨハネは人差し指と中指を立て、二つであることを強調する。
「いいですか? 黄金律の教えは、自分がされて嬉しいことは人にもしてあげる。自分がされて嫌なことは人にもしない。これだけです」
ね、簡単でしょう? と最後に付け加えて、ヨハネは笑った。
「え、それだけ?」
だが、どんなことだろうと身構えていた俺としては拍子抜(ひょうしぬ)けだった。
「ええ。これが黄金律と呼ばれる教えです。あ、さては信用していませんね?」
冗談のように笑うヨハネを依然怪しそうに見つめるが、ヨハネは自信があるのかたじろぐことはしなかった。
「神のいなかった時代には、かつて多くの哲学や思想がありましたが、それらの共通点であったのがこの黄金律なのです。どのような教義にも当て嵌(は)まる、普遍的であり本質的な思想と言えるでしょう。少なくとも、これが守れている限り人から悪い印象は持たれないはずです。どうでしょうか宮司さん、参考になりましたか?」
笑顔で聞いてくる言葉は俺を案ずる一心だけのように思える。笑みは純真な輝きを放ち、穏やかな声には安心感がある。
仲間のいない無信仰者だからこそ、普遍的な価値観である黄金律。理(り)に適った話ではあるし仲間外れでも共有出来る唯一の術かもしれない。
俺は黙り込んで考えるが、ややあってから答えた。
「まあ、覚えておくよ」
「はい、覚えていただければそれで結構です」
ヨハネは笑顔で受け止めるとそれ以上勧めてこなかった。自主性の尊重(そんちょう)か、選択はあくまでも俺に委(ゆだ)ね無理強いはしてこない。
「それと申し訳ないのですが、最後に教師として一つ確認だけさせてください」
ヨハネはそう言うと視線を俺ではなく、隣に座っていたミルフィアに向けていた。
「失礼ですが、あなたがミルフィアさんですか? 事情は知っています。ここの生徒ではないですが、出入りの許可は出ていると」
「はい、そうです」
そこで今まで会話には参加していなかったミルフィアが初めて喋った。背筋を伸ばし膝に両手を置く姿は優等生を絵に描いたようだ。
表情は精悍(せいかん)で、棘はないものの機械的な話し方には親しくする意思は見られない。「そうですか、分かりました。それだけは確認しておきたかったものですから」
ミルフィアに向けニコっと笑った後、ヨハネは気配を引き締め俺に向き直った。
「宮司さん、教室での出来事は申し訳ありませんでした。私の落ち度です。私なりにもっと努力しなければ」
「な、なんだよ改まって」
いきなり真剣になるんじゃねえよ、変なカンジになるだろうが。
「いやなに、それだけですよ。ただの反省と宣誓(せんせい)です。私は諦めませんから、宮司さんからもなにかあればなんでも話してくださいね、いつでも相談に乗りますから」
そう言うとヨハネは俺にも微笑んだ。けれど、俺は咄嗟(とっさ)に顔を背(そむ)けてしまう。諦めない。その言葉が重い。
だって、出来るはずがないんだ。どう頑張ったって無信仰者を怖がる奴はいる。変わるはずがない。
ただ、そう思う表情を見せたくなかった。
それで話は終わったらしくヨハネは救急箱を片付けると立ち上がった。
「私からは以上です。長いこと引き留めてしまい申し訳ありません。では教室に戻るとしましょうか」
「…………」
ヨハネから教室へ戻るよう促(うなが)される。だが、さきほどの喧嘩とクラスの反応は今でも覚えている。正直まだ教室に戻るには足が重かった。
「……分かりました。宮司さんたちは後ほど。ですがちゃんと教室に顔は出してくださいね?」
「分かった」
短く返事だけ行いヨハネは保健室から出て行った。扉が閉められミルフィアと二人きりとなる。
「ふぅ~」
力が抜ける。と、ふいに隣が気になり視線を向けてみた。
ミルフィアは黙ったままじっと座っている。美しい横顔がそこにあり、気になっただけのつもりがつい見つめてしまった。
ミルフィアはきれいだ。ずっと一緒にいるけれど、彼女の顔を見飽きたということはない。
「どうかされましたか、主?」
やばっ!
