第2話

 時間は少し戻り、その日の朝。


 五月。天気はくもり。




「行ってきまーす」




 少年は家で洗濯物を干す母親に挨拶をし、歩いて高校へと向かった。


 少年の名前は白銀拓海しろがね たくみ。今年の四月から高校生になったばかりの子供だ。周囲に対して気配りができ、社交性もそれなりにあるいわゆる良い子だ。




 彼は母親と二人で暮らす母子家庭だ。父親は彼が生まれる前に蒸発したと母親から聞かされていた。




「ああ、やだなぁ」




 通学路を進む拓海はため息をついた。拓海の成績は中学生のときから悪い。特に算数が不得意だった。だから今日の授業の一つに数学があるというだけで気分が下がってしまう。


 ふいに、背後から自転車が迫る気配がした。




「おーい、タクさん!」




 声がして、拓海は振り返った。彼の目の前で自転車が急ブレーキをかけて止まる。




「おはよう! わはは、ビビったか?」

「ビビってねーよ」




 表情には出さなかったが、拓海は冷や汗をかいた。


 拓海と同じ学生服を着た生徒は、朝だというのに元気が溢れて止まらない。


 生徒の名前は日暮久郎ひぐれ くろう。拓海は漢字が少しだけ好きだ。だからこの名前を見て最初『ひさお』と読んでしまったが、本人曰くどうやら『くろう』で間違いないようだ。なんて変な名前だと思ったが、拓海は自分と同じ苗字の人間が周りに一人もいないのを思い出して何も言わなかった。おそらく久郎本人も変な名前だと理解しているだろう。


 拓海と久郎は入学式に知り合い、今ではお互いのことをタクさん、クロとあだ名で呼び合うくらいの友達だった。


 久郎は自転車から降り、二人は通学路を歩いて進む。




「クロ、なんでそんなに元気なのさ。俺なんか昼にならないと調子でないのに」




 拓海は朝に弱く、テンションが低い。朝の時間に限っては久郎の元気っぷりがうっとおしいくらいだ。




「それは最近枕を変えたからだ。おかげで肩が凝って仕方ない」

「全然快眠できてないじゃんか。てか肩凝ってんじゃん、前の枕戻せって」

「悪い、嘘ついた。俺寝てないんだわ!」




 笑顔を振りまく久郎の目の下にはクマが浮き出ていた。寝ていないからテンションが高いのだ。




「寝てないって、まさか本当にやりこんでたのか?」




 久郎が寝ずにしていたことを察して、拓海は驚いた表情をする。思い当たる節がある。




「もちろん。俺は有言実行の男だぜ」




 久郎は今週の初め、拓海に難関を寄こせと迫ってきた。最初は何を言っているのかわからなかったが、五月病が怖い彼なりに刺激のある一週間にしたかったそうで、とりあえず拓海に課題を用意して欲しいと頼み込んだというわけだ。


 なんだか相手するのが面倒くさかった拓海は、近所のゲームショップで適当に選んだギャルゲーを買ってこいと言ってみた。すると久郎は次の日本当にギャルゲーを買ってきたのだ。


 年頃の拓海としては萌え萌えなパッケージのギャルゲーを買うだけで十分恥ずかしいと思っていたが、久郎は購入だけでなく、さらに三日で全キャラのルートをクリアして見せると声高らかに宣言した。


 今日はその三日目だ。




「で、徹夜までしたってことはクリアしたのか?」

「俺さ、やっぱり絵なんかよりも現実の女の子のほうが好きだな」

「ってことは投げたのか。もしかして画面の向こう側にフラれたとか?」

「言うな!」

「はいはい」




 拓海は愛想笑いを浮かべていたが、そうしているうちにだんだん本物の笑いが込みあがってきた。




「そう言えば、お前が失敗したときの罰ゲームがあったような気がするんだけど」

「うっ」




 久郎はクリアを宣言したとき、さらに自分を追い込むために罰を用意した。もしクリアできなければしばらく掃除当番を拓海の分までこなすというものだ。これから一週間、拓海は嫌いなトイレ掃除をしなくて済む。そう思うと自然とにやけてしまう。




「大体さ、興味のないギャルゲーをするってのが無謀なんだよ! てかなんだよ告白にコマンド入力要求するって。ミスると即ゲームオーバーって、そんなのありか?」




「でもお前はできるって言ったしな。今日から一週間トイレ掃除よろしくな」




 そう言うと拓海は通学路から脇道へ外れた。自転車では通れないほどの狭い小道だ。




「あれはノーカウントだ! 次は勝つ!」




 拓海の背後で負け犬が吠えている。自転車の久郎はここを通れないのでここから一人だ。


 この小道は彼の通う高校の敷地の隅に続く。ここを通ればわざわざ高校をぐるりと回りこまずに済む。ずっとこの街に住んでいなければ見つけることはできない彼だけの近道だ。


 おそらく先生に見つかれば問題になるであろうこの近道を抜け、錆びついた裏門を開ける。この瞬間を誰かに見つかってしまえば先生が鍵をかけるだろう。そうなれば拓海はこの近道が使えなくなり、あと五分は早く起きなければならなくなる。


