幽世世界に迷い込み
@kubiwaneko
前編
1章『せめて願いを聞きたくて』
「あら、まだ居たの? 穀潰し」
蔑む感情を包み隠さず言い放った女性の冷たい目線が少年に深く突き刺さる。この蔑む目線も、周りに佇む誰一人としてそれに抗議して少年に味方しない使用人たちも、少年にとっては日常茶飯事のものだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
中性的な声で、言い慣れた謝罪の声が小さく館内に響く。
少年は何にも染まっていない、雪のように白い白髪をしており、髪を伸ばせばそのまま女子と言っても疑わぬほどの顔立ちだ。翡翠色の相貌も相まって、非常に可愛らしい容姿をしている。
――ただし、
「生きてるだけで居場所を使う蛆虫がなんで謝罪だけでここに居られると思っているの?」
少年はもう次に何が起こるのか察していた。そしてその少年の予想通り、甲高く乾いた音が少年な頬を穿つ。かと思えば今度は白髪を容赦なく掴まれ、少年の白い肌に女性の拳が振るわれる。
――痛い、体中がいつも。全治した日なんてないし、治る前に新しい傷が増える。
――殴打、平手打ち、裂傷、蹴り付け、幾度も何度も繰り返し。
だがこの洋館から追い出されれば居場所などないから、生きていけない。だから謝って、謝罪して、なんとか機嫌を保つしかないのだ。
「――奥様、平民代表との会議がもうそろそろでごさいます」
「あら、もうそんな時間? ――じゃあね蛆虫。その血を洗って、ちゃんと屋敷の掃除をすましておきなさい。できればそのまま死んでも構わないわ」
本心からそう告げられるのも、もう慣れてしまった。
――口元をゴテゴテした装飾の扇子で隠してクツクツと嗤う女性は少年の母親である。
実の母親でありながら、少年を見限ってこのような扱いをしているのだ。そして、当の本人もそれを異常と思っていない。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
暗い声で、すすり泣くような声で謝罪する。
――今日は運が良かったと、少年は口から血を吐きながらそう思った。
殴られたのも赤い絨毯の上。そこまで血も目立たない。部屋で殴られると木製の床に血が染みて取りにくいのだ。
少年は1人で健気に自分でつけてしまった血を拭う。――当然、使用人は掃除を手伝ってはくれない。無言で少年を見下ろすのみである。
何もしないのは、少年が悪いからだと常々少年は考えていた。
自分で汚した部分は自分で綺麗にしなければいけないのだ。
朦朧とする意識を叩き起こし、倦怠感の止まらない体を叱咤して、口では謝罪を発しながら。
強く当たられるのは自分が悪いから。殴られるのは自分に責があるから。罵られるのは自分が期待を裏切ったからだ。
「ごめんなさい……ごめん、なさい。――お母さん」
だから今日も、この扱いに疑問を抱かずに少年は謝り続ける。例え暴力を振るってくるのが実に母親でも――悪いのはきっと自分なのだから。
その思考が異常な状態にあると、少年自身は気付けない。
だって当然だろう。――少年は生まれてこの方自身の住む屋敷から出たことがないのだから。
1
少年には名が無かった。――と言うより、つけられた名は母親に捨てられたのだ。
小さい範囲だが、少年の母親は村の領主だった。
後継ぎである息子が生まれず、夫の死亡と同時期に身籠ったのがこの少年であった。
「貴方は希望だわ!」
鋭くキツイ目つきを柔らかくしているのが、喜んでいた証拠だ。母親は本当に本心から喜び、幼少期から跡継ぎとして教育を与えようとしたが――、
「なんでこの程度が覚えられないの?」
領地を治めるために覚えなければならない、必要最低限の知識すら覚えられない。
「なんでこの程度ができないの?」
保有していて当然の身体能力を持っていない。
――領主として必要な能力が皆無。そして母親は、跡継ぎに相応しくないとわかるやいなや実の息子に愛情を注がなくなったのだ。
そしてそれはその母親が自分の子供を育てる親としての意識が欠落していることの証明でもあった。
当然、その扱いが日常となれば少年の常識も歪み続ける。――改悪、され続ける。
何をしても自分が悪いと思い込み、何をやっても原因は自分だと考えて、だから暴力を振るわれるのは当たり前だと思考する。
最早善悪すら区別する材料を持たず、強いて言えば悪いのはいつも自分自身だと思ってしまう。
そんな愛の無い扱いをされ始めたのが5歳の頃。そこから実に9年間、要するに14歳はその扱いが続いていた。それが今現在である。
殴られ蹴られ、掃除し料理し、文句をつけられそれを受け入れる。
それが続いて、継続されて、続投されて、毎日毎日毎日毎日――、
そして15歳の誕生日だった。
「おめでとう、穀潰し。今日は嬉しい日だわ!」
祝われた。喜ばれた。目の前の母親は少年には決して見せないような笑顔を、始めて少年に向けた。
――何故?どうして?