「い、いや。別に!」
咄嗟に顔を背ける。変に思われたかと焦ったが、ミルフィアの大きな瞳は優しく細められ小さな口元は持ち上がっていた。
彼女と初めて出会ったのは俺がもっと子供の頃だった。突然俺の家に現れたかと思えば俺を王と呼び、自分は奴隷だと言い出した頭のおかしな女だ。理由を聞いても要領の得ない答えばかり返してきて正体も不明だ。
「なあ、ミルフィア」
「はい、なんでしょうか主」
それで何の気なしに、隣に座る金髪の彼女に聞いてみる。
「お前は一体、何者なんだ?」
質問に、ミルフィアは小さく笑う。
「私は、あなたの奴隷です。主」
「……そうだったな、今思い出したよ」
やっぱりこれか。ああ、分かってたよ。聞いてみただけだ。
不思議な少女だ。でも、俺にとってミルフィアは誰よりも大切な存在だった。
ずっと一人の人生だった。なにをしても無信仰者として孤独な時間を過ごしてきた。敵だらけで、助けてくれる人なんて誰もいなかったんだ。
そんな中、ミルフィアだけが俺の傍(そば)にいてくれた。
きれいで、優しくて、唯一俺の味方でいてくれたミルフィア。お前は誰よりも大切な存在だ。
だけど。
だからこそ思うんだ。
せめてお前だけは、俺とは違って幸せになってくれって。お前だけでもさ。
「そうだミルフィア。さっきはありがとうな、庇(かば)ってくれて」
「いえ、あれくらいのことは。もったいなきお言葉です、我が主」
俺がお礼を言ってもミルフィアは小さくお辞儀をするだけ。そうした仕草を嬉しく思う時もあるけれど、やっぱり距離感が寂しい。
「なあミルフィア」
「はい」
返事とともに、ミルフィアが可愛らしい顔を向けてくれる。
「感謝してる。でも、あんなことはもうしないでくれ」
「それは何故ですか?」
ミルフィアは俺と年は変わらない。まだ子供だ、女の子なんだ。
「危ないだろう、もしお前が斬られたらどうするんだよ」
「それは、私の務めですから」
ミルフィアは平気でそんなことを言う。
「ミルフィア、お前はもう自由に生きろ。奴隷なんか止めろって。なにが楽しいんだそんな生き方」
「ですが、それはなりません」
「なんでだよ」
お前に幸せになって欲しいのに、どうして本人のお前が否定するんだ。
声を荒げ言う俺に、ミルフィアの声は落ち着いていた。
「私は、主の奴隷です。主のために死ぬのでしたらそれは私の本望です」
「…………」
くそ。なんでお前はそう、そんなことを笑って言えるんだよ。
自分の幸せに生きて欲しい。奴隷なんて生き方するくらいなら、せめて友達として付き合っていきたい。
だけど、それは無理なんだ。
『僕と、友達になってよ!』
『なりません』
昔、俺はミルフィアに友達になって欲しいと願ったことがあった。だが、それは見事に断られた。
奴隷を止めさせることも、友達になることも出来ない。
「なあ、なんでお前はそう、俺の奴隷として振る舞おうとするんだ?」
落胆に声は暗い。
「あなたに忠誠を誓っているからです」
「だから俺の言うことならなんでもきくって?」
「はい」
なんだよそれ。だったら友達になれよ。本当はいい加減だろお前。
「じゃあ俺がここで服を脱げと言ったら脱ぐのかよ」
馬鹿馬鹿しい。本気で考えるだけ無駄なんだろうな。
「はい。それが主の望みなら」
「は? ……ておい!?」
突然ミルフィアが立ち上がる。なんだと思うと、その場でワンピースを脱ぎ始めたのだ。
ワンピースが地面に落ちる。
「なっ!?」
それで露(あら)わになったのは、純白の下着だった。縁には小さなレースが付き、中央にはハートの飾りがある可愛らしい下着だ。
「お前なに脱いでんだ!」
まさか本当にするとは思わなかった。いや、普通思うか! なのにミルフィアは少しだけ目を大きくしただけで、俺を不思議そうに見つめてくる。
「主が脱げと言ったので…………」
「そういう問題じゃねえ! てかすぐに脱ぐのを止めろ!」
こいつ、本当に全部脱ぐ気か!? 急いで立ち上がりミルフィアの両手を掴む。
「え?」
「あ?」
が、慌てて前に出たせいで落ちてるワンピースを踏んでしまい、バナナの皮のように滑った!
