警部補山田恵子ブラックホールに入る

沢藤南湘

第1話

第一章 月旅行へ

 令和の年号になってから三十年が過ぎた三月、技術の進歩により、一般庶民も最低百万円ほどで宇宙旅行に行けるようになった。

日本では、去年宇宙旅行へ行く人が、海外旅行者数を初めて超えた。コースは、地球一周、月、火星そして、宇宙ステーションの四種類で、旅行代理店がSNS。TV、新聞、DMで盛んに宣伝している。

令和の年号になってから三十年が過ぎた三月、技術の進歩により、一般庶民も最低百万円ほどで宇宙旅行に行けるようになった。

日本では、去年宇宙旅行へ行く人が、海外旅行者数を初めて超えた。マスコミによると、特に前期高齢者の割合が多く、そのうち女性の比率は七割ほどで人気のコースは地球一周コースが一番で、二番は月旅行とのことだった。

 警視庁捜査一課に所属する警部補の恵子は遅い夏休みを取って、月の旅のツアーに参加した。

 独身の恵子は三十歳になった自分へのお祝いということで、清水の舞台から飛び降りるつもりで月旅行を選んだ。

 それを知った一課の猛者連中は、さすがに驚きを隠せなかった。

 驚きの理由は、高額な旅費と度胸を恵子が持ち合わせていたことだ。恵子が種子島へと出発した日、職場では恵子のことで話が盛り上がっていた。

「若いのに大したものだ」

「そんなお金一体どうしたんだろう?」

「一課を希望したと聞いた時は、度胸ある女性だとは思っていたが、月まで行くとはすげえな!」

「月に土産屋なんてあるのかしら?」

 事務の女性が割り込んできた。

 そんな話で盛り上がっているとは知らず、、エアーポート近くにホテルに泊まった恵子は、五時半に タクシーで種子島スペースエアーポートに駆けつけた。

 コスモスと書かれた受付に行くと、すでに十人ほどの人々が、多少緊張した面持ちで集まっていた。

「私が最後かしら」

 恵子は人々の輪の中に入って、大きな声で挨拶をした。

 七時になると、受付からスタイルの良い女性が出てきた。

「おはようございます。本日はコスモス月の旅ツアーにご参加いただきありがとうございます。私は、皆様とこの旅行をご一緒するツアコンダクターの勝又と言います。まずは参加者の確認をさせてください」と言って、名簿を読み上げた。

「全員お集まりいただいていますので、これからの予定を説明いたします。まず、私から旅の注意事項を説明させていただきます。それが終わりましたら、手荷物検査を受け、そして、宇宙服に着替えてから、宇宙船に乗船していただきます」

 注意事項の説明は、宇宙船内での乗務員への連絡の仕方、トイレの使い方、飲食の仕方、睡眠のとり方など乗船中のものと月着陸後の歩行方法や過ごし方、危険区域の場所の案内、位置情報機器の使い方、 そして、緊急時の連絡及び対処方法等で一時間ほどであった。

 この注意事項については、二週間前にオンラインで恵子たちはビデオで説明を受けていた。

「注意事項の説明は以上です。分からないことがあったら、都度、宇宙服に取り付けの電話で連絡してください。では宇宙服に着替えに行きます」

 着替え室には、ツアー客一人一人に対応できる人数のコスモスの社員が待機していた。女性客には女性の社員がついた。

 恵子たちは、先週、実際に宇宙服を着て無重力の状態での訓練を受けていたので、着るのにはそれほど時間はかからなかった。

「お気を付けて、いってらっしゃいませ」

 着替えを終えると、社員が恵子に言った。

 いよいよ乗船。

 初めての宇宙船に乗る恵子は緊張していた。腰をおろすと、

「シートベルトオンよいですか」と自動的に音声が流れた。

「いいです」と恵子が答えると遊園地のジェットコースターのような拘束装置が宇宙服を抑えつけた。

「皆さま、本日は日本スペースシャトルにご乗船ありがとうございます。これから月の旅に皆様をご案内するチーフパーサーの大野と申します。この宇宙船には乗務員が四名います。御用の時は私共乗務員に遠慮なくお声をかけてください」

「船長の高木です。月の到着は四日後の九月二十日の午後二時を予定しています。本日の天候は晴れですので、大気圏内の揺れはあまりないとは思いますので、ご安心ください。ではこれからの四日間、快適にお過ごしいただければ幸いです。では出発します」

 ロケットエンジンの噴射音が、船内に響き渡った。揺れは余りないと船長が言っていたが、恵子にはかなりの揺れと感じた。

 揺れが止まると船内放送が聞こえてきた。

「只今大気圏を通過しましたが、拘束装置は安全のためオンにしておくようお願いします」

「十分ほどしかたっていないのに、もう宇宙に入ったんだ」

 恵子は事前に調べていた通りに大気圏を通り過ぎたことに感動した。軌道に乗ったことに安心すると眠気が襲ってきた。しばらく寝てしまったのだろうか、時計を見ると日本時間の十二時を針が指していた。

「ガターガタ、ガタ、ガタ・・・・」

「一体どうしたんだろう」

 恵子は、心配になった。

「なんだ、この揺れは」

 イヤホンから他の客からのざわめき声が耳に入ってきた。

「船長の高木です。ただ今、緊急事態が発生しました。当宇宙船の軌道装置が異常作動して、ブラックホールに向かって突入しようとしています。突入しますと、宇宙船は炎上爆発してしまいますので、皆様、すみやかに脱出をお願いいたします」

「チーフパーサーの大山です。これから皆様の席は自動的にカプセルに覆われます。その後、乗務員が皆様の席に伺いますので、その指示に従ってくださるようお願いします」

 乗務員が、通路を泳ぎながら客席を回って脱出の方法を説明した。

「では、お客様、落ち着いて座席の右のレバーを引く準備をして下さい。準備はできましたでしょうか」

 レバーを持つ恵子の手袋のなかの手は、汗ばんだ。

 チーフパーサーの大山のが、確認を終えて自席に戻ってマイクを持った。

「皆様、準備はよろしいですか。お名前を呼びますので、呼ばれたらレバーを引いてください」

 ツアー客の名を一人ずつ読み上げた。名を呼ばれた順に、カプセルに包まれた席が、宇宙船から飛び出した。

「山田恵子さん、レバーを引いてください」

「はい」 

 恵子は、震える手で力いっぱいレバーを引いた。

「キャー」

 恵子は意識を失った。 

「確か宇宙船から飛び出したところまでは覚えているんだけど。ここは、一体どこなの」

 テレビで見る時代劇の中の風景が、恵子の目の前にあった。

「もしかしたら、わたし、江戸時代にタイムスリップしたのかしら。そんなこと、SFじゃあるまいしありえないわ」

 宇宙服が重く感じて、簡単には起き上がれない。

 取り出したスマホの画面は、通信不能だ。

「どうしよう」

 恵子がタイムスリップした江戸は、秀吉がこの世を去って、徳川家康が関ヶ原で石田三成を破り、江戸に幕府を開いてから百年ほどの年月がたった元禄の時代であった。

 野次馬が、遠巻きに集まって来ていた。

「あれは、悪魔だ」

「いや、神様じゃ」

「動いたぞ」

 恵子はなんとか立ち上がり、宇宙服を脱ぐと、町人らしき男が、恐るおそる恵子に近づいてきた。

「あんたはだれだ」

「東京から来た刑事です。ここは、どこですか?」

「なんですって、東京?刑事?ここは江戸の日本橋ですよ」

 不審そうに恵子を覗き込んだ。

「なんですって。今、何時代です?」

「なに言ってんですか。ここは、江戸ですよ。江戸時代に決まっているじゃないか」

 野次馬がさらに増えた。

「なにがあったんだ?」

「変な格好をしたのがいるんだ」

「誰だ?」

「五十年生きてきたけど、あたし、こんなの見たことないわ]

