曾祖母の体験談 岡山空襲の話

@AyuBiwa

単発

私の曾祖母は、岡山空襲を経験している。

中高で行われた平和学習の際に、その当時の体験を聞いた。

その話を、憶えている限り書き記す。

思い立ったのは、数日前に曾祖母が亡くなったからだ。悲しくなったから、記憶が薄れる前に書いておく。書くことで記憶が変質するかも知れないが、忘れるよりはマシだ。他にも色々と思い出話を聞いたし書き残しておきたいけれど、共有してもよさそうなものがこれしかないのだから仕方がない。


当時十八歳だった曾祖母は、岡山のある丘にある、裁縫工場で勤めていた。平たく言えば、女学生たちが働いている、裁縫学校兼工場である。周りには目立つ建物は何もない場所だったと曾祖母は言っていた。

まず前提として、学校には生徒から嫌われていた先生と、厳しいながらも親心があり生徒から慕われている先生の二人がいた。いつの時代も、やはり生徒は先生をよく見ていて、それで好き嫌いが出来ると、話を聞かせてもらった当時の私は思った。


岡山空襲の際、曾祖母がいた工場も狙われた。曾祖母は、見るからに軍需工場であり、人里からある程度離れた場所にあったから、怪しまれても仕方がないと言っていた。けれど、実態はほとんど女学生しかいない、軍需とは言えほとんど学校のようなものだったのだから、あいつらは何を見ていたんだ。若人を殺したかったのか。とも、曾祖母は言っていた。彼らが想像していたような、爆弾やら弾薬やら、そういったものを作るのは(近場だと)神戸の仕事であって、自分たちはしたくてもそういうのは作れないのにと、どこか無念がるように溢していたのが印象的だった。ただ、私は当時神戸に住んでいて神戸の中学校か小学校かに通っていたから、学校の発表では何となく言ってはいけないことだと省いた記憶がある。大人になった今では、惜しいことをしたと思っている。当時の(その土地に住んでいないという意味では)客観的な意見をクラス内で共有しなかったのは、小さいとはいえ損失だっただろう。学校教育の方でも、まさか三代前までその土地で暮らしていた想定ではなかっただろうから…

話を曾祖母の体験談に戻す。

岡山空襲が起きた、当日のことだ。

警報が鳴って、遠くの空に、航空機の影が見えたそうだ。

先生たちが、「ミシンを持って校庭に逃げなさい」と言って、曾祖母を含めた生徒たちは言われた通りにした。

校庭に出た人々めがけて、爆弾が落とされた。校舎は真っ先に爆弾が落とされて、火の手が上がり、燃え始めていた。

幸い私の曾祖母はその前に脱出していて、ミシンを持って出たはいいものの(こんな重たいものを持って逃げるより手ぶらで逃げなおえん。命あっての物種じゃ)と、ミシンを持って逃げろと指示をした誰か(誰かは仄めかすというか、確かに誰かが言っていたのか言っていた記憶があるが、それが誰だったかを私が覚えていない)に対して腹が立ったらしい。気が強く逞しい曾祖母らしいと思った。

普段から「あいつは口先だけで信用できない」と嫌われていた先生は真っ先に防空壕に逃げ、生き延びた。

しかし、生徒たちから慕われていた先生は、爆弾が直撃しそうになった生徒に体当たりをし、身代わりになって爆弾にあたり、直撃して火達磨になって、亡くなったそうである。曾祖母はその瞬間を見たと言っていた。転び叫ぶ恩師に何も出来なかったと。あの人は厳しかったけれど愛のある人だったと、その時の同窓生で集まる度に話題に上っていたと、言われた。もうこの話を始めて聞いたのも十年は前のことだ。

「もうみんなちらほら死んだけどな、同窓会の時にはずっと言われとったんじゃ。代わりに義理で呼びはしたんじゃけど、来んでええと思われとったもう一人の(要は生徒を見捨てて逃げた)方の先生は来とったけど、だぁれも話しかけんかった。居心地悪そうにしとったわ」

曾祖母は、憐みのない表情でそう語っていた。

そう考えると、ミシンを持って逃げろと言ったのはその先生だったのかも知れない。記憶がないから、憶えている限りの情報を合わせて推測した結果であり、信憑性はないのだけれど。

資料になればそれ以上の幸いはないし、私としては曾祖母が一人でも多くの人に記憶してもらえたら嬉しい。

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