第15話──出会いと別れ、そして今

 一面の草いきれの匂いに目を覚ます。体を起こせば目の前には何十頭もの牛が足元の餌をんでいた。周りを見渡せば、視界の果てのどこまでも広がる草原に、遠くに見える脈々と続く山々、そして赤い煉瓦で建てられた我が家が、落ちる寸前の赤い夕陽に照らされていた。


「夢、か」


 そうだろう。失われたはずのものはもう夢の世界にしか存在しない。


 ふと、幼子の声がして顔を向ければ見知った顔が2人歩いていた。咄嗟に牛と牛の間に隠れる。


 いや、何をやってる。夢なのだから隠れる必要はないはずだ。


『この牛のミルクが僕たちの宮殿にも届くの?』


『うん、そうだって。お父さんとお母さんが言ってた。うちのミルクとうちの茶葉で作ったミルクティーが一番美味しいんだって。私もいつか大きくなったら、ミルクと茶葉を持っていってマリクに紅茶淹れてあげるね』


 会話に釣られて離れたところからそっと2人の様子を窺った。幼い頃の王子と私が風に髪をなびかせながら散歩している。実に羨ましいことに手をつないで。


 私が王子と過ごした期間はほんの数日のことだった。現国王の視察に同行していた王子が、おそらくは退屈しのぎで私に話しかけてくれたことがきっかけで始まった数日間だった。


 今思えば、現国王は王子が成人の儀のあとに街を回ったように、王宮に卸している品物の品質や管理状況、それから山の向こうにある隣国に対する防衛状況の確認へ赴いたのだろうが。


 このときの会話は覚えている。王子と私は日が暮れるまで外で過ごし、他愛もないことを話していた。言葉の一つ一つを覚えている。幼い頃から今と変わらず優しい笑みをたたえた王子は、私の話をなんでもうなずいて聞いてくれて、私もまた変わらぬ碧い双眸を見つめながら王子の話を興味深く聞いていた。


 私は悟られまいとしていたが、この後あることを告白しようとしていたから内心は穏やかではいられなかった。今日は王子が帰還する日だった。


 場面は変わり、私は一人自分の部屋の中にいた。強い風が壁を打ちつける中、微笑みながら王子からもらった絵本を読んでいる。……この先は、ダメだ。見たくない。


『あれ?』


 階下から物音がする。私は、もしかして王子が戻ってきたのかと思い、扉を開けていた。ゆっくりとした足取りで居間へと降りていく。やめろ、ダメだ。やめろやめろやめろやめろ!


『ヒッ……!』


 幼子は見た。ランプの灯りが照らすのは葡萄ぶどう酒のような血溜まり。見知らぬ男がお父さんの胸にナイフを突き立てていた。耳をつんざくような悲鳴が上がる。





 涙が頬を濡らしているのを感じて目を開けば、私は自室のベッドに眠らされていた。側にいたアーダンがすぐに気がつき、目を大きく開けたあとにあいまいな笑みを浮かべる。


「悪かったな。意表を突かれたんで咄嗟に紋章を使っちまった」


「いや、いいんだ」


 気づかれぬよう目をこする振りをして涙を拭う。


「それより、今は? 王子は何をしておられる」


 アーダンは壁の側に置いた椅子から立ち上がると顔をのぞき込んできた。


「おいおい、またすぐに王子の心配か? 秘書官殿は王子にご執心だな」


「そ、そんなことはないぞ。ただ、私は秘書官だからな」


 大きな声で笑うと、アーダンはまた椅子に座った。一度深く息を吐くと、深い眼差しが私を見据える。


「あまり気を張りすぎるなティナ」


「なっ……なに?」


「執事から聞いた。防衛大臣のノルドマンがひどい罵声を浴びせたとか」


 毛布をめくって、体を起こす。


「それは違う! 私が不甲斐ないばかりに王子に迷惑をかけてしまった!」


 咄嗟に頬を触った。いきなり動いたせいか槍の先がかすった傷が痛む。


「痛いはずだ。無理やり突っ込んできたからな。かすり傷ですんで本当によかったが、戦ってたのがお前と俺じゃなければもっと大きな怪我をしていたかもしれん」


「……アーダン、何が言いたい?」


「無理しすぎてるってことだ。気持ちはわかる。就任早々、咎人の襲撃に大臣からの叱責、それにまあ、あの紋章士の出現。秘書官としての適性を示さなければいけないと思ってんだろ」


 アーダンが一つ一つ言葉を選びながら話している最中、私はただただアーダンの顔を見ていることしかできなかった。何も言い返す言葉が見つからなかったせいだ。


「長く軍隊にいたからわかるが、新兵はみんなそうだ。実力を見せつけようと必要以上に張り切ってしまう。だからこそ、忘れるな。並みいる候補者のうち、王子が選んだのがティナ・アールグレン。お前なんだ」


「王子が……私を?」


 王子もそう言っておられた。だけど、王子の一存だけで決まるものではないはずだ。大臣級の会議で多くの議論を経て──。


「ティナを推薦したのは王子ただ一人だった」


「えっ?」


「そうだ。王子だけがお前をしっかりと評価していた。他の者は全て反対だったが、王子は折れることなくそして結局、お前が秘書官に選ばれたんだ」


「なぜ、なぜだ? どうして王子は私を!」


 アーダンはふっと微笑むと椅子から立ち上がった。


「そんなん知らねぇよ。いつか自分で聞いてみたらどうだ? じゃあな少し休めよ……っと、王子ならまだ紋章の訓練中だ。気絶してからそんなに時間経ってないからな」


 アーダンは部屋を後にした。体は重くベッドへと体を預ける。でも、心は不思議と軽やかだった。


「……王子が、私を選んでくれた」


 つまり、私は王子に選ばれた。いつからかわからないが、秘書官になるより前に王子の目に私が留まっていたことになる。


 その事実になんだか体がくすぐったくなり、私は毛布の中に顔を隠すと何度か寝返りを打った。


 マリク王子は、私を見ていてくれたんだ。

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