飛び降りた瞬間の、ふわっとした感覚。

 そんな柔らかな感覚は、首にロープが絡まり止まった途端、瞬時に激痛へと変わった。

 痛い。苦しい。

 そんな言葉で表現できるものではない。

 思わず首元のロープに両手をやり、それを取ろうとする。が、自重により深く締まったことで、飛び降りる前にはあった隙間が無くなり、どう足掻こうが指が入る隙間もない。

「か、あ」

 声が出ない。

 というより、出せない。息もできない。それもそのはず。窒息死する程というのだから、発声も呼吸も、思うようにできる訳がない。

 首を爪で引っ掻きつつ、体を上下左右に揺らす。

 ぎぎ、ぎぎ、ぎりり。

 ロープがフックと擦れる不愉快な音。

 耳はまだ健在か。いや、そんなことはどうでも良い。

 なんだ、これは。

 すぐに意識を失うはずではないのか。

 話と違うではないか。

(い、いや)

 今更、何を言っている。

 そんなこと、分かっていたはずだろう。

 死ぬということが、簡単ではないということに。

 死ぬということが、どれだけ恐ろしいかということに。

 今際の際、そんなことを考えていた時だった。

 ふっ、と首にかかる力が抜けたかと思うと、自分の体が下がっていく。床に踵から落ちる。同時に、まるで足裏に強い電気が走ったかのような、鋭く激しい痛みと痺れ。体を丸め、思わず足を抑えた。

 何が——。

 起きたのだろう。混乱する頭、足の痛みと戦いながらも、未だストロボのようにちらつく視界で、よろつきながらも自分が今程吊られていたフックを見上げた。

 首にかかっていたロープの輪の、一部分が千切れている。ロープが、自分の体重に耐えきれなかったのだ。

 しかし、そう冷静に判断できるのはそこまでだった。周囲の状況を見て、思わず息を呑んだ。

 まさに、地獄絵図だった。

 隣ではミナが。他の机の間にはマサキ、ジュン、スミエが。首を吊り、宙に浮いた状態にあった。

 思わず、後退る。吐き気が込み上げてくるのを必死で抑える。誰もが、今の今までの私同様、空中で暴れていた。ロープを首から外そうにも外せない、宙に浮いたその状態では、そこまでの力を出せる訳が無いのだ。

「な、あ、えああ」

 隣のミナが、悲痛の叫びを甲高く上げた。

 顔面を真っ赤に紅潮させ、目から、鼻から、口から。顔のあらゆる穴から、赤い血の混じった泡を吹く。その絶望的な表情。そしてそんな死に際な彼女の視線の先にいる私。

 ぞくっと背筋に冷たい感覚がして振り返った。

 吊られた他の三人が、私を見ていた。

 苦痛に顔を歪め、虚ろな眼で、私を。

 何をしている。

 失敗したのなら、もう一度。

 もう一度、早く。

 早く、ロープを首にかけろ。

 今の私と。俺と。あたしと同じように。

 早く。

 早く!

「そ、そんな」

 私には、できない。

「いやだ…」

 こんな恐ろしいこと、できる訳が無い。思うが早く、その場を離れたい衝動に駆られた。しかし、その思いとは正反対に、脚に力が入らない。

 なんで。なんで、なんで。

 どうして。

 目の前の光景に全身がすくみ上っているというのか、立つこともままならない状態だというのか。

「あ…」

 そうしている間も、頭上で吊られている彼らはもがき苦しんでいる。私はそんな現実を認めたくないのか、腿を両拳でばんばんと叩く。

 早く、早く立ち上がって!

 じゃないと…もう。

 そうして目を閉じ、一人焦燥感に駆られていた次の瞬間だった。


 どすんっ。


 そんな、大きな音。聞こえたかと思えば、立て続けにもう一回、二回。振動が、自分の体を伝ってくる。

「えっ」間抜けな声を上げる。間違いない。今の音は床からだ。物が落ちた際の、落下音である。

 まさか。

「…いてて」

 部屋の中、少し離れた場所からかすれた声が聞こえる。なんてことはない。つい先程まで聞いていた、ジュンの声だ。

 瞼を開き、私は視線を上方へと向けた。そして、目を見開いた。無い。今の今までロープに吊られていた、マサキ達が、消えてしまっているのである。

「あーあ」

 またもジュンの声。

「今回は、失敗ね」

 続いてスミエの声。彼女はジュンの隣にいた。声もその辺りから聞こえるが、床に座り込んだ私では、机が邪魔で向こう側を見ることはできない。


 ——これは。


「カヨさん」

 ふと、声がした方向に目を向けると、私と同じく床の上に倒れているマサキの姿があった。彼は腰をさすりつつ、眉をひそめて私を見ている。

「申し訳ありません」

 私みたいに、予期せずロープが切れたわけではない。彼の態度から、私は自分の頭で考えていたことに確信を持つことができた。


 ——これは、つまり。


「皆さん。自殺するフリをしていたんですか」

 私がそう言うと、マサキは「ええ。あなたを除いた私達全員で」と頷いた。

 あまりにも素直に認めるので、緊張で固くなっていた全身から力が抜ける。というより、話が急展開過ぎて、なんと返せば良いのか、分からなくなっていた。

 自殺のフリだって?

 何故、そんな真似を?

「ど、どうして」

「それはあなたをだますためです。カヨさん、あなたを」

「騙す?一体…」

 次いで質問しようとしたその時、私の声はスミエに遮られた。

「割り込んでごめんなさいね。カヨちゃんは色々気になっていると思うけど、一人忘れていないかしら」

 そう言われて、スミエを除く私を含めた三人共にハッとなった。そこでようやくもう一人…ミナのことを思い出したのだ。

 ミナはまだ、ロープに吊られていた。気付かなかったのは、彼女があまりにも大人しいため、部屋の一部に同化していたからだ。

 ぎぎ、ぎぎぎ。

「ミナさん。もうフリは良いんですよ。早く、そのロープを切ってください」

 マサキがミナに声をかける。が、彼女はそのまま微かに揺れているだけで、返答はない。蒼白な顔面をして、宙吊りのままに両手をだらりと下に垂らしている。

「ミナさ…」

 彼女に近寄ったマサキは、途中で言葉をきゅうした。顔を引攣ひきつらせて、半歩程後ずさりをする。

「ど、どうしたの?」

 スミエの問いに、彼は震えながら答えた。

「…んでいるんです」

「え、なんですって?」

「だから!」彼は、改めて大声で叫んだ。


「ミナさんが、死んでいるんですよ!本当に首を吊って!」

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