 裏門を静かに通り抜け、何食わぬ顔でグラウンドの隅を歩いて昇降口へ向かう。


 拓海は高校一年生。一年生の教室は一階にある。昇降口から一番離れている場所に教室があり、そこは日当たりがあまり良くなく、廊下もじめじめした印象があった。




「ま、俺は寝てるだけだし」




 拓海は荷物を自分の机に置き、そう呟いた。


 授業中に寝ているときに直射日光が当たるよりは、今の環境の方が彼は好きだ。












「我々人類は長らく科学技術が停滞し、暗黒時代が続いています。正確には暗黒時代というものは戦争や政治的に不振な状況で呼ばれるものではありますが、現在まで世界中では大きな戦争もなく、かといって疫病も流行っていません。しかしながら人類は間違いなく暗黒時代真っ只なかにいることでしょう。なぜなら何も起きないからです。先ほど述べたように、人は死なず、そして人口が大きく増えることもない。平和というものは人類を進化させるために邪魔な存在となります。これを良しとするか、それともなんとかしなければと思うかは個人の自由です。個人的には私はこのまま地球が終わるまで人類は平和でいて欲しいものですが」




 教師の話すことは脳みそが理解を拒否してくる。もはや地球外の言語としか思えないこの世界史の授業を耐え忍び、その後地獄そのものである数学も問題なくやり過ごた。あっという間というには苦痛が伴ったものの、とにかく拓海はその日の授業を乗り切った。


 下校時間になり、拓海は一人で帰宅した。久郎は彼の分の掃除を任されているほか、なにやら気に入る部活動探しに必死とのことで、一人で帰らざるを得なかった。拓海は部活動に興味などないのだ。


 彼が家に帰ると夕飯までひたすらゲームをする。遊ぶのを楽しみにしているゲームはないものの、時間を潰すには持ってこいだ。飽きたら次のゲームを買うだけ。


 彼は決して勉強などしない。どうして自分の成績が悪いのか拓海自身も理解していたが、それでも何かを学ぶ気にはなれなかった。勉強したところで、将来の何に役に立つのか誰も教えてくれないからだ。


 そんな子供じみた考えは良くないと思いつつ、今日もまたゲームをする。今のお気に入りは格闘ゲームだ。


 いつもなら夕食のいい匂いがリビングを充満させている頃、それは夜の七時を迎えようとしている時間だ。


 今日に限ってリビングがやたらと焦げ臭い。たまに母親は料理をしくじることがある。今日はその日なのかと思ったが、それにしてはあまりにも異様な臭いだ。まるで火事のようだ。




「なんだ?」




 拓海はあまりの焦げ臭さにゲームを一時中断して台所へ向かった。




「うおっ、燃えてる!」




 台所のコンロから火柱が上がっていた。鍋が燃えているようだ。拓海は慌ててコンロのつまみを切り、着ていたパーカーを鍋にかぶせて消火を試みる。彼が思うほど困難はなく、あっという間に消化が完了した


 。


「なぜこんなことに……」




 焦げた鍋の中身を見て拓海は呟く。もはや何を作っていたのかわからないほどに炭化しており、焦げを落としたところで鍋の再利用も難しいだろう。


 彼の母親が台所で調理をしていたはずだが姿がない。鍋に火をかけたままいなくなるなど言語道断、料理をする資格はない。




「あらぁ、なんか臭いわねぇ」




 呆然と鍋を眺めていると、拓海の母親がリビングに戻ってきた。手には電話の子機が握られている。どうやら電話をしていたようだ。拓海の母親が料理のことを忘れるほどに会話に熱中するのは珍しかった。なぜなら母親は近所付き合いがほとんどなく、友達がいる様子も今までなかったからだ。




「お母さん! 燃えてたよ!」




 誰と電話していたのかはともかく、火事寸前まで放置していたのは拓海は許せなかった。大声を上げて注意するも母親には全く響いている様子は見えない。




「そうなの? それじゃあ夕飯どうしようかしら。拓海くんは焦げた料理でもいい?」


「いい訳ないよ! もはや炭だよコレ、絶対食えないって!」


「そんなのやってみないとわからないわよ?」


「なにそのチャレンジ精神! 無理なもんは無理だからね!」


「これはシチューよ。ただ煮込みすぎただけ」


「煮込みすぎたシチューってなにさ! 俺を殺す気か!」




 これ以上母親と言い争っていてもなんにもならない。拓海はあきらめて近所のスーパーへ出来合いのおかずを買いにいくことにした。幸いにも米なら炊いてある。白銀家はシチューをおかずに米を食べる派なのだ。




「すぐ戻るからお金ちょうだい!」




 拓海は母親から千円をもらい、家を飛び出して母親の自転車を走らせた。拓海は自分の自転車を持っていないのだ。


 スーパーは商店街を抜けた先にある。寂れた商店街を抜け、目的地で買い出しを済ませる。今日のおかずは半額になった唐揚げだ。それときんぴらごぼう。彼にとってどちらも特に大好物ではないものの、誰も文句を言わない鉄板おかずで間違いない。




 帰りも商店街を通る。


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