「こわい」

 どこからともなく、唄声が聞こえてきた。

  ♪梅は咲いたか 桜はまだかいな 柳なよなよ風次第 山吹や浮気で 色ばっかり しょんがいな♪ 

   唄いながら、着流し姿に腰に長刀と脇差をさした六尺のがっしりした大男が、冠木門から出てきた。

「今日は、どこに行こうか」

 道端の蕾をつけた桜の並木をゆっくりと歩き始めた。

♪浅蜊(あさり)とれたか 蛤(はまぐり)ゃまだかいな 鮑(あわび) くよくよ片想い さざえは悋気で角ばっかり しょんがいな♪

その大男は、悠然と遠くの景色を見るかのよう

に人々の動きを見ながら歩いている。

恵子は野次馬の人垣をかき分けて、歩き始めた

時、浪人風情がぶつかってきた。

「おまえどこ見て歩いてんだ。俺の大事な刀に当たりやがった。刀は武士の魂だ。どう落とし前をつけてくれる」

「なに言ってんのよ。あんたが悪いんじゃないの」

(いけない、江戸は、左側通行だわ。でもここで相手の言いなりになったらどうなるかわかりゃしない)

「なんだと、痛い目に合わせてやる」

 浪人が恐ろしい顔になって、刀を抜いた。

仲間の浪人ふたりに取り囲こまれた恵子は、

腰を落として、空手の所作を取った。

 「なんて格好だ。女風情で、武士にはむかうつ

 もりか」

  大声で笑いながら、浪人が刀を振り上げた。

 「痛え」

  刀を持った浪人の右手に風車が刺さった。

 「待ってください」

 風車売りの男が割って入ってきた。

 「さっきから見てりゃ、おまえさんが、わざと 

 娘さんにぶつかったのに、因縁付けちゃいけま

 せん」

 「この野郎、なにをいってやがる。まずこいつ  

 からやっちまえ」

風車売りの男が一本の風車を抜き取って、

向かってくる浪人に投げようとした時。

♪柳橋から 小船を急がせ 舟はゆらゆら波しだい 舟から上がって 土手八丁 吉原へご案内♪

 口ずさみながら、浪人の前に侍が立ちはだかった。

「か弱い娘さんに因縁つけるのはやめな」

「何を、小癪な。やっちまえ」

 侍はゆっくりと刀を抜いて、峰打ちで八艘の構えを取った。

 次々とかかってきた浪人たち三人を、あっという間に打ち据えた。

 道の上に呻き声をあげて、転げ回ったり、気を失って倒れている者、逃げ去ろうとした者たちへ、周りを取り囲んでいた人たちが、罵声を浴びさせた。

「娘、ケガはなかったか?」

侍が恵子を上から下まで見ながら言った。

「ありがとうございました」

「娘、その恰好はなんだ」

 「これは、洋服です」

 「洋服?着物を着ないで、なんでそんなみっと

 もない恰好をしている」

  恵子は、慌てた。

「お侍さん、いいじゃありませんか。もう昼だ

 し、その辺で飯でも食いませんか」

風車売りが、割り込んで言った。

 「娘、よいか」

侍たちは、一膳めし屋に入った。

侍は、矢吹新之亟と名のった。風車売りは、

弥吉と言った。

 「私は、山田恵子といいます」

 「今なんて言った?!」

  矢吹と弥吉は、同時に声を上げた。

 「やまだけいこです」

 「そんな名は、今まで聞いたことがない。弥吉、

 おまえはどうだ?」

 「あっしも生まれてから今日まで初めてです」

 「それはそうでしょう。私は、令和の時代から

 江戸にやってきたのですから」

 「令和ってなんだ?」

 「今から三百二十年後の日本の年号よ」

ふたりとも、キョトンとして、何とも信じが

たいと言った顔をした。

 「一体どこから来たんだ?」

 「東京です。この江戸が、将来東京になるのよ」

「どうやって、そんなところから来たんだ?」

 「火星探検ツアーで、宇宙船がブラックホール

 に入ってしまって、そうしたら、この江戸に着

 いたの」

「おまえの言っていることは、さっぱり分からん」

「娘さん、ここは江戸だ。そのような格好では目立ってしまうから、食べ終わったら古着屋に行って、小袖を買って着替えな」

「私は、山田恵子です」

「じゃあ、おけいさんと呼びましょうか?」

「おけい、いいな」

「しょうがないわ」

「腹減った、俺は、酒ともりそばだ」

「おけいさんは、何にします?」

「私ももりでいいわ」

店の女が聞きに来たので、もり三枚と酒二本

を弥吉が注文した。

「おけい、一杯飲むか?」

「いただくわ」

  恵子は、おちょこをくちにした。

「なに、これ」

「どうしました?」

弥吉が、不思議そうに恵子の顔をのぞき込ん

だ。

「こんな酸っぱい酒、初めてよ」

「おけいは、いつもどのような酒を飲んでいるのだ」

「カクテルよ」

「カクテル?」

「なんて言ったらいいのかな。例えば、このお酒に、他の種類の酒またはジュースなどを混ぜて作るお酒の事」

「ジュースってなんだ」

「あっ、いけない。みかんなんかを搾った飲み物だけど、みんなそんなもの飲んでいないわよね」

「わからんが、もういい」

「おまたせしました」

 女がもり蕎麦を運んできた。

「これは、ほとんど令和と同じだわ」

「そりゃよかった」

 蕎麦湯を飲みながら、弥吉が聞いてきた。

「おけいさん、これからどうするんです?」

「昔、祖父から聞いたことがあるんです。浅草寺近くに山田仁左衛門という私の祖先が住んでいると。せっかく江戸に来たんだから、是非一度会ってみたいんです」

「会って、どうするのだ」

 新之亟が聞いた。

「町奉行所で働けるようお願いしようかと思っ

て」

「なに、そんなことができるわけはない」