「あ、なっ、ぬわあ!」
ミルフィアを巻き込みながら前に倒れる。二人して地面に横になってしまった。
「大丈夫ですか主?」
「っつー。なんとかな。お前は大丈夫かミル――」
いててと頭を擦った後、気づけばミルフィアの顔がすぐ近くにあった。俺が押し倒す形で上になっていたのだ。ミルフィアの青い瞳が俺をじっと見上げてくる。視界には、胸元とブラジャーが見えている。
「…………」
「…………」
ガラガラガラ。
その時だった。扉が開き、女の子が入ってきた!
「はぁあ、お腹痛い――、え? きゃああああ! 変態が女の子を襲ってるう!」
ちげえええええ!
「違う! 誤解だ!」
「うそよぉ!」
ちょっと待て、なんだこれ。どういう状況だ!? とりあえず説明しないとまずい!
「嘘じゃねえよ! ただ落ちてる服に足をとられて転んだだけだ! べつに襲ったわけじゃねえよ! 俺はやましいことなんて――」
「ちょっと待って、なんで服が落ちてるの?」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「それは~……」
「強姦(ごうかん)よぉ!」
「ちげえ! 待てくれぇえええ!」
俺は叫ぶが、呼び声虚しく女の子は行ってしまった。
「くそっ! ミルフィア、まずは消えろ」
「ですが」
「いいから消えろ! すぐにだ!」
状況が分かっていないのか、唖然(あぜん)としているミルフィアに強引に言い聞かせる。それでミルフィアは消えていなくなり、俺は脱兎(だっと)の如(ごと)く保健室から逃げ出した。
「ったく、なんで俺ばっかりこんな目にぃ!」
瞳にうっすらと涙を浮かべ、そのまま学校を出て行くのだった。
*
それは世界中で当たり前に起きている、奇跡のような出来事だった。
人は他者と出会うことで愛を知り、二人で作り出す愛は深く結びつく。そうして愛は育まれ、新たな命を生む。愛の結晶。誕生の産声が今部屋中に響き渡った。
『あなた……』
息切れ切れに、今しがた重大な役割を果たした女性は夫に呼びかける。疲労(ひろう)困憊(こんぱい)の表情に、しかし満面(まんめん)の笑みが浮かぶ。
『ああ、生まれたよ。男の子だ』
夫は綺麗に拭き取られた赤ん坊を抱き、妻であり母となった彼女へと手渡した。愛しの子。二人の愛の下に生まれた子を両腕に抱いて、女性は嬉しさのあまりに涙を流した。その後、彼女は微笑ましく見つめながら夫へと問いを投げかける。
『ねえ、この子の信仰はどちらだと思う?』
懸命に、主張しているかのように泣く我が子を慈(いつく)しみ、彼女は思いを語っていく。
『もし私と同じなら、この子は誰よりも優しい子に育って欲しい。誰にでも手を差し伸べて、支えてあげる子に。きっと、この子は誰よりも愛される子になるわ』
『ああ、きっとそうなるさ』
夫であり父親でもある彼も同じ気持ちを抱きつつ、母親に抱かれる我が子を優しく見つめていく。
『もしあなたと一緒だったら……、ふふ。あなたよりは強くなって欲しいわね』
『ははは……、厳しいね』
男は苦笑するもすぐに元の笑みへと戻り、二人して我が子に愛を送る。
『この子は誰よりも愛される子になるわ。神様にだって。だから、これがこの子の名前。神愛。神様に愛されし子』
『いい名前だね。でも、愛なんてちょっと女の子っぽくないかな?』
『少しくらいいいじゃない、可愛らしくたって』
『それもそうだね』