頭の中で思考がぐるぐると巡る。『何故』が『どうして』になり、『どうして』は『何故』となり、思考は纏まらず延々と堂々巡りする。
その、事実上の思考停止を見ていた母親は笑顔を再度少年に向けて、そしてその笑顔の要因を口にした。
「お前の代わりが見つかったの。――やっとお前を追い出せるわ、この蛆虫より汚い穀潰し」
よく、わからなかった。言葉として、文章として、頭に入ってきたモノは、少年の脳に理解を突き刺すこと無く右から入って左へ抜けていく。
――だが、そんな少年自身の状態など気にも留めず、母親は『手袋』をして少年の服を掴む。
もうボロボロでヨレヨレの、薄汚れた白い服。一着しか無い、貴重な貴重な大事な服。
その服を掴まれて、外へ通ずる重々しい扉を使用人が二人がかりで開き――、
「じゃあね。人目につかないところで野垂れ死んで?」
そんな言葉を最後に少年は投げ捨てられた。
――ドサッと音がして顔を上げれば、もう扉は物言わぬ壁へと変貌を遂げて少年の居場所を奪ってしまった。
「……ぁ」
――涙は流れなかった。捨てられて当然だったから。むしろ代わりが見つかるまで世話をしてくれたことを感謝するべきなのだ。
だから、悲しい感情は少年の胸には湧かなかった。
「……死ななきゃ」
言われたから。いらない少年を世話してくれた母親は、野垂れ死ねと言っていた。それでまたあの母親が笑顔になるのならば、最後くらい言うことを聞かないと。それが出来損ないにできる、精一杯のことだと信じて、少年は靴すら履いていない両足で歩き出した。
2
足裏に感じる感触は、尖った石や小さい岩の感触だ。もう小一時間ずっと歩いている。足の裏から流れる血や痛みは、僕はあまり気にしていなかった。
――それより、意外とどこにでも人がいることが少年には煩わしかったのだ。『人目につかない』ところが中々見つからない。
「トリック・オア・トリート!」
「ひえッ……」
突然そう大きな声でおどかされて、僕は小さく悲鳴をあげた。僕を驚かしたのは、傷だらけに見えるように装飾された仮面をつけて黒いマントを羽織っている子供だ。
だがサイズが合っていないので、ダボダボである。
「……とりっくおあとりーと?」
僕の頭に引っかかったのはその言葉だ。
聞き慣れない、どんな意味か全く皆目検討もつかないその言葉は、少年の心を何故か大いにかき乱した。
「……変な奴」
だが、そんな謎の感慨を感じ取れない仮面をつけた子供は、『とりっくおあとりーと』という言葉に反応出来なかった白髪の少年への嫌悪を包み隠さずに言葉にした。
その声音に、落胆されたと察した少年はまた1人で歩き出す。
周りはすっかり夜である。所々に生える木々と、一軒家の立ち並ぶ景色は、ここがあまり人口の多い地域ではないということを証明していたが、そんなことに少年は気づかない。
僕は、初めて見る光景に胸踊る自分に対して疑問を抱いていた。
――1人で歩き続け、段々と人が少なくなる。
遠目にポツポツと見つけることの出来た人影すら見当たらなくなり、少年はとうとう『人目の付かない場所』に辿り着けたと喜んだ。
ではどうやって死のうか。
「まず、何があったら死ねるのかな……」
少年は教養がない。知識がない。だから死に方もわからない。
もう少し進めば、眼下に広がる景色が少年の目へ入り込んだ。
ここは崖の上なのだ。それも高い高い崖の上。
「……落ちれば」
――死ねる。
なんの躊躇もなく、僕は今までと変わらない足取りで、空へと一歩足を踏み出し――真っ逆さまに落ちていく。
心に風は吹き荒れない。耳へ響く風の音をなんとはなしに感じ取りながら、少年の視界にぐんぐんと地面が迫ってゆく。
随分と世界が早く落ちていく。
「――僕が落ちてるからか」
小さく呟き、そして次の瞬間、少年の視界は暗転した。
2章『はろうぃん』
「にゃんでニンゲンがこんなところに……?」
「わからん。だがこいつは人の社会から摘まれた存在だろう。この風貌を見ればわかる」
「なんだかにゃぁ……ニンゲンの世界はつくづくめんどくさいにゃあ」
甘い声と、厳格な声が聞こえる。どちらも双方女性の声だ。
――少年の泡沫の彼方にある意識が、その声を捉えた。声はぼやけたノイズがかかっていたが、だが人の声だった。
「取り敢えず……いいんじゃねーのにゃ?」
「空中で……暴れられても……だしな」
やがてノイズが深くなり、またしても意識は彼方へ旅立ってしまう。
少年の全身から力が抜け、支えている力が強くなった。
「――あ、瞼がぴくぴくしてるにゃ! こいつ起きるにゃ!?」
「落ち着け。騒がしくしたら迷惑であろう」
暗転から舞い戻った耳に音が届く。
その次に聞こえた発言はもっと鮮明だった。
暗い視界がチカチカしだして、何度も瞬きをして世界をその双眸で捉えれば――、
周りに広がるぼやけた景色を見て、まだ寝ぼけているのだと少年は考え、すぐに自身の目を擦る。
「起きたにゃーっ! 起きたにゃーっ!?」
「――焼くぞ」
「にゃっ!?」
擦ったことにより世界は鮮明に輪郭を描き出した。
少年の視界に入ってきた情報の順番は、まず最初に木製の天井。そして次に2つの影だ。
その明瞭な視界に入り込んだのは、先の折れ曲がった黒く大きい帽子を被った女性と、クチナシ色の双眸を光らせる黒猫だった。帽子を被った女性は、全身から厳格な雰囲気を垂れ流している。