「どういう理由であろうと、あっしがそこまで

連れて行ってあげましょう。矢吹様はどうされ

ますか?」

「俺も行く」 

「ちょっと待って、私、トイレに行ってきます」

「おけい、トイレってなんだ?」

「トイレ、そう便所、いや厠のことよ」

「厠か、店の女に聞いて行ってこい。俺たちは

ここで待っている」

 恵子が青ざめた顔で戻ってきた。

「新之亟さん、携帯を厠に落としちゃった」

「携帯?」

「遠くにいる人と連絡ができたり、お金の支払

いができる機械で、大事なものなんです」

 恵子が泣きそうな顔に変わっていた。

「おけいさん、どこだ?」

 弥吉が心配そうに言って、恵子の案内で厠

に行った。 

「この中に落としたのかい?」

「ええ」

「携帯とやらは重いのか?」

「ええ、この下に沈んでいます」

「弥吉、それじゃ全部くみ取らなければ見つか

らんぞ」

 新之亟はいい加減にこの場所を離れたかった。

「そうですね。店の主に話してきます」

 しばらくして、弥吉が腰の曲がった主を連れ

てきた。

「裏に樽と柄杓があるからそれで救えばいい」

 主が柄杓と樽を持ってきて、すくい始めたが

なかなかはかどらない。

「おやじさん、おいらがやるよ」

 弥吉が代わって糞尿をすくい始めた。

「くせえな。おけいさん、悪いけど空の樽を持

ってきてくれないか。矢吹さま、申し訳ありま

せんが一杯になった樽を裏に運んでもらえませ

んか」

「俺がか?」

 新之亟は両刀を主に預けて、顔をそむけなが

らしながら、樽にふたをした。

「くそ」

 そして、二つほど転がして裏に運んだ。

「おけいさん、あれかい」

「はい、ありがとうございますどうやって取っ

たらいいのかしら?」

 弥吉が下を覗き込みながら、手で取り上げた。

「くせえ、主、井戸はどこだ?」

 恵子の携帯は無事戻った。

においをまとった三人は、古着屋にやってき

た。

「俺はここで待っているから、好きなものを選

んで来い。弥吉も適当なやつを買って着替えて

来い」

 恵子と弥吉は、店の中に入って行った。

 三十分もたたないうちに、江戸小紋の小袖を

着て出てきた。

「新之亟さん、お金払ってもらえませんか。わ

たし、令和のお金しか持っていないの」

「やれやれ、世話がかかるだけでなく金もかかる

娘だ」

「弥吉、これでおけいとおまえの分を払ってこ

い」

 新之亟が懐から銭を差し出した。

 礼を言って、弥吉は支払いを済ませた。

「おけいさん、髪もなんとかしないといけねえ。おいらの家に来てもらいましょう。髪結いを呼びますんで」

  弥吉の家は、六軒長屋だった。

「娘さん、しなやかな髪ねえ」

 お歯黒に剃り眉姿、紺色の縞模様の着物で、袂が邪魔にならないよう襷がけ、仕事道具の櫛を髪に挿し、髪を結ぶ元結を帯にキュッと挟んでいた髪結い女が言った。

「あんた、美人だわ。浮世絵に載ったら売れるわ

よ。あんたの履いているのは何よ?あたしの下駄

あげるから履き替えな」

「これじゃ走れないわよ」

「走るのなら草鞋だよ。これも持っておいき」

 恵子は、すっかり江戸の娘になった。

 独り身の矢吹新之亟と弥吉は、恵子を見て、驚

 いた。

「馬子にも衣裳とは、このことだ」

  三人は、浅草に向かって歩いた。

「このあたりではないか?」

「そうですね」

 弥吉は、通りがかりの男に聞いた。

「もう少し先の大きな門があるお屋敷です。そこ  

は、長府藩のご家老の屋敷ですよ」

 恵子は、不安と期待を抱きながら弥吉たちの後

 をついて行った。

「ここだ、ここに山田仁左衛門様がいるはずです。  

ちょっと、門番に聞いてきます」

 弥吉が、門番と二言三言交わして戻ってきた。

「おけいさん、仁左衛門さんは昨年亡くなったそ

うです」

「なんですって!」

 恵子が、驚き落胆した。

「せっかく、ご先祖の山田仁左衛門を訪ねて来た

のに残念だわ」

「もし、お武家さんたち。長府藩のどなたかに

御用ですか?」

  見知らぬ女が声をかけてきた。

 「いや、この娘の親戚がこの藩にいるそうなの

 で」

 「そうですか、もしお時間があれば、お付き合

 いいただけませんか?」

 「どなたか知らないが、急にそんなこと言われ

 ても困る」

  女は悲壮な顔をして、おそのと名のった。

 「このお屋敷からちょっと離れたところで、お

 話ししましょう」

  三人は、おそのの後に続いて飯屋に入った。

 「先ほど、お武家様が浪人をやっつけるのを拝

 見して、なんとか私たちにお力を貸していただ

 けないかと思い、失礼とは思いながら声をかけ

 てしまいました」

 おそのは、新之亟と弥吉に酌をすると、自分

のお猪口にも酒を注いだ。

「実は、私は、一年前までは、長府藩の留守居役の娘(以後、姫と呼ぶ)の侍女でした。藩の騒動により姫の父は反対派により暗殺され、姫と弟と逃げてきた。江戸でも姫と弟君が藩の人間に常に狙われているというのだ。いずれ、姫も弟君も父の仇討ちをするための機会を窺っています。なんせ、力も金もなく、どうして仇討ちをして良いか分からず毎日、助太刀してくれるお武家さまを探しているんです」

  おそのが、涙ぐんで言った。

 「その留守居役の名前は?」

 「山田仁左衛門さまです」

 「なんですって!」

  恵子は、飛び上りそうになった。

 (そうするとこの姫と弟とは、私はどういう関

 係になるのかしら)