二人は子供に名前を与え祝福した。我が子の誕生を。神様からの贈り物を。
夫婦は喜び、これからの未来に思いを馳(は)せる。楽なことばかりではないだろうけれど。この子の人生に、幸多くあらんことをと心の底から願いながら。
いつまでも、それは続くものだと思われた。
『どうしてこの子には信仰がないの!?』
*
「はっ!?」
ベッドの上で目を覚ます。辺りを見渡せば寮の部屋で、天井は二階建てのベッドだった。深夜の薄闇に自分の荒い息が聞こえてくる。片手を額に当ててみれば手の平が汗でべっとりだ。
「……夢、か」
体から力が抜ける。ふぅーと息を吐き、ベッドに預けた体が脱力(だつりょく)していく。
昔の夢。いつの夢を見たところでよい夢なんか期待出来ないが、よりにもよってあんな夢なんてな。
家族の夢。俺が、一番見たくない夢だ。
母親は高尚(こうしょう)な信仰者で神に感謝し神理を愛しているような女性だった。だからこそ無信仰者というのが受け入れられなかったのか。拒絶され、日に日に病んでいく母親は見るに堪(た)えなかった。
父親は気弱な性格で心配性の愛妻家(あいさいか)だった。精神を患(わずら)っていく妻を優先してか俺とは積極的に関わってくることはなかった。けれど息子に対する負(お)い目もあるらしく、俺を憐(あわ)れむ目を忘れたことがない。
両親は、いつも不幸だった。それが自分のせいだということに、俺は一人絶叫していたんだ。
生まれなかった方が良かったのか? 違う。常に自分に言い聞かせて、世界中から嫌われようが生きてきた。誰もが俺を拒絶しても、俺は生きていてもいいんだと決めつけた。
そう思わないと、やっていけなかったんだ。
脱力感にだんだんと心が落ち着いていく。夢の余韻(よいん)は薄れていき漠然(ばくぜん)となる。それでも悪夢の情景(じょうけい)は忘れるなよ、と脅迫(きょうはく)してくるようだ。
目を瞑(つぶ)る。涙はない。
ただ、こんな夜だけは誰かに傍にいて欲しい。そう思ってしまうのは心の弱さだろうか。
ったく、情けないよな。ざまあない。
「え?」
その時突然手を握られた。なんだと思い見上げれば、そこにいたのはミルフィアだった。
「ミルフィア?」
「はい」
声は安らぎに満ち、鈴のように透明感がある。
窓から差し込む月光だけが明かりとなってミルフィアを照らしている。美しい金髪が月によって輝いていた。
まさか、このタイミングで手を握られるとは思わず胸が飛び跳ねる。
「どうして」
「主が、苦しんでいるようでしたから」
ベッドからだらりと下がる片手をミルフィアの小さな両手が包み込む。温かく、心にまで伝わってきそうな微熱(びねつ)を感じる。
「汗をかいているようですね。すぐに濡れたタオルを持ってきます」
そう言ってミルフィアは一旦離れた。寮の部屋は基本的に生徒の二人一組だが俺には同室相手はいない。ここには俺とミルフィアの二人きりで、ミルフィアは水面台でタオルに水を含ませている。
ベッドに腰を掛け、すぐに戻ってきたミルフィアからタオルを受け取った。顔を拭けばひんやりとした冷たさが心地いい。
「ありがとな」
「いえ」
ミルフィアは正面で片膝をつき、褒め言葉に頬を緩(ゆる)ませている。満足そうな表情だが、奴隷の姿勢を貫くミルフィアに昼間の出来事が思い出される。
「ミルフィア、隣座れよ」
「いえ、私は」
「いいから座れって」