そのどちらとも目が合ったことを意識的に無視して、少年は半身だけ起き上がらせ、周りを見渡す。
――小さい家だった。畳間もそこまで無く、人1人が住める程度の広さに綺麗に掃除されたキッチンとその壁にかけられている料理器具など、生活感満載の内装だ。
外に繋がるドアから見て右に少年の寝ているベット、左にキッチンだ。塗装されていない木壁の外に広がるのは森林の一部分。
――つまり、
「……えっ、と、ここ……どこ?」
「お前自分がどこいたのか覚えてねーのにゃ?」
少しぼーっとしながら、自身の迷子を口に出す少年に対し、黒猫が返答する。
ただしその返答は疑問でもあり、そして猫自身は寝ている少年の腹のあたりに、敷布を挟んで二本足で立っていた。両手を垂らして尻尾がゆらゆらと揺れている。
「え、う、うん」
「――貴様は飛行中の私にピンポイントで突っ込んできたのだぞ」
「え、え……?」
厳格な女性が端的に状況を教えてくれるが、全く理解できずに少年は頭の上に疑問符を浮かべる。
「ここはウレリ森林の奥底だ。上に崖がある。大方自殺でも図ったのだろう? ――死ねてないがな」
見透かすような目で、見つめられる。
どこか哀れにするような、半笑いをするような声音で女性は話を続ける。
「何故死のうとしたんだ? まだ若いだろう」
そして続けられるその話は、当たり前だが少年が死ねていないことの証明でもあった。
つまり、死ねずに不明な場所に迷い込んだのだと要約で少年は理解した。
「なんにゃ? お前死ぬつもりだったにゃ?」
「あ、はい、ごめんなさい……というかなんでネコが喋って」
事実の完全理解が間に合わない。要約だけの理解、そして改めて見れば猫が立って喋っているというこの状況を見て混乱するなと言う方が無理だった。
質問への返答と、何故猫が喋るのか聞きたい衝動がごちゃ混ぜになっているのだ。
「質問したそうな顔してるにゃ! アチシはロウネにゃ! そしてここにいる厳しそ〜な魔女はアチシの飼い主にして世紀の大天才! その名もネルにゃ!」
「勝手に紹介するな。コイツが私達に探りを入れる亡者共の差し金だったどうするつもりだ愚図猫」
「崖から投身自殺するやつなんてあいつらの差し金にゃ訳……愚図!?」
――目の前でコントのようなやり取りが繰り広げられる。本人たちは至って真面目なのだろうが、傍から見たら最早掛け合い漫才だ。
「……まぁ、愚鈍猫の言うことは検討に値しないな。ひとまず貴様の言い分を聞こう」
その漫才に終止符を打ち、厳格な女性――ネルは少年を見据えて問いかける。
その目線には配慮も容赦もない。本当に、本気で、こちらを疑っているということだ。
――そして、その目に幾許かの心配と悲哀が混ざっていることに気づいたのは、猫であるロウネだけだった。
「……僕」
視線を落とす。落とした先にはロウネのクリクリとした目と目が合う。何故か気まずい雰囲気が流れてしまった。
「空気の読めぬ猫だな、つくづく」
「にゃーさっきっから聞いてりゃ言いたい放題して! もー許さんにゃ!」
そう言うとロウネは毛並みの良い左手の肉球に右拳を合わせて、ネルに飛びかかる。容赦なく頭を片手で鷲掴みにされた。
「いい痛い痛い痛い! 割れるにゃ! 割れるにゃ!」
そううめき声を上げるロウネから手を離して、改めてネルは少年と向き合った。
――視線の鋭さは変わらない。
「――」
今のやり取りを見て唖然としてしまった少年は、やがて口を開いて話し始めた。
――脳裏に浮かぶ単語は『死ねなかった』。それ以上でも以下でもない。そしてこの幼い白髪の少年は語り手としての配慮というものを知らなかった。
だから、
「僕、死のうとしてたんだ。お母さんに人目につかないところで死ねって言われたから」
一瞬、ネルが驚いた顔をしていた。同時に、空気が張り詰める。
だがその空気の中、そんな雰囲気など一切考慮せずに発言する者が1人――否、1匹。
「母親ぁ? お前人形かなんかなのにゃ?」
少年に配慮がなかったのなら、この黒猫には容赦がなかった。数秒前の頭へのダメージに頭を振りながらもこちらに視線を向ける。
その顔には呆れが表れており、尻尾を揺らしながら言葉の棘を躊躇なく少年へ突き刺す。
「……ごめんなさい」
――だが、棘はまともな楔を少年に下ろすことをできなかった。
むしろロウネが放った棘が刺さることによって顔を見せたのは、少年自身気づけていない、諦念と悲痛と自罰に満ち溢れた感情、そして言い慣れた謝罪の言葉だった。その声音はもう救われることを諦めた――否、そもそもこの少年は自分が救われるべき存在だと思っていない。
「……ま、無理に話は聞かねーにゃ」
触らぬ神に祟り無し、である。ロウネはそう思い、適当に治療してやったあとに森にでも何でも放り出してしまえば良いと考えた。
「ネル、こいつは……」
だが、
「貴様は暫く私が保護してやる。――その性根を叩き直してやる」
腕を組んだ目つきの悪い魔女は、黒猫と真反対の結論を出していた。
1
不愉快という感情を丸出しにして少年を見つめるネルは、しかし少年を保護すると言い出した。少年は驚愕に顔を染め、しかしそれと同時に『死ねないこと』に対する不安を感じていた。
「安心しろ、3日だけだ。ハロウィンがあと3日で終わるからな」
ネルは少年に永遠に面倒を見る気はないと言い切る。先刻からその黄金色の双眸に宿る感情は不愉快から変わる兆しを見せないが、少年はまるで気にしていなかった。