 「おけいさん、どうされたのですか?」

  おそのは、恵子を不審そうに見つめた。

 「おその、その山田仁左衛門は、おけいの祖先 

 らしい」

  おそのは、新之亟の言っている意味が全く分

 からない。

 「まあ難しい話はさておき、どうするかな」

  おそのの顔を見て、新之亟は話を変えた。

 「矢吹さま。あっしは、おそのさんたちのお手

 伝いをさせていただきます」

 「分かった。俺も助太刀いたそう。おけいはど

 うする?八丁堀で働きたいと言っていたが」

  恵子は、しばらく考えた末に、

 「私もおそのさんのお手伝いをしますが、仇討

 ちはダメです。人殺しですし、また相手方もそ

 れを恨んで仇討ちに走るでしょう。いつまでも

 両者に怨念が渦巻きます。仇討ちはやめてくだ

 さい」

 「何を言う。正義の仇討ちは、法で認められて

 いるのだ」

 「他の方法を考えてください」

恵子は、新之亟とおそのに向かって頭を下げ

 た。

 「おその、どうする?」

 「姫に決めていただきます」


 この頃の西国は、毛利輝元の次男就隆の徳山

藩創設に続いて、長府藩主毛利秀元の三男元和

が豊浦郡一万石の地を分封され、未だ防長体制

が混迷していた。


 新之亟は調子よく、おそのの酌でいい気持ち

になりながら、おそのから詳しい話を聞き始め

ていた。

 「ガラ~」

店の入り口の戸が開いて、三人の武士が入っ

てきて、おそののそばに駆け寄り、おそのの手を引っ張って連れて行こうとした。

「あんた、何するのよ」

  恵子は、手刀で武士の手を打った。

 「いてえ」

 「この野郎」

 「お武家様、女供に手荒いまねなどしたら武士

 としての誇りが無くなりますぜ」

 弥吉はいうやいなや、武士の手首を取り、軽々

と押し倒した。

 「てめえ、表へ出ろ」

  もう一人の武士が、弥吉に向かってわめいた。 

  投げられた武士は、他の一人に抱きかかえら

 れて外へ出た。

 「無用な争い事はやめようじゃないか」

外に出た新之亟がどすの利いた声で、頭目と

思われる男に向かって言った。

 「何をいうか」

  武士が、刀を抜いた。

 新之亟も抜いて、中段に構えた。

 しばらくの間、対峙していたが、武士の顔に

汗が流れ始めた。

 「おぼえていろ」

 武士は捨てぜりふをはいて、新之亟たちに

背を向けた。

 新之亟はそれを見届けて、弥吉をうながし、

店に戻った。

震えているおそののそばで、恵子が寄り添っ

ていた。

「もう奴らは逃げていったから、大丈夫だ。落

ち着くんだ」

 新之亟はおそのに言うと、おそのが新之亟

に抱きついて泣き出した。

新之亟は困った顔をしながら、おそのを引き

離して、恵子に預けると、手酌で酒を飲みだした。

「おけい、強いな。先ほどの手刀で浪人を打っ

 た術は、なに流だ?」

 「あれは、勤め先で習ったんです」

 「勤め先とは、なんだ」

 「警察です。町奉行所のようなものです」

 「なるほど。それで八丁堀に勤めたいと言って

 いたのか。女が、そんなところに勤められると

 は、摩訶不思議だ。八丁堀は難しいな」

  弥吉も信じられないといった顔をした。

 おそのは泣きやみ、恵子から離れた。

 落ち着きを取り戻したおそのから、あらかた

話を聞き出すことができた。

恵子は、自分の祖先の事をもっと詳しく知り

たかった。

新之亟は、藩を相手にするからには、より詳

細を聞きたかった。

 「場所を変えて、その娘と弟から話しを聞くと

 するか」と、新之亟は、おそのに言った。

  恵子と弥吉が頷いた。

新之亟が、なじみの小料理屋おかめに、

おそのを誘った。

 春風が、川端を歩くほろ酔い加減の四人を通

り過ぎていく。

 行燈の光が、川面にゆれていた。

 おかめと紺地に白抜きで書かれた暖簾を新之亟が先頭になってくぐろうとした時、おそのが新之亟に声をかけた。

 「新之亟さま、すぐに姫様と弟君を呼んできま

 す」

  おかめの女将お清が、玄関に出てきていた。

 「いらっしゃいませ。新之亟様、こちらの方々

 は?」

  新之亟は、三人を紹介した。

 「おそのさんは、これから姫様と弟君を呼びに

 行くんだ。女将、ちと込み入った話があるので、

 あの部屋を頼む」

おそのは、皆に頭を下げ、すぐに戻ってくる

からと言って、おかめを後にした。

 「新之亟様、弥吉様、おけい様。どうぞ、こち

 らへ」

お清は、階段を上って二階の突き当たりの角

部屋に三人を案内した。

 「女将、おそのさんが戻って来たら、この部屋

 に通してくれ」

 「承知しました」

 「あと、燗で六本といつものあて頼む」

 新之亟はお清に言ってから、外に面した障子

側に座った。

 弥吉は、入口の襖戸近くに胡坐をかいた。

 「おけいは、わしの近くに来い」 

新之亟が、障子を開けた。

薄暮の中、柳が隅田川の川面に揺れていた。

 「弥吉、良い季節になったな」

 「はい、矢吹さま。これからどんどん暖かくな

 ってきます。なんですが、おそのさん達の手助 

 けは大変ですよ。おけいさんも覚悟しなきゃい

 けません」

 「お願いがあります」

 「なんだ改まって」

  「私に棒をもらえませんか。普段は、杖として使いますが、敵と対峙した時に武器にします」  

 「おまえは、棒術もできるのか?」

 「多少は」

 「分かった、明日でも買ってやろう」

 (こんな娘は、江戸中探しても一人もいない。

 なんて女だ)

  弥吉は、また驚いた。

 「長府藩相手では、相手にとって不足はないが、

 ただ俺たちだけでは全く勝ち目はないぞ」

 「矢吹さんのお知り合いで、腕の立つ方はいな

 いんですか」

  恵子が心配そうに言った。

 「今、誰がいいか考えている」

新之亟は、どう戦うか、助太刀を誰に頼もう

か考えていたところだった。

 

 新之亟の父、矢吹忠世は与力で家禄は二百石、

八丁堀の組屋敷に三百坪の屋敷地を構えていた。

 忠世の仕事は、町奉行の部下として、町奉行

所の人事や財政を司る年番という職務で、また、

町廻りや牢屋廻りする同心の上司でもあった。

 新之亟は、次男で、家を継ぐことはできず、また、結婚して矢吹の性を名乗ることができない身分であった。

 新之亟には、婿養子になるか、一生独身でいるか、武士をやめるかの選択があるのだが、まだそのようなことを真剣に考えたことはない。 

 ただ、同じような境遇の友人は何人かいて、酒飲み友達として付き合っている。


  階段を上がる音が、恵子の耳に入った。

 「新之亟様、お酒の準備ができました」

  お清の声が、戸襖の向う側から聞こえた。

 「おう、よい」

 お清は、女中に箱膳と徳利を運ばせ、新之亟

たちの前に置かせた。

 お清は、新之亟、弥吉に一杯ずつ酌をした。 

 そして、恵子に酒は飲めるかと聞いてきたの

で、恵子は頷いて盃を持った。

 お清は、恵子に酌をして、部屋を出て行った。

 「おそのはどこまで二人を迎えに行ったのだろ

 うか」と心配そうに、新之亟が言った。

 「弥吉、おまえをおそのに、付き添わせればよ

 かった」

 「はい、藩からも命を狙われていますので、私

 とした事が」と弥吉は言いながら、銚子を振り

 六本すべて空いたのを確認して、部屋を出て行

 った。

 しばらくして、弥吉は銚子を六本持って戻っ

てきた。

 そして、新之亟に酌をして言った。 

 「矢吹さま、これからどうやって仲間を増やし

 ましょうか。相手は藩ですから、相当手ごわい

 です。腕の良い人間を集めなければなりません」

弥吉は、再び心配そうに言った。

「弥吉、お互いに仲間を探そう。その前に、おその達の話をまずは聞こう」

  新之亟は盃を口につけた。

 「それが良いですね」

  恵子が、言った。

四半時(三十分)ほど過ぎて、お清がおその

達を案内してきた。

  おそのは、二人を新之亟たちに紹介した。

 「娘はゆう、十八歳、弟は新之助、十六歳です」

 と言った。

  恵子は、ゆうを見て驚いた。 

  ゆうも動揺した。

 (私に似ているわ)

 「ゆうさんは、おけいによく似ているな。いや、

 おけいが、ゆうさんに似ているのか」

 「本当に、よく似ている」

  弥吉も、二人を交互に見た。

 (やはり、同じ血が多少とも流れているんだわ)

  恵子は、ゆうの顔を再び見た。

 「おゆうさん、おけいは、遠い将来からこの江

 戸にやってきたんだ。話を聞いたところ、おけ

 いの祖先が、どうもそなたの父上らしい。こん

 な偶然があるんだな。そんな縁から、おけいも

 そなたたちに協力すると言っている」

 「そうなんですか」

驚きのあまりゆうは、それ以上声が出なかっ

た。

ゆうと新之助は、理解しがたいと思いながら

も新之亟たちに頭を下げた。

 女中が、箱膳を運んできて、ゆうと新之助の 

前に、新之亟と弥吉の前に銚子を三本ずつ置い

て、部屋を出て行った。

 「話は後にして、まずは飲もう」 

早速、新之亟は、おゆう達三人に酌をして、

自分は手酌で三杯ほど口に運んだ。

 「俺は酒が好きなんだが、ただ、酒を飲むと気 

 が大きくなる性格でな」と言って、新之亟は笑

 った。

 「この店は、俺のなじみの店で泊まることも出

 来る。今日はゆっくりお話を聞かせてくれ」

 ゆうは、ゆっくりと話し始めた。

 ゆうの父、山田勘兵衛は、江戸留守居役を務 

めていたが、昨年、長府藩に江戸より一時帰国

した。留守居は藩主が江戸藩邸にいない場合、

藩邸の守護にあたったほか、藩主が江戸在府中

であっても御城使として江戸城中蘇鉄の間に詰

め、幕閣の動静把握、幕府から示される様々な

法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成、

を行っていた。更に「礼儀三百威儀三千」とも

言われるほどで、前例に従って落ち度のない事

が第一と考えられており、それに資する先例を

捜査するために留守居組合にて、他藩の留守居

と情報交換を行った。

 また、自藩の本家(本藩)・分家(支藩)との連絡及び調整に当たるのも留守居の役目であった。

 帰国してから一週間ほど経った日、家老の堀田時衛門が藩の金を着服しているのを勘兵衛が見つけ、時衛門を糾弾したその夜、城からの帰り道に何人かの手の者によって殺害されたとのことであった。