強引な誘いに「では、失礼します」と小さく頷いてミルフィアが隣に座る。俺は顔を前に向けた。そして、しばらくしてから話し出した。
「……親に、捨てられた夢を見たんだ」
独白(どくはく)は細く弱々しい。気持ちが沈んで、なかなか上がらない。
「一人には慣れてたと思ったが、未だに引きつっているんだな」
自分で言うのもあれだが、俺にしては珍しい弱音だ。久しぶりに見た夢にずいぶんと傷心したらしい。
「大丈夫です」
穏やかな声が聞こえ、俺はそっと振り返る「。
「私は、たとえ何があろうと主のお傍にいます。これからもずっとです」
優しい言葉。ミルフィアはいつも俺のことを思ってくれる。
「大丈夫です、主は一人ではありません。私がいますから」
彼女の優しさを利用するようで卑怯な気はしたが、同時に嬉しかったんだ。その優しさに不意に瞼の奥が熱くなる。そんな俺をミルフィアは微笑みながら見守っていた。
優しい奴だ。感謝してるよ。今日も俺を守ってくれた。
すべてが敵のあの場所で。
お前だけは、俺を助けに来てくれたんだよな。
嬉しかったよ。
そこで俺は思った。
じゃあ、代わりに俺がお前になにをしてやれるだろう。なにが出来るだろう。
そう思った時、ある考えが過った。
それは奴隷を止めさせること。そうすれば彼女は今よりも幸せになれるはずなんだ。なら、どうやって奴隷を止めさせるか。よく分からないが、でも。
友達になれたら、それはきっと奴隷を止めさせられた、ということじゃないだろうか?
そして、友達になる方法は昼間聞いたあれがある。
黄金律。
本当にこれで友達ができるなら。無信仰者っていう、俺なんかでも友達ができるなら。お前と友達になりたい。そして奴隷なんか止めさせたい。本気でそう思う。
だけど、そこで疑問が浮かんだ。
黄金律ってどうすればいいんだ?
ヨハネが言っていたこと。自分がされて嬉しいことは相手にもしてあげ、自分がされて嫌なことは相手にもしない。
もしミルフィアと友達になりたいのならされて嬉しいことだ。じゃあ、俺がされて嬉しいことってなんだろうか。
うーん、くそ、分からん。しかしだ、要はミルフィアが喜べばいいんだろ? ならミルフィアがされて嬉しいことってなんだろうか。どうやってミルフィアを喜ばせる?
再び考える。
「そうだ!」
そこで、あることを思い出した。
「ミルフィア、俺たちが出会った日って覚えてるか?」
「はい」
突然の質問にミルフィアが少々驚きながら答える。そうだ、思い出した。
俺たちが出会った日。それは、ミルフィアの誕生日でもあった。
ミルフィアはいろいろと謎の多いやつだ。それは誕生日も。彼女曰(いわ)く俺たちが出会った日に生まれたらしい。意味はよく分からないがそういうことで俺たちが出会った日がミルフィアの誕生日ということになっている。
「えっと、今日って何日だ?」
ミルフィアの誕生日。その日は覚えてる。四月の七日。
すでに十二時は過ぎてる。となると今日の日付は……。
俺はカレンダーを探すが、さきにミルフィアが教えてくれた。
「今日は四月の四日です、主」
「四日!?」
てことは、あと三日しかない? いや、使えるのは実質二日だ。
ミルフィアを奴隷から止めさせると決めたはいいが、機会となる誕生日まではあと二日。それだけの間にしなければならない。
そんな、マジかよ……。
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