第5話──黒い影

 王子は、近衛兵が買ったリンゴを一口かじると美味しそうに笑顔になった。この国の大事な交易品でもある食の安全と品質を自らの舌で確認することはきっと良いことなのだろう。


 王宮にほど近い場所に位置するのは商業区となっており、平日休日問わず日用品から食料品、衣服に服飾品、本や娯楽品などなど必要なものを買い求める市民たちでごった返していた。


「いやいや、すげぇ人手だな。王宮の中にいると静かなもんだが、一歩外へ出るとこんなにも活気づいてるもんか? 王子なんてさっきから手当たり次第に食べまくってるぜ」


「王子は味を確かめているのでしょう。王宮で口にするものは、もう一流のシェフによって作られた料理。それも市民が食べないような高級品ばかりです。こうして市民が食べるものを自ら食することで、その質と安全を確かめているのです」


「ふーん、そんなもんかね。俺はてっきりお固い行進が面倒くさかっただけなような気がするが。おっと、つい王宮や王子の話をしちまう……そうだな。ティナは、確か市民出身だったか? 城下町の説明をお願いしてもいいか? 下手におしゃべりするよりかはその方がいいだろ」


 ディンブラ殿の言うことも最もだった。まだ顔を合わせてから日も浅く、共通の話題と言えば王宮か王子の話題になってしまう。それに、王宮の大多数を占める貴族出身者と違ってディンブラ殿はこうして気さくに話してくれる。町の話はきっと興味のそそるところになるだろう。


「承知しました。では、まず第一に城下町の構造ですが、主に3つの構造に分かれています。一つは、ここ商業区。市民の台所とも言える場所でありとあらゆる食品とともにその他の品物を取り扱っています。二つは、ギルド区。職人たちのエリアですね。冒険者御用達の場所でもあります」


「王宮で扱う武具や紋章なんかもここから仕入れてるって聞くぜ。まあ、末端の俺たちは与えられた武器をただ使うだけだが。……おっと、うまそうなステーキがあるぞ。おっさん、この肉はいくらだ?」 


 ガハハハハ、と笑いながら牛肉のステーキを購入すると、分厚い肉にフォークを刺してその場で食べ始める。


「……ディンブラ殿」


「わかってるって! だけど、ずっと後をつけてるのも変だろ! それに、ディンブラ殿はやめようぜ。アーダンで呼んでくれよ」


「……承知した」


 実に美味しそうに分厚い肉の塊を口の中に放り入れるディンブラ殿──もといアーダンを置いて先を急ぐ。この人混みの中で王子を見失うわけにはいかない。


 満腹になったのか今度は書店の表へ出された本棚から本を物色する王子の様子を見ながら、時折周りの景色に目を留める。


 私が王宮に仕えてから何年経っても、変わらない景色がそこにはあった。子どもの頃は月に一度、両親と手をつなぎ、この通りを歩くのが何よりも楽しみだった。指折り数えてその日を待っていたことが遠い昔のことのようだ。


 いつからか私の手をつかむのは両親ではなく神父様やシスターに代わり、やがて幼い孤児たちに代わった。そう言えば、王子と歩くのも子どもの頃からの夢の一つだ。


 王子は、あの頃より立派になられた。背は私よりも低かったものだが、今は私よりもぐんと伸び、ほどよい筋肉が体を引き締めておられる。


「おっ? どうした、今度は怖い顔をして」


「アーダン。いや、少し過去を思い出していてな。さっきの続きだが、商業区とギルド区を真っ直ぐ進んだその先にあるのが住宅区だ。目印は教会」


 そう、両親が殺されたあとに私が引き取られた場所だ。あの日のことは忘れられない。私の人生の全てが変わった日だ。


 あの日、あの夜。私たちは、黒い影の怪物フォヴォラに襲撃された。生かされたのは私だけ。あの感覚は今でも──。


 全身に鳥肌が立った。振り返れば喧騒に包まれた住宅街が変わらずそこにあった。だが。


「どうした? ティナ?」


 一瞬。一瞬だけだが黒い影が人々の間をすり抜けて店の奥へと消えていくのが確かに見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る