 勘兵衛は虫の知らせでもあったのか、前日にゆうと新之助に堀田の悪行について、書面に書いたものを読んで聞かせて、ゆうに手渡した。

そのことが堀田に分かって、我々を捕らえよ

うとしているのだと新之助が付け加えた。

 「正しいことを言って、正しいことをやった父

 上がなぜ殺されなければならなかったの。父の

 恨みを果たさねければなりません」

  ゆうは、咽び泣いた。

 「おゆうさん、恨みはどのようにして晴らすつ

 もりかな」

 「堀田さまを討つのです」

 「それが当たり前だが、ここにいるおけいがそ

 んなことをしたら、いつまでたってもお互いの   

 殺し合いに歯止めがかからなくなってしまうと

 いうんだ」

 「おゆうさん、考え直してください。他の手を

 考えましょう」

 「他の手とは、一体どういう手ですか?」 

  新之助が聞いた。

 「証拠を探して、藩の目付に訴え、堀田を藩の

 司法に委ねるのです」

 「もし、目付が動かなかったら」

 「藩主に直訴するしかありません」 

  ゆうと新之助は、しばらく考えた。

 「分かりました、おけいさんのいう通りにしま

 す」

  ゆうが答えた。

  新之亟と弥吉も頷いた。

 新之亟の背の障子には、いつの間にか外の灯

が揺らいでいた。暮れ六ツの鐘が、遠くから聞

こえた。

 「新之亟様、行灯に灯をお入れしましょうか?」

  襖戸の向こうからお清の声がした。

 「頼む」

  灯が皆の顔が浮かび上がらせた。

 「今晩、皆さまはどうされますか?」

  清が、新之亟に向かって言った。

 「おゆうさん、どうする?」

  新之亟はゆうに聞いた。

 「泊まってもよろしいのですか?」

 「いいですよ」

 「女将、皆ここに泊まって行くことに決まった。

 よろしく頼む」

 それから一時ほど、ゆうの話は続いた。

思っていたより、話は、複雑だった。

 堀田は農民から上がって来た年貢をぴんはね

して、凶作の時は高利で貸し付けたりもして、

私腹を肥やしていた。

 また、出入りの商人からも賄賂を受け取って

いるらしいとのことで、それを家臣の中枢の者

に配り、味方にしているらしいとのことだった。

 農民たちはどんどん困窮していき逃散するものもあとを絶たず、田畑が荒れ、年貢も減ってきて藩の財政は、悪化の一途をたどっているという。

 「父親に味方していた人間も左遷されたり、詰

 め腹を切らされたりしているが、何人かは骨の

 ある者は残っています。ただ、このような事態

 が幕府に知られたら、御取り潰しか改易の憂き 

 目にあうのではないでしょうか。新之亟様、ど

 うしたらよいでしょうか?」

 不安気にゆうは言った。

 「うむ、どちらにしても父親殿の味方をしてい

 た連中に加勢をして、堀田やらを失脚させなけ

 ればなるまい。ただ、ゆう殿の言われるよう幕

 府に知られずに事を進めなければなるまい」

 新之亟は、盃を置いて言った。

 この頃は、未だ外様を潰したり、改易させる

ための情報を得るために、幕府は隠密を各藩に

もぐりこませていることを新之亟は知っていた。

  しばらく、沈黙が続いた。

 「まあ、一つまいろう」

  新之亟は、新之助に酒をすすめに膝を進めた。

 「ありがとうございます」

 「そつじながら、新之助殿達は武道は何かやら

 れるのかな」と新之亟が聞いた。

 「はい、わたしと姉は、幼い頃より香取神道流

 を学んでいます」

  新之助は、恥ずかしそうに答えた。

 「これはしたり。見かけには寄らぬものだ」

  新之亟は、盃をあおった。

 「おゆうさまも新之助さまもしっかりなされて

 いますね、矢吹さま」

  弥吉が、新之亟の盃に酒を注ぎながら言った。

 「だいぶ遅くなってきましたので、この辺で失

 礼させていただきとうございますが、姫様如何

 でしょうか?」

  そのが言った。

 「矢吹さま、おゆう様達もお疲れでしょうから、

 もうお開きにいたしましょう。私達も寝ましょ

 う」

  恵子が、助け船を出した。

  新之亟は飲み足りないよう顔をしていた。

 「皆の者、大義であった。それがしはちょと考

 えごとがあるので、ここにおる」

  新之亟は皆を追いだした。

 ひとり新之亟は、ゆう達の話を思い出しなが

ら一時ほどこれからどうするか考えていたら、

いつの間にか寝込んでしまっていた。 

翌日明け六ツ、まだ寝ている新之亟のところ

 に弥吉が息を切らして入って来た。

 「矢吹さま、外で侍達がうろうろしながら、こ

 ちらを窺ってますぜ。もしかして、おゆう様達

 を狙っているのではないでしょうか」

 「なに?今なん時だ」

 「明け六ツです」

 「矢吹さま、どういたしましょう」

 「うむ、どうしたものか。弥吉、まずはおゆう

 さん達をこの部屋に呼んで来てくれ。ちょっと

 待て、おけいと女将も頼む」と新之亟は一気に

 言った。 

そして、新之亟は、障子を半分開けて外を見

た。

恵子が一番に心配そうな顔をして、部屋に入

ってきた。

 「さすがだな」

 新之亟は、感心した。

 恵子は悪い気はせず、静かに障子戸を開けて、

外を覗いた。

  「新之亟さん、侍たちがいますね」

  しばらくして、ゆう達が入って来た。

 「おゆうさんと新之助殿こちらに来て、あの侍

 達を見てもらいたいのだが」

  新之亟は、二日酔いの頭を叩きながら言った。

 「はい、新之亟様」

  ゆうが、障子戸の隙間から外を覗いた。

 「あの者達は長府藩の江戸詰の者です」とゆう

 は言った。

 「そうか、分かった。俺が外へ出て何しているのか、聞いてこよう。弥吉とおけい、その間、おゆうさん達を頼む」

 「矢吹さま、ひとりで大丈夫ですか?」

  弥吉が心配そうに声をかけた。

 「心配するな」

  新之亟は、長刀を腰に差して部屋を出て行った。 

  階段を降り切ったところで、新之亟が清をつかまえて言った。

 「俺が出て行ったら、入口の戸をしっかり締め

 てくれ」

 「分かりました。お気をつけて」

新之亟と清のやりとりが、おけい達にも聞こ

えた。

新之亟は、店を出るとすぐに三人の侍に取

り囲まれた。

 「何か、俺に用か」

  新之亟は、首領らしい侍に向かって言った。

 「こちらの小料理屋に、長府藩に関係するおな

 ごと若者がいるはずだ。是非こちらに引き渡し

 ていただけないか」と侍が答えた。

 「断ると言ったら、いかがいたす」

  新之亟が答えるや否や、侍たちは抜刀した。

そして、ひとりが新之亟に襲い掛かろうとし

た瞬間。

 「ウワ―」 

叫び声とともに、手首を斬られて、刀を落と

した。

 小野派一刀流の免許皆伝で道場では師範代を二年前までつとめていた新之亟の切り落としの技だ。

 いつの間にか新之亟の後ろに回っていた侍が、上段より斬りつけようとした時、叫び声が上がった。

 「なに奴!」

 侍の首に風車が、突き刺さっていた。 

 首領らしき侍は、間合いを取りながら後ずさりした瞬間、後ろを向いて逃げようとした。

 ‘シュー’という音を新之亟は聞いた時、侍の

 右肩に風車が刺さった。

  呻きながら侍たちは逃げて行った。

 それを見届けた新之亟は、懐紙で刀をぬぐっ

た。

  「弥吉、なかなかやるな」

 店の戸を叩いた。

 「新之亟様、ご無事で何よりでした」

 「心配かけたな」

  新之亟は二階に上がった。

 「弥吉、助かったよ。お前の腕、大したもんだ」

 「矢吹さま、恥ずかしい限りです。逃げられて

 しまいました」

 弥吉は、源立(げんりつ)流手裏剣術の名手

であったが、めったに手裏剣は使わず、風車を

用いた。


 源立流は、東北諸藩と水戸藩に古くから伝わ

っている流派で、弥吉は以前、水戸藩に厄介に

なっていた時に、教わっていた。

 手裏剣術は、昔からの決戦では甲冑の死角即 