それどころか、空気を読まずに自身の疑問をネルへぶつけたのである。
「その……はろうぃんってなに?」
声音に嘘は無い。そのことも合わせて、ネルも流石に驚いた顔をしていた。
思わずネルとロウネは顔を見合わせる。ベットからキッチンへ移動して、2人で小声の密談の開始である。
「……私でさえ知ってるのだぞ?」
「アイツはガチのまじにやばいと思うにゃ。――アイツを取り巻く環境が、救いようのない状況なのにゃ」
そのロウネの目は、暗に3日では性根を叩き直せないと断言していた。
だが、ネルはあの少年を■■■■と重ねてしまったのだ。もう、今更手を引く気など毛頭なかった。
「だとしても、だ」
――ハッキリと言い切る。
ネルはロウネのその目に宿る意思を察してしまい、溜息を付きながらも,もうそれ以上は何も言うまいと口を噤んだ。
「……と、言うわけで」
「……?」
ネルは立ち上がり、キッチンから少年の下へ移動し、少年と視線を交わす。
「食事しに行くぞ。移動中に色々と簡単に教えてやろう」
ひとまず、腹を満たそう。話はそれからである。
2
眼下に広がる鬱蒼としている森。その雰囲気を肌に直に感じながら、少年は足場の不安定さに顔を青くする。恐らく少年以外の誰であっても血の気は失せるだろう。
――何故なら、今少年は箒に跨って空を飛んでいるのだから。
「たっ、たかい……」
目の前にいるネルの黒い服にしがみつき、少年の体は高所に吹く風の冷たさと、箒という確実に空を飛ぶのに向いていないであろう物体に乗る恐怖の、二重の寒さを感じていた。
ネルの肩にはロウネがすまし顔でちょこんと佇んでいる。その涼しい表情から、すましているフリではなく本当に箒に乗るのことに慣れていることが充分わかる。
「……大人ってみんなこれできるの?」
「できてたまるか阿呆」
それまで無言だったネルが間髪いれずに返答する。ちょっと辛辣だった。
――そしてネルはそのまま話を続ける。
「亡じ……お化けという言葉は聞いたことがあるだろう」
遠い記憶、まだ母親が優しかった頃。少年はそのときにちらりと耳にした記憶がある。箒に乗って目まぐるしい速度で移動するものだから、風鳴りがよく耳の耳朶を打つ。
「聞いたことはあるよ。……なんなのかは覚えてないけど」
「お化けは空想の生物……と教えられているが、それは嘘だ」
嘘といわれても、元を知らないのだから少年は別段驚いた顔をしなかった。
眼下の景色が前から後ろへと目にもとまらぬ速さで流れていく。
「お化けはいる。今の時期、人間はお化けの装いをして街を出歩く。そして、それと同様にお化けも人間の恰好をする」
輪郭も曖昧なほど速かった箒は、ネルのその発言と同時に世界の姿を鮮明にした。
目的地のある乗り物が止まるときは何かハプニングがあったときか――、
「目的地に到着した場合、だな。ついたぞ」
箒は真下へ降りていく。下に広がるのは、生き物の気配であふれる生活感のある大きな町だった。
店頭に肉が丸焼きで干されていたり、露出の多い恰好をした女性がお客を呼び込んでいたり、様々なものを扱っている屋台がずらりと並んでいたり。
――とにかくここまでの光景を見たことがなかった少年は、物と店と人の多さに圧倒されていた。
「おお! 久しぶりやなネル!」
「久しいな、グルゲン」
箒で降りて、周りから視線を感じるネル達に最初に関西弁で話しかけてきたのは筋骨隆々の狼男――グルゲンという大柄な男だった。どこからもごわごわとした焦げ茶色の毛が生えており、一目で人間とはかけ離れた生き物だとよくわかる。少年はそのことには驚かないが、一つ、グルゲンを見て疑問に思ったことがあった。
「……なんでお面しているの?」
――関西弁の狼男は、顔に人間のお面をしていたのだ。
「今はハロウィンやからな! ワイらお化け達は人間の仮装しとるんや!」
一々声が大きい人である。だが不快感はなく、するりと耳に入り込んでくる、謎の聞き取りやすさがその声にはあった。それを不思議に思いながら、ネルとグルゲンが移動を始めたので少年も拙く付いていく。
とはいえ、すぐ目の前にある店に入るだけだったのでついていくもなにもなかったのだが。
店の中には小さな瓶や金色の時計など、いろいろな小物が売っていた。グルゲンが上背2mはあるので、見た目の違和感がすさまじい。
「人には聞かせられん話だ。裏に行かせてもらおう」
「なんやそんな急いで。まっさかこのちびっ子がほんまに人間って話やないやろ」
仮面の隙間から鋭い歯が見えるほど豪快に笑いながら、しかしグルゲンは核心をついてしまう。
途端、ネルの形のいい眉が歪み、物凄く嫌そうな、不満そうな顔をした。
「貴様はどうしてそこで無駄な勘が冴えているんだ……」
「無駄にゃあ……こいつに理屈は当てはまらんにゃ」
「む、いたのか愚昧猫」
「しーらじらしいにゃ! というかいつまで罵りのレパートリーがあるにゃ!?」
無視である。おもわず少年はクスリと笑ってしまった。
だがそれとは正反対にグルゲンは口を開いて茫然としていた。
「……裏来い」
驚きと困惑で絞り出すような声音になるグルゲンに、ネル一同はついていった。
「ほんまにこのちびっ子が人間なんか?」
「あぁ」
「アホお前……城連中にばれたらどないすんねん……」
裏はお客に見せる表と違い質素で物の少ない場所だった。そこらにあるよくわからないものに座って話は続く。だが明るい雰囲気ではなく、どこか緊迫した気配の漂う話し合いだった。
