トイレ様様

そうざ

Grateful for the Toilet

 夜勤から帰宅して直ぐ横になったものの、年齢の所為か近頃は矢鱈にトイレが近い。否、ロング缶のビールをぐびぐびやりながら帰宅したからか。

 総身を引き摺るようにしてトイレへ向かう。黒ずんだ廊下がギシギシと軋む。木造モルタル平屋建ての築うん十年。引っ越したいとは思いながらも、茅葺の時代から代々受け継いでいる我が家で、全く愛着がないと言ったら嘘になるし、何よりもじり貧の生活がそれを許さない。

 板戸をギィと開け、黄ばんだ便座に腰を下ろす。北向きの高窓からの採光は乏しい。夏はむしむし、冬はぶるぶる、立ちしょん禁止の狭小空間だ。

 ――コン、コン、コンッ――

 入ったばかりだ、と言い掛けて口をつぐむ。寝惚け眼だと思わず応えてしまいそうになる。

 ――コン、コン、コンッ――

 息を殺す。念の為、放尿も一旦停止。

 ――コン、コン、コンッ――

 今日は朝も早よからしつこい。

 漸く気配が遠退いた時、微かに甲高かんだかい声が耳を掠めた。残りの尿を出してフゥ~ッと一息。

 立ち上がろうとした瞬間、板戸が勢い良く開けられた。

「うわぁ!」

「びびったぁ、こっちがうわぁだよっ!」

 息子だった。もう幼稚園の制服に着替えている。

「まさか、さっきのノックはお前か?」

「違うよぉ、ノックするなってパパがいつも言ってるじゃん」

「だからって急に開けちゃ駄目だ。中に誰か居ないか、様子を窺ってから――」

「もう漏れちゃうよぉ!」

 息子は慌ててトイレに駆け込んだ。

 やっぱりノックでも声掛けでもない、家族間だけで通じる合図を考えた方が良いかも知れない。


 台所へ行くと、出勤の準備を済ませた妻がコーヒーを一気にあおるところだった。娘はまだ暢気にトーストをぱくついている。

「早く食べちゃいなさい、遅刻するわよ」

「今日は休む」

「今週はもう二日もサボったでしょう?」

「変な言い方しないでよ、月に最低十日は欠席する規定きまりなんだから」

「も~っ、減らず口ばっかり。パパからも何とか言ってやってよ」

「まぁ、宿題はちゃんとやんなよ」

 スーパーのパート従業員と夜間警備員の夫婦。二人の収入を足して漸く娘の稼ぎとになる。娘に大きな顔は出来ない。

 息子がトイレから戻ったので、話はそれ切りになった。妻は息子を幼稚園に送ってから仕事へ向かう。

 妻は毎朝、用を足さずに出て行く。例のノックが鬱陶しい為、なるべく家のトイレを使いたくないのだ。

 もう一眠りしようと床に就いたが、程なくまた膀胱が重くなり始めた。寝る前のロング缶はもう止めよう。


 板戸に手を掛け、さっき息子に言い聞かせた事を思い出した。念の為、板戸に耳を当ててみると、床との隙間からノートの切れ端が滑り出た。『開けたら殺す』と来た。

 危うく勝手に開けるところだった。小学生でも中学年となればもう充分デリケートな年頃だ。何よりもの邪魔をしてはならない。

 ――コン、コン、コンッ――

 誰かがノックを始めた。勿論、中に居る娘の仕業ではない。

 ――コン、コン、コンッ――

 用心の為に数歩ばかり廊下を退く。当初は要領が悪くて痛い目に遭った。

 ――コン、コン、コンッ――

 次の瞬間、戸が勢い良く開け放たれた。室内に娘の姿はない。幾つもの悲鳴が微かに響き、遠ざかって行く。

 やがて板戸は我が意を得たりとばかりにゆっくり閉じた。

「……もう済んだか」

 小声で訊ねる。

「仕事は済んだけど、丁度と思ってた時だから」

 ちょろちょろと水音がする。

 娘は学校を休む日の大半をトイレで過ごす。それが規約だ。

 出て来た娘の手にはノートと鉛筆があった。トイレでも宿題をやっているようだ。決してずる休みではない。娘様様である。


 察しの良い方ならば既にお気付きかと思う。以前一世を風靡した某怪談の元ネタは、我が家の日常なのである。

 ご存知のように、基本フォーマットでは花子さんおんなのこのみが主役に起用されているが、これには理由がある。

 怪談の舞台は学校のに設定されているので、男の子や大人はそぐわない。増してや夜勤明けの疲れた中年男が登場するのはコンプライアンス的に宜しくないという時流に沿った配慮である。

 一時期のブームは過ぎ去ったものの、人気は根強い。原作権を持つ我が家は未だに印税の恩恵を受けている。

 だったらせめてリフォーム工事くらいすればとの意見もあるだろうが、下手に家の造作を弄ってこの類稀たぐいまれがふいになったら本末転倒なので躊躇している。これは目下、我が家の悩みである。

 ――コン、コン、コンッ――

 また何処かの学校で肝試しを始めたらしい。

 息を殺す。念の為、放尿も一旦停止。

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