ち、両目むき出しの目に、棒手裏剣を使って刺

すのである。

 それにより相手に戦闘能力を失わせるのである。十字、卍寺手裏剣は敵を威嚇することを目的とするのに比べ、棒手裏剣は確実に仕留めることができた。


 「ともかく、この店を早く出ましょう」

  恵子は、新之亟を急き立てた。

 「分かった。皆の者、早く仕度せい。お清も来

 い」

  新之亟は、檄を飛ばした。

  一行は裏木戸から静かに外へ出た。

 「一旦俺の家、いや居候しているところに行こ

 う」

 新之亟は小声で言い、先頭になって、八丁

堀の屋敷に向かった。

 一時ほどで、新之亟の父親の八丁堀与力矢吹

忠世の屋敷に着いた。

 新之亟は、門番に一言二言、言って皆を玄関

まで案内した。  

 「新之亟帰りました」

  直ぐに、若い娘が出てきた。

 「新之亟様、奥さまが心配なさってました」

 「おつた、母上に新之亟が客を連れてきたと伝

 えてくれ」

 「分かりました」と言って、つたは戻って行っ

 た。

  しばらくして、母のきぬが玄関に出てきた。

 「新之亟、早く皆様に上がってもらいなさい」

  きぬは、笑顔で新之亟を促した。

 挨拶は後で、まず皆に上がるように新之亟は  

言って、きぬの後に続いて、客間に入った。

 二十畳もある広い部屋に通され、恵子は驚い

た。

 「やはり、武士は優遇されているんだわ」

一間半の床の間に戸袋付きの違い棚、掛け軸は

水墨画の絵、その横の壁には障子の円窓が設け

られ、それが取り入れた光が、絵をほんのりと

照らしていた。

 恵子は、久しぶりに日本の伝統に触れた気が

した。

 それより、今まで我慢していた恵子は、新之

亟に聞いた。

 「トイレ、いや厠はどこですか?」

 「こっちだ」

  新之亟が、厠まで案内した。

 「これは長屋やお店なんかより立派だわ」

  恵子は、安心して用を足し部屋に戻った。

きぬとつたが、茶を運んでき、きぬは、皆に

 ゆっくりするように伝えた。

 新之亟の顔を見て、きぬは、つたに酒を持っ

てくるように言った。

 それを見計らって、新之亟はきぬに皆を紹介

し、昨日の出来事を話した。

 「新之亟、これからどうするのですか?」

 「母上、父上に相談しようかと思っています。

 父上はなん時に帰られますか」

  新之亟は、きぬに言った。

 「今日は、奉行所でお勤めです。九ツ時ごろに

 帰って来るかと思います。数之助は道場に行っ

 ていますので、八ツ半頃かと思います。皆さま

 は、ごゆるりとお過ごしくださいな」

つたが酒を運んできた。

きぬは、皆に酌をしてまわった。

 「おけいさんは、飲まれますか」

ゆうたちが手に盃を持っているのを見て、恵

子も盃を持った。きぬが、盃に酒を注いだ。

 「お母様は、いかがですか」

  きぬは、手を横に振った。

  新之亟は、手酌で飲み続けていた。

  まだ、五ツ時であった。

 きぬが、部屋を出た後、障子の外から門番の

声がしたので、新之亟が障子をあけ縁に出た。

「新之亟さま。先ほど、立派な服装の侍が四人、半時前から屋敷の周りをうろうろしていました」

 門番が伝えにきた。

「まだいるのか」

「今は見かけませんが」

 新之亟は、部屋に入り、盃に酒をつぎ一気に

飲んでから、門番の言ったことを皆に伝えた。

「あの侍たち、しつこいですね。矢吹さまいか 

 がいたしましょうか」

  弥吉は新之亟の盃に酒を注ぎながら言った。

 「そうだな、父上が帰ってきたら相談してみよ

 う。それまでは、ゆっくり飲もうではないか。

 さあ、おゆう殿、ご一献いかがかな」

 新之亟はゆうの前に行って、盃に酒をそそい

だ。

 「新之亟さまは、本当にお酒が好きですね」

  隣にいた新之助が、真面目な顔で言った。

 「大好きでね」

新之亟は、自分の盃を持ってきてゆう、新之

助、その、そして清に何回も酌をしてもらい、

したたか飲んでいつの間にか寝込んでしまっ

た。

 「新之亟さまは、気の大きい方ですね」

  ゆうは弥吉に言いながら、弥吉に酌をした。

きぬの食事を運んできたとの声が襖の向こうか

ら聞こえた瞬間、寝込んでいた新之亟は、刀を

取って起き上った。

 「新之亟さん、なんでもないですよ。食事です

 よ」

  恵子が、落ち着いて言った。

  ゆう達は、吃驚していた。

飯も食べ終わり、新之亟以外は茶を飲んでい

た。が、新之亟はまた酒を手酌で飲み始めていた。

 襖の向こうから、きぬが忠世が帰って来たの

で部屋に連れてくると言ってきた。

 しばらくして、忠世が部屋に入って来た。新

之亟は、簡単に皆を忠世に紹介し始めた。最後

に恵子の紹介に詰まってしまった。

 「新之亟、どうした」

 「山田恵子といいます。この国の未来からやっ

 てきました」

 「未来ってなんだ」

 「はい、将来先の時代ということですが」

 「分かったような分からないような、まあいい」

 「父上、このおけいが、奉行所に努めたいと言

 ってます。おけいは、未来では、警察という奉

 行所のようなところで働いているそうです。武

 芸もできるので、是非奉行所で働けるようお力

 添え下さい」

 「娘が、同心や与力の仕事をすることなど、あ

 りえないことだ」

 「そこを何とか、お奉行様にお願いしていただ

 けませんか?」

 「聞いてみるだけ聞いてみよう」

 「ありがとうございます。ところで、父上、お

 ゆうさんたちの事ですが」と新之亟が、言って 

 から手短におゆうたちの話をした。

 「そうか。おゆう殿と新之助殿は、つらかろう

 に」と忠世は、目を細めて言った。

 ゆう、新之助そして、そのが頭を下げた。

 ゆうは、先ほどきぬに話をしたよりさらに、

詳しく忠世に話をした。

 長府藩は、第三代藩主毛利綱元で、先代の光 

広の嫡男として江戸に生まれ、承応二年(一七

月二代藩主光弘の死により同年十月、わずか四

歳で家督をつぎ藩主となり、現在四十歳である

ことまた、国家老の堀田時衛門の悪行の数々、

そして、父親が無残に殺されたことについての

こと。

  そばで聞いていたきぬが、涙を流していた。

 「父上、おゆう殿の助太刀をしてもよろしいで

 すか」と新之亟が赤ら顔して言った。

 「新之亟、勝算はあるのか。どちらにしても、

 死を覚悟してあたらねばならぬぞ」

 「分かりません。しかし何もせずには、いられ

 ません」

 「仕方がない奴だ。おゆう殿の助太刀をしてや

 れ。くれぐれも慎重にやるんだぞ」

 「承知いたしました。きっと、おゆう殿の恨み

 晴らして見せます」

 忠世は、ゆう達に当分屋敷でゆっくりするよ

うに言って、きぬと一緒に部屋を出て行った。 

 「おゆう殿、父上が味方になれば百人力だ」

  新之亟が、盃を口に運びながら言った。

  ゆうは、涙を浮かべながら頭を下げた。

  恵子も、新之亟に礼を言った。

 「おけい、あてにするなよ」

 「分かっています」

 数日間、おゆう達は新之亟の屋敷でゆっくり

としていたが、新之亟と弥吉は、毎日屋敷を出

て、長府藩邸の様子をうかがいに出かけていた。 

新之亟は、幼馴染の蕎麦屋から屋台を借りて恵

子と一緒に藩邸近くでそばを売って、藩邸内の

様子を窺った。

 弥吉は薬の行商人の姿に変装して、仕込み

杖をついて、藩邸付近の家々に薬を売りながら

情報を集めた。

 

数日後、新之亟、恵子そして弥吉が、帰り際

に水茶屋で待ち合わせた。

 「おけい、弥吉。いずれ、長府に行かねばなる

 まいな」

 「新之亟さん、早く行ったほうがいいですよ」

  恵子が答えた。

 「矢吹さま、おけいさんのいう通り、一日も早

 く江戸を発って長府に行きませんか?」

 弥吉も恵子に同意した。

 新之亟は考え込んでしまった。

 (長府か、大坂のずうっと先で、博多に近いと

 言う)