グルゲンは頭を抱えて、ネルも堂々としてはいるが少なからずこれからを考えて疲れを感じている顔だ。
「あの亡者どもに狙われているのは今に始まったことではない。そこまで心配しなくてもいいだろう」
「人間なんかあいつらに見つかってみろ。――即死刑やぞ」
暗い表情でグルゲンは強く呟く。その発言にこちらを惑わす意志は感じられなかったので、言っていることは事実なのであろう。
沈黙が流れる。ネルもグルゲンも言葉を発そうとしない。
――一体死刑の何が問題なのだろうか。
「死刑って死ぬってことでしょ? なら別に僕捕まってもいいよ」
「いやそらお前が捕まりたくないんはわか……は?」
困惑と、疑念、怪訝が詰め込まれた視線をグルゲンは少年へ向ける。
「ちびっ子……正気か? 死ぬのがなにかわかっとるんか?」
次第に声音は少年を心配するものに変化するが、少年は何を心配されているのかまるでわかっていない。
先刻とはどこか、なにか違う沈黙が流れる。グルゲンは両手を膝に落としながら組み、思考を巡らせている。
気難しい顔をしているようだ。最も仮面で顔の全貌は見えないが。
「……お化けに見える仮面を作ってほしいって頼みに来たんやな? ネル」
「察しがいいな。ハロウィンの3日間ばれなければ問題なしだ。多少荒くても良いぞ」
「まぁ、そういうことなら……」
「――と……も、頼む」
少年には聞こえぬ声量で、ネルは何か要望を耳打ちした。それを聞いたグルゲンは驚いた顔をして、仮面越しにネルを見つめた。口を堅く結び、何か拒否体制をとっているようだったが――、
「はぁ……後悔、するんやないぞ」
やがて肩を下ろしてネルの要望を聞き入れたようだった。
「ねぇグルゲン……さん? 僕トイレ行きたい」
「ワイの後ろの2つの通路がそれぞれ男女のトイレや。右が女子、左が男子やぞ」
「はーい」
ひと段落付いたグルゲンは、少年の質問に答える。そして少年は当然左の通路に進路を向けて、足を踏み出す。
「ちびっ子、女子はそっちちゃうで」
「僕女の子じゃないもん」
「あー、そら男子のほうに行くわな……ってちょぉ待て!?」
突然グルゲンが驚いた声を上げる。見れば、隣のネルも目を見開いていた。
「貴様……男だったのか……」
驚きを隠せないまま、ネルはそう小さく口の中で呟いた。
3
トイレは別に特段母親の家のものと変わらなかったし、少年の狙いはそこにはないので興味もない。狙いは、換気窓から外への脱出である。少年は身長が150cm程度なので通ろうと思えばどこでもすり抜けることができるのだ。そして本来の狙いは換気である窓へ頭、胴体と順にねじ込んでいき、身をよじりながらも少年は少しづつ外へ身を乗り出していく。
数分が経った頃――少年は外に出てその小さい手に自由を掴み取る。
「……そんなとこでなにしてるの?」
純粋という言葉が誰よりも似合うであろう透き通った、しかし性別は男だと何故かわかる高い声だった。声のするほうへ振り向けば、背の高い木を背景にして佇む少年が、そこにはいた。白髪に紅葉色の目。その見た目は目の色こそ違えど、まるで――、
「……きみはだいじにできるひとがいるんだから。こまらせちゃだめだよ」
「――!」
――見抜かれている。トイレに行くと嘯いて、其の儘一人で死に逝こうとしていたことを。
「……君、誰?」
見抜かれたことが少しくやしくて、話題を逸らそうと名前を問うた。だけど、瞬きをして世界が一瞬途切れれば、次に見えた景色は無人の森だった。
3章『来訪者と、おてがみ』
「貴様から目を離すべきではないとよくわかった」
開口一番、ネルはどこからか取り出した杖で少年の頭を軽く小突いた。それと同時に降り注ぐのはロウネの呆れと唖然の混ざった目線である。
「おみゃーさぁ……というか、おみゃーそういえば名前聞いてなかったにゃ。なんていうにゃ?」
「え……っと、ないっていうか、覚えてない……ごめんなさい」
たどたどしく、期待に応えられないことに対する申し訳なさの籠った声音で少年は返答する。
ここは再びネルの小さな一軒家。「常識を教えてやる」と椅子に座らせられての開口一番の言葉が先刻のものである。
「名前か……そうだな、レティなんてどうだ」
魔女が表情を変えぬまま、少年へ名を提案する。
――レティ。なんとなく、これが良いと、そう思った。
特に理由があるわけでもないし、必ずこれにしなければならない訳もない。――だが、これがいいのだ。
「ネル、ありがとう!」
こんな自分なんかに名付けてくれてと、そんな感情の孕んだ感謝。それが痛々しくて、ネルは思わず冷や汗をかいてしまう。
それを意に介さずに、少年――レティはネルの目を見て笑顔で心を弾ませる。
ネルが自分に名をくれるということは、期待をかけてくれているということなのだ。こんな、いいところのない自分に少しでも期待をしてくれるのなら――、
「それに応えなきゃ」
レティの意気込んだ様子を見たネルは、ひとまず安心したように吐息して、それと同時にロウネと目を合わせて何か感情を共有していた。
「さて、呼びやすい名もつけた。これから何をするかわかるな?」
疑問形だが、中身は疑問などでは決してない。
まるでわかりきったことを問うような声音だが、レティには何が何だかである。