新之亟は、怖気づいてしまったのか返事をし

ない。

 「そうは言っても、長府まで、一体何日かかる

 のだろうか?お金はいくらかかるのだろう?」

 ことの重大さを、新之亟はあらためて認識し

た。

 「一日あれば何とか行けます」

  恵子が平然と答えた。

 「おけいさん、なにわけの分からないことを言

 ってるんだ。早く歩いたって三十日前後ぐらい

 はかかりますよ」

 「いけない。新幹線や飛行機なんてないんだわ。

 ごめんなさい。弥吉さんの言う通りね」

 「なんだ。新幹線とか、飛行機って」

 「未来の乗り物です」

  新之亟は、また黙ってしまった。

 「矢吹さま、お金の心配ですか?」

  弥吉が恐るおそる言った。

 「そうよ。俺たち三人だけではないぞ。おゆう

 殿と新之助殿そして、おその。もしかしたら、

 清も行くかもしれない。どのようにして、金

 を工面するかだ」

 「そうですね、お清さんは、お店で稼げますか

 ら自分の工面は出来るでしょうが、おゆう殿達

 三人ですね」

何か良い方法があるかと、新之亟は弥吉の顔

をまんじりと見たが、弥吉は首を横に振った。

 新之亟は、夜に長府藩邸を探ることにして、

昼は道場に通って、門下生を教え旅の費用を稼

ぐとともに助太刀を加勢してくれる仲間を探し

た。


 市中では桂昌院と僧の隆光に勧められて、五

代将軍の綱吉が生類憐みの令を発していたため、

役人が、江戸中の金魚の数を調べたり、猟師の

持っている鉄砲の届出制にしたりして、本来の

仕事をせずに、でかい態度で町を闊歩している

のに江戸府民たちは腹を立てていた。

 「最近、近所の職人の猫が井戸に落ち、死んで

 しまったことで、職人は責任を取らされ、八丈

 島へ遠流になったようだ」

そのような話を新之亟から聞いた恵子は、あ  

きれはてた。

 「そんなことを役人はやっているんだぞ。それ

 でも、おまえは八丁堀で働きたいのか?」

 「動物を愛護するのは良いことです。ただ、取

 り締まりや罰則が極端すぎますよ。それはまず

 いです。私には、そんな取り締まりは絶対にで

 きませんし、やりたくありません。おゆうさん

 たちの手助けに専念します」

 「それがよい」

 側用人の南部直政と柳沢吉保は綱吉、桂昌院、

隆光には意見さえもできない情けない人間だ。

こんな人間が幕閣にいたらいつまでもこの御政

道を続けられないだろうと、新之亟は思ってい

た。

 このような江戸に見切りをつけたくなる者、

一方この繁栄している江戸でひと儲けして贅

沢をしている者いろいろな人間がいた。

 見切りをつけたくなったその一人が、同じ道

場の戸部順三衛門であった。

 順三衛門も新之亟同様、金子道場の師範代で

あるが新之亟よりは腕が上であるが、旗本であ

るがやはり三男のため、居候の身であった。

 稽古が終って、新之亟は井戸で汗を流している順三衛門に声をかけた。

 この順三衛門が頼りになるかまだ疑心暗鬼だったが声を掛けてしまった手前、おゆう達との今までの話を汗を流しながら話したところ、順三衛門があっさり、助太刀すると言ったので驚いた。

 「ではこれから、矢吹家に行って、おゆう殿と

 やらに挨拶に行こう、良いか新之亟」

  順三衛門が着替えをしながら言った。

新之亟は、ゆう、新之助、その、清そして、

恵子と弥吉に紹介した。

  皆、喜んだ。

 「私は、戸部順三衛門と言います。矢吹から大

 体聞きいたがひどい話で驚き申した。許せぬ、

 微力ながらも助太刀いたします」

  順三衛門は興奮しながら言った。

 皆を代表して、ゆうが礼を言って頭を下げた。

 しばらく、ゆうが順三衛門の質問に答えてい

ると、きぬとつたが酒を運んできた。

 きぬは、順三衛門に酌をしてから部屋を出て

行った。

「矢吹、もう一人助太刀にうってつけの男がい

るぞ」

 順三衛門はあかくなった顔をして、甲高い声で言った。

 新之亟は、手酌で絶え間なく盃を口に運んでいた手を止めた。

 「誰だ?」

 「おぬしも知っている、片野鉄之助だ。あいつ

 は腕もたつし度胸もある」

鉄之助は直眞影流の使い手で、新之亟も良く

知っていた。

 「明日にでも、片野を連れてこよう。楽しみに

 していろ」

ゆう達は順三衛門と新之亟の話をじっと聞い

ていた。

 「戸部様、いろいろありがとうございます」

新之助が、順三衛門に酌をしようと銚子を持

った。

 「いや、もう結構。それがしは、矢吹と違って

 下戸なものだから」

  刀を取って、立ちあがった。

 「申し訳ないが、これで失礼する」

 「分かった。またな」

 新之亟だけでなく、ゆう達も新之亟の仲間た

ちが加勢してくれるので心強く思った。

 翌日、待てど暮らせど、順三衛門は来なかっ

た。

 三日目の、明け五ツに順三衛門が鉄之助を伴

って訪ねてきたので、新之亟は、すぐに客間に

二人を通した。

 つたが茶を持ってきたので、ゆう達を呼んで

くるように言った。

 髪を雀鬢に小満島田髷に結い、水浅ぎ(薄い

水色)の友禅の小袖を着たゆうが、部屋に入っ

て来た。

 順三衛門は、鉄之助の顔が赤く染まったのに

気が付いた。

 そして、ゆうに鉄之助を紹介した。

 「片野鉄之助です」

  緊張した面持ちで言った。

恵子や新之助達も来た。

みなそろったところで、手短に名を名乗り、

相談に入った。

 秋九月初めに江戸を出発することになった。

 それまでの間は、鉄之助は長門までの旅の計

画を立てる役、順三衛門は金子を用立てる役、

新之亟と弥吉は長府藩の探索に専念することに

なった。

 計画を立て終わり、きぬ達が昼飯を膳に乗せて入って来た。

 「そろそろお食事にしませんか」

 きぬは、鉄之助と順三衛門に酌をして、部屋

を出て行く前に新之亟に注意した。

 「新之亟、自分ばかり飲んでないで、皆さまに

 も飲んでもらいなさい」

 順三衛門はすでに顔が真っ赤になっていた。

 鉄之助は新之亟から何回か酌を受けていたが、

いつの間にか畳にひっくり返って鼾をかいてい

た。

 「新之助、鉄之助様に水を持ってきなさい」と

 ゆうが言った。

 「順三衛門、先ほど金子の用立てすると言った

 が、何かあてがあるのか」

新之亟は心配そうに小声で聞いた。

 「大丈夫だ、心配するな」

 (兄にわけを話せば、多少の金は出してくれる

 だろう)

順三衛門の兄嫁が、札差の主の娘だったので、

高を括っていた。

 新之亟は、眠ってしまった鉄之助の体をゆす

り起こすと、まだ眠たそうな顔をしながら、

鉄之助は座りなおして、新之亟たちに向き合っ

た。

 「矢吹、ところで先ほどの長門への費用はどの

 くらいかかると見込んでいるのだ」

  順三衛門が、新之亟の顔を覗き込んだ。

 「そうだな。鉄之助とおまえも入れて八人、往

 復の交通、宿、食事そして長府の滞在費一年分、

 一人十両で八十両か、余裕を持って、百両ほど

 だ」

 「分かった。俺と鉄之助の分は俺たち自分で稼

 ぐ。あとの八十両、なんとかする」

順三衛門は新之亟に言った後、鉄之助に目を

合わせうなずいた。

 新之亟は、順三衛門に頭を下げた。

 ゆう達も二人の話が聞こえたようで、申し訳

なさそうに下を向いてしまった。

(こんな大雑把で大丈夫かしら)