「レテ……しっくりこねーにゃ。おみゃーにゃ多少の教養はあっても常識がまったくもって無いにゃ!」
ロウネはレティと呼ぶことに違和感を感じたようで、しっくりくる今までの呼び方で変わらず呼んでくれた。
ロウネの尻尾に指差されながら、レティはネルの話を傾聴する姿勢を保ち続ける。
「まず常識だ。はっきり言って、普通の人間は死のうとしないし、貴様の家庭環境がおかしいことを重々承知しろ」
「――? 僕は普通にできることをできないから、普通じゃなくていいんだよ?」
――その、引き攣った憐れむような双眸が、やけに印象的だった。
レティには、なにがおかしいのかわからない。
引き攣った顔をされる理由も、憐れられる理由も、検討することすらできない。
検討をすることすらできないほど手前で、常識が火を立てて燃え尽きている。跡形もなく、消滅しているのだ。
――それは、レティをそんな思考にしてしまえるのは、レティの傍にいた人間しか考えられない。
なんともまあ救いがたい人間がいるものだ。
人一人の価値観を完全に粉砕したことを理解しているのだろうか。
「あの……? ネル?」
「――すまん。考え事だ」
その返答に、微細な逡巡があったことを、レティは理解できただろうか。
自己の思考世界から我に返ったネルは、レティにこの世界の常識や仕組みをわかりやすく教えてくれた。
ここはお化けや妖怪等、人あらざらぬ存在でありながら、人と同程度の知能をもち、人を遥かに凌ぐ身体能力を有している、そんな生き物の集まりなのだ。
人間の想像により創造される彼ら彼女らは、特段生活に人間と違う点は存在しない。
人間の行事がある日はお化け達も行事を開き、お祭りがあればお化け達もまた騒ぐ。
そんな風に、鏡写しのように生活するお化けだが、唯一、鏡と現実が繋がってしまう日――それがハロウィンである。
「……あれ? じゃあ、とりっくおあとりーとっていうのは?」
「人間のハロウィンで使われる言葉だ」
「それを言えば、ハロウィンの日はそれを言えば誰からでもお菓子やらなんやらを貰えるって話にゃ!」
時折、そんな注釈が入りながら、話は続く。
――そんな鏡写しのお化けの世界から出ることができるのは、ハロウィンの期間しかない。
「こっちの世界に残るという手もあるが、少なからず人間に恨みを持つ輩はいるからな。――あまり、おすすめはできない」
それはひどく、実感の籠った、不憫を感じるような声音だった。
確実に何かあったのであろう声音、しかしレティはそこに触れなかった。
というより、触れてどうなるかもわかっていないのでそこに触れなかったのは単なる偶然である。
「じゃあ……どうやってもどるの?」
そしてその後出てきた疑問としては至極当たり前であるモノを、レティは抱いた。
あの崖から飛び降りて此方の世界に来たのだから、もう一度あの崖まで行けば戻れるのだろうか。
「貴様の来訪方法はイレギュラーだ。もう一度あの崖へ行っても、目的は果たせんぞ」
ネルははっきりと言い切った。
――授業は順調に進む。狭い一軒家の中でレティは即席の椅子に座り、即席の机に向く。一方ネルは立っており、自身の手に30cmほどの杖を手に持っている。
使い方も、使った姿も見たことないし想像できないので、レティはなぜネルが杖を持っているか不思議に思いながらも、期待に応えるためにネルからこの世界についての知識を必死に吸収していった。
学び、書き、問い、納得し。
少しずつ、一歩ずつ、しかし着実に。
――この世界を知ることはレティにとって苦ではなかった。知らぬことを知れるし、なにより講師であるネルが丁寧に教えてくれる。
「さて、あと一つ程度終わらせて今日は……」
グルゲンとの別れたのが昼過ぎ。そして今は世界を見下ろす太陽が地平線に身を隠そうとしている時間帯だった。
レティは机に突っ伏したまま寝てしまっていた。昼からこんな時間までぶっ通しでやっていたらいくらやる気があっても体力が持たないのは明白である。
スパルタ。恐ろしくわかりやすく、そして恐ろしく長時間勉強させてくる彼女にはその言葉がまさしく似合うだろう。
「今日はここまでにしておいてやろう」
辛辣の中に、一握りの親切を。
不意に、ネルは杖の先をレティに向けて「『スリープ』」と小さく呟いた――否、『唱えた』。
疲れて眠りに落ちた少年が見る夢を、少しでもいいものにしてやろうという魔女の粋な計らいである。しかし、それを知るものは黒猫のロウネ以外にはいない。
――見えないところで親切を発動する、不器用な魔女。それがネルだ。
「……モタモタしていられないな」
レティの帰還リミットまであと2日。
魔女は音を立てぬように一軒家の戸を開けて、外に足を伸ばす。
少年のためと、自分のために。
1
少年は意識を失ってもすぐに現実に回帰できるような体質になっている。当然、そんな体質にならなければそれを拳を振るう理由にされてしまうからである。
だからこそ、気を失って目を開いたとき、周辺に差し込む世界を照らす朝日を見て、レティは驚きに目を見開いたのだ。心無しか、意識も明瞭としている。
「目が覚めたか」
起きたときにレティが横たわっていたのは、少し反発性のある白いベット。
寝ている間に運んでくれた、ということだろう。
「あ、ご、ごめんなさ……」
「不愉快な謝罪を控えろ……いや、やめろ。気持ちを伝えたいなら感謝を口にするんだな」
控えろ、では『謝るな』と言っていることが伝わらないとネルは考え、一度言葉を切って言い直した。少し高圧的に言い切るくらいが、この捻じ曲げられてしまった少年の矯正には丁度いいと、そう考えたのだ。
「あ、ありがとう……ございま、す……?」
慣れていない言い方に、しどろもどろの態度。そして極めつけは疑問を含んだ声音というフルセットである。育ての親はいったいどれほどの間違いを犯しているのか、ネルは数えることを諦めた。
朝食はパンに軽く具を乗せただけの簡単なトーストである。
「ほら、食え」
「あ、ごめ……」
「――」
「……ありがとう、ございます」
目線で予め謝罪を口にすることを封じる。そしてつい数秒前のやり取りもあってか、レティはなんとか謝罪ではなく感謝を口にすることができた。
「ん。……美味しい」
レティの舌が味を認知するのは、随分と久しいことである。
舌が、まだ自分には血の味を理解する以外に役割があったのかと驚くほど、トーストには味がしっかりとあった。
一口噛むごとに、パンと具がお互いを邪魔し合うことなく調和しながら存在を主張する。本当に久しく、食べ物の味を脳に刻めた。
「そのくらいなら自身でも作れるようになるだろう。まあ、今日は1日自由にでもしてやろう」
「……勉強はもういいの?」
「昨日教えたもので最後だからな」
嘘である。基礎的なことは教えられたが、まだ世に出せばレティはすぐさま常識のない行動を連発するだろう。しかし、もう机につかせる時間もないのだ。最低限できているのなら、なんとかなるだろう。
何事も折り合いをつけねばいけないと、魔女は知っているのだ。
「……そういえば、ロウネのご飯は?」
「用意する必要がないからな。――帰ってきたな」
「今朝もいい天気だにゃー」
「……ッッ!!」
ひとまず朝の1幕は、血だらけのナニカを口に加えて窓から飛び込んできたロウネに絶叫するレティを最後に閉じるとしよう。
2
「……1日自由って言われても」
レティは不満そうに机に突っ伏す。
朝飯を食べたあと、ネルは監視の魔法を念のためにレティの側に付けさせ、ロウネと共に外に行ってしまったのだ。
町に行くときとは反対方向に、箒に跨って直ぐ様出発してしまったため、ついていけなかった。
――名付けてもらうという、『期待』をしてもらっている今、のうのうと死ぬわけにも行かない。何か役立つことをしないと期待を裏切り捨てられてしまうかもしれない。
「……それは、やだなぁ」
何もしなければ捨てられて当然。しかし、捨てられたくないという気持ちを、まだ短時間しか居ないこの家にレティは感じてしまった。
――なら、せめて迷惑にならないようにやれることをやろう。
まずは室内の片付けから――、
「あぁ、本当におったわ。臭い臭いニンゲンの臭いじゃ……なんと汚らわしい」
しわがれた老人の声。心の底からレティを――否、人間を侮辱する声音。その声に共なるのは無理矢理蹴破られた木製のドアがひしゃげる音。レティはただ音の要因を見つめることしかできなかった。
ゴテゴテとした煌びやかな装飾の服に身を包む、低身長の老人。その顔面はツギハギであり、一目で生有るものではないとわかる親切な使用だ。
レティは名称を知らないが、フランケンシュタインの老人が、そこには立っていた。
側には2人ほどの大男を従えて、老人が何か呟く。レティではない誰かを、憎悪に満ちた目で見据えながら。
「え、ぁ、」
――動けない。抵抗、できない。
口元を隠して黒い上着に身を包んだ大男がレティにズンズンと近づいてくる。
されるがままにレティは大男に捕まり、
「……すまんな、少年」
無口そうな大男がそうレティに小さく呟いた。――瞬間、レティの意識は暗転してしまった。
「――ネル……魔女の匿い子なら監視魔法かなにかつけているでしょう。すぐここを離れたほうがよろしいと思いますが」
老人は黙りながら、置いてある家具や装飾品など含めて家内を見渡した。
そして、冷たい目で一言言い放つ。
「壊せ」
「え、いや、ですが……」
「壊せ。聞こえんのか? それとも、――儂の命令が聞けんのか?」
最後の一言には、誰であろうと畏怖させるほどの鬼気があった。
「は、はい、ただいま……!」
そしてその畏怖を感じた1人が、老人の側近である大男だ。
自身より小柄すぎる相手に恐怖し、命令に従い見た目通りの凄まじい力に物を言わせてネルの家を破壊していく。
板が折れる音、家具が壊れる音、なにかが床に落ちる音、そんな『破壊』を連想させるおおよその音が響き渡ったとき――もう、大男2人の眼前には、残骸しか残っていなかった。
「おお、そうじゃ忘れておった。この手紙をわかるところに置いておけ。どうせここには雨も降らん」
陰惨な笑みを浮かべて、老人は破壊現場にはとうてい不釣り合いな、大仰な封がされた手紙を瓦礫の上に置く。
そして、そのまま3人の人影は森の中に入り、消えていった。
3
そしてその出来事は、すぐさまネルに伝わっていた。
監視の魔法はレティが何かしないか見張るのが半分、残りの半分はレティに危険が及んでいるかをわかるためだ。
だから、家の扉が蹴破られた瞬間にネルは自体を把握して家に飛んで向かっていた。文字通り、箒に乗って最高速で。
「クソ、一緒にいるべきだったか……!」
誰が相手かは予想がつく。
だが、監視の魔法に映っていた手紙も確認をせずに切り離すのは早計と言える。ならば、ならば、ならば――、
「ロウネ! 手紙の確認、及び内容の共有を頼む! 私はレティを追う!」
「りょーかいにゃ!」
迅速な自体把握と、速攻の決断。
箒でネルは瓦礫となった家の上空を通り、そしてロウネは躊躇なく箒から飛び降りる。
ネルはそれを止める様子無く、むしろ確認もせずに飛び去った。
「ひっさびさの仕事にゃぁ!」
その小さい体に空気抵抗を受け、毛をなびかせながら落ちるロウネの双眸に恐怖はない。
あるのは、久しい状況に胸踊らせる、まるで郷愁を想うような、そんな感情のみだ。
だが感情だけでは自由落下は止められない。軽く100mはあるだろう落下。
既に地面はもうすぐそこだ。
「――『ここに死地あり我歓迎したり、馳せる思いを止めんとせん!』」
言い慣れた、その口から紡がれた文章は本当に言い慣れた様子のものだった。
そして紡がれる言葉に伴うのは超常の現象だ。
瓦礫に激突する寸前に発された言葉により、ロウネのぶつかった瓦礫が『沈んだ』。
まるでトランポリンのように、沈み、ロウネの落下を受け止め吸収したのだ。
「やるたびに思うけど、やっぱり短詠唱はできんにゃぁ!」
ネルが異常なだけである。
そんな思考を働かせながら、ロウネは瓦礫に置かれた手紙に肉球を伸ばす。
その手に手紙をとり、金の蝋封で隠された手紙の中身を確認して――、
「……二手に分かれててよかったにゃぁ」
引きつった声だが、しかし少しの希望が含まれていた。
『ネル! 手紙内容がわかったにゃ!』
伝えられる、言葉は――、
4
監視を途切らせず、魔法を伝って見える景色とネルの双眸に映る景色を照らし合わせて道を行く。
視界を前から後ろへ緑が流れ、風を頬に感じながら、しかし速度は衰えず。
やがて景色は森からちまちまと並ぶ家、町、そして城へと変化していく。
「あれは……王城か……!」
外見を白を基調にした建物であり、天にのびる2つの城壁塔のある大層な城は、そのまま城に住む人間がどれだけの権力を持ってるのかわかるほど壮大だ。
そして、ネルはここに嫌な思い出しかない。
「……チッ」
苛立ちを隠さず、ネルはレティを追って王城に向かっていく。
窓を勢い任せで叩き割り、城内に侵入するネルは辺りを見渡し、やけに人が少ないことに気がついた。
「何かしているのか……?」
憶測推測しかできない今は思考している余裕はない。とにかくレティを見つけることが最優先である。
――ネルはもう自分でも何百、何千年生きているのかを覚えていない。だが、その長年の月日はどんな状況にも対応できる程の魔法を生み出した。
「『サーチ』」
この世で魔法を使えるのは、ネルただ一人である。気の遠くなるような時間をかけて、失敗に失敗を重ねて、そしてようやくできた魔法。
今やネルはその魔法を短詠唱で顕現させることまでできるようになっていた。
「……地下か」
居場所がわかれば後はこちらのものである。
人気のない城内を駆け抜けて、壁にかけられている飾り物を横目にネルはレティを捜索する。
下へ、ただひたすら下へ。
■■■■と重ねてしまったあの人間の子を助けるために、ネルは奔走する。
そして地下へと続く荘厳な扉を開け放ち、『それ』を見たネルは絶句した。
かつての記憶が浮かばれる。
救えなかった記憶、助け出せなかった記憶。そして何よりも消し去りたかった記憶。
人の顔や名前は、膨大な時の流れが押し流してしまうのに、思い出だけは杭を打つ。
だから消えない。だからネルは苦悩するのだ。
眼前に広がる惨状は、到底言葉に表せないものだった。
噛み砕いて言えば、レティが何かの媒体とされている瞬間だろうか。
壁に磔にされ、手を壁に杭で打ち付けられて身動きが取れず、しかしどこかレティの表情は晴れやかだ。
「レティ!」
「…………ネ、ル……?」
小さく、蚊の泣くような声。
――だが、まだ生きていた。
「――これはこれは、よくぞおいでに来てくださりましたなぁ魔女様よ」
しわがれた声に、蔑む声音。
振り向けばそこにいたのは見るだけで吐き気にする、ネルが嫌悪している人間だった。
「ノーベルト……!」
それこそがフランケンシュタインの老人の名前であり、この国の現国王である。
「歓迎する、魔女様。こんないいゴミク……人間を連れてきてくださったことにのう」
そして国王は磔にされているレティを一瞥して、自身の壁際にあるレバーを下ろす。
刹那、地下室が光りに包まれる。
――そして、ネルはこの光を知っている。
『ネル、手紙の内容がわかったにゃ!』
『――!』
丁度、ロウネから声が届く。
そしてロウネは早急に手紙の内容の共有を果たしてくれた。
『――人間処刑の見せしめにゃあ! ネルが来るまでわざと生かして、目の前で殺そうとしてるのにゃ!』
甦る記憶。忌々しい、過去。
「また……ッ! 見せしめを……!」
「問題を起こす魔女様が悪いのじゃぞ? ――前回のように」
「貴様!!!」
声を荒げるネル。
その惨状を見て浮かぶのは、痛々しく、忌々しく、到底許し難く、そして、愛おしいあの人が居る、『記憶』。
浮かんでは消えて、脳裏に焼き付いて、でもいつも消えてしまいそうなくらい儚くて。
ネルの視界と脳裏が、現実と泡沫の記憶を重ねる。
それは、それは――何百年前の、ことだったか。
幽世世界に迷い込み @kubiwaneko
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