 恵子は、新之亟について行って大丈夫かと

増々心配になってきた。

 「おゆう殿、気にするな。さあ、皆で、これか

 ら今後どうするか考えよう」

新之亟は盃に酒をそそいで、口に運んで今度

は恵子の方に顔を向けた。

 話し合いにより、長門長府藩への出立日を秋

十月の初めとし、各自の役目、連絡方法そのほ

か細かいことも決めて、一時ほどで散会した。

ゆうと新之助そしてそのは、新之亟の家に厄介

になることにした。

 そのは働いて、少しでも旅の足しにしたいと

言いはったので、新之亟はやむを得ず、承知し

た。

 「相手は、おまえを知っている筈だ。気をつけ

 ろ。仕事先は俺が探すからしばらく待て」

 新之亟の知り合いの旅籠墨田の主人助五郎に

そのを頼んだ。

 助五郎夫婦はそのを優しく迎え、丁寧に仕事

を教えた。

朝から晩まで働きずめの毎日であったが、住

み込みのため安心して働いた。

 助五郎は、そのが十日に一度矢吹の屋敷

に帰ることを許した。

 一方、恵子は清の店の客を通じて、女中とし

て長府藩邸に入ったのは、桜が散り、緑が青々

として来た五月の中ごろであった。

 弥吉は薬屋として、長府藩邸の出入りを許さ

れるようになり、三日に一度屋敷内に入り恵

子との連絡を取ることに成功した。

 新之亟にいろいろ情報が集まって来た。

 恵子の情報から、江戸藩邸に反堀田派が数人

いることが分かったが、まだ名前までは知るこ

とはできなかった。

 大した進展もなく、新之亟たちは夏を迎えた。

 未だ江戸は都市としての機能が整っていない

ためか、あちらこちらで土木工事が行われてお

り、蝉の鳴き声とともに、更に夏を暑くしてい

た。

 近くでは水や簡単な食べ物を売る棒手振り

が、大声で客を呼び寄せている。

 そこに普請役としてかり出されている新之亟

がいた。

 「兄ちゃん、水を一杯くれないか」

  休憩に入った新之亟が棒手振りに声をかけた。

 「俺も頼む」

  後から新之亟の友人水野安二郎がやって来て

  同じものを注文した。

 「矢吹、そっちはどうだ。予定通りいっている

 か。我が方は遅れている」

 「こちらも多少遅れている。このような暑さで

 は職人も休憩を多く取らないと体がもたん」

 仕事は、江戸城の堀に橋を架ける工事で、現

在測量が終わり、基礎工事が始まったところだ

った。

 「矢吹、帰り一杯、久しぶりにやらないか?」

  安二郎は汗を拭きふき言った。

 「では、おかめで暮れ六ツに待ち合わせをしよ

 う」

新之亟の返事で、ふたりは仕事場にもどって

行った。

 長男の安二郎は、親父から家と役職の与力を

継ぐことになっているので、先の事は心配いら

なかった。

新之亟は、安二郎に酌をしながらゆうたちの

ことを打ち明けた。

 「そして、秋に長門まで行き、おゆう殿の家を

 再興させるつもりだ。ただ、敵におゆう殿と新

 之助殿がねらわれている」

 「残念ながら、表立っては申し訳ないが動けな

 いが、拙者も力を貸そう。知人に長門から来て

 いる剣豪がいるので,色々聞いてみる」と言っ

 て、安二郎は酒をあおった。

 数日後、おかめで、安二郎が長門から来た剣

豪と言っていた池田忠次郎と言う侍を新之亟に

紹介した。 

 新之亟は、忠次郎を見た瞬間、信用できる人

間と判断し、ゆう達の今までの話と、今後の新

之亟の助太刀の計画についても話した。

 その間、忠次郎は一言も口を挟まずに、聞き

もらすまいと新之亟の目を見ながら話を聞き入  

っていた。

 新之亟の話が終わった。

 「そのようなことがあったのですか。おゆう様

 という方は、さぞ無念でございましょう。微力

 ながらお手伝いができれば」と言って、池田忠

 次郎は長府藩の内情についてしゃべり始めた。

 江戸藩邸の目付の堀田派の山口丹左衛門が、

反対派を粛清しており、ほとんどが堀田派に翻

っているが、三人ほどまだ反対派として人目に

つかずに活動している人間がいると言った。

 ただ、目付が厳しいので、表面的には堀田派

と思われるよう装っているので、接触するには

かなり用心しなければならない旨を新之亟に念

を押した。そして、三人の名を言った。

 「池田殿、かたじけない。この恩は一生忘れま

 せん」

  新之亟は、畳に手をつき頭を下げた。

 「矢吹、池田殿、そろそろ話も進んだことだし、

 ここらへんで飲むことにいたそう」

安二郎が手を叩き、女を呼んで酒の段取りを

するよう命じた。

 忠次郎は料理にはほとんど手をつけずに、酒

を三、四盃立て続けに飲み、思い出したように

言った。

 「矢吹殿は剣の使い手のようにお見受けする

 が、どの流派かな?」

 「小野派一刀流です」

 「それがしも、小野派一刀流でござる。このた

 びのお話し、申しわけないが、長府藩の指南役

 を勤めているため、表立ってお手伝いは出来ぬ

 があしからず」

申し訳なさそうに忠次郎は、盃を置いて言っ

た。

 「とんでもござらぬ。ここまで教えていただけ

 れば十分でございます。ごゆるりと飲んで下さ

 い」

新之亟は、忠次郎の盃に酒をそそぎ、そして、

続いて安二郎にも注いだ。

新之亟は屋敷に帰ると、弥吉を呼んで、忠次  

郎のことを話した。

 「弥吉、おけいに藩邸にいる目付の山口丹左衛

 門に気をつけるようにまた、反対派の三人には

 慎重に近づくようにと、明日にでも伝えてくれ」

  翌日、弥吉は長府藩邸に出かけた。

 「薬屋の弥吉です」

 門番に声をかけて、台所に入って行った。い

つもの女中を呼んでもらい、弥吉は頼まれてい

た薬の説明をした。

 そこに、恵子が何食わぬ顔で、弥吉に茶を運

んできた。恵子が、弥吉の前に茶を置いた瞬間、

弥吉は恵子の袂に小さくたたんだ文を素早く入

れた。

 何気なく茶を飲んで、女中にしばらく世間話をしてから、藩邸を後にした。

 数日後、恵子は、女中頭から用を頼まれ外出

し、用を済ませて、その帰り新之亟の屋敷に寄

った。

 「おけい、御苦労だな」

 「新之亟さん、いろいろ分かってきましたよ」

 恵子は、今まで分かったことで、弥吉に伝え

ていないことを手短に新之亟と弥吉に話した。

 「そうか、やはり長門で決着をつけるしか方法は

 ないようだな、弥吉」

 「矢吹さま、おっしゃるとおりですが、おけいさ

 んをそろそろ長府藩邸からださないと危ないと

 思います」  

 「おけい、どうだろう。五日後の両国の花火が始

 まる前に戻れないか?」

 「新之亟さん、近々長門より家老の堀田様が江戸

 に来るそうです。十日ほどいる予定なので、そ

 の様子を探ってみたいのです」

 「そうか、分かった。では、堀田が帰ってから戻

 って来るようにせよ」

 そして、恵子は、ゆう達と簡単に挨拶を交わし

て、屋敷を出て行った。

 弥吉は新之亟の命により、恵子の後をつけて行

った。

 案の定、門を出てしばらくすると、二人の侍が恵子の後をつけてきた。

「やはり、長府藩の者がおけいさんの後をつけていたのか」

 弥吉は十間ぐらいの距離を保ちながらしばらく付いて行くことにした。

 人気のない所に出た時、弥吉は、二人の侍に

手裏剣を時をおかずに投げつけた。

「ギャー」

 侍たちが、前のめりに倒れた。

「おけいさん、逃げるんだ」

 弥吉は、恵子の手を引いて走った。

 弥吉は屋敷に戻ると、恵子がつけられていたことを新之亟に話した。

 「もう、あまり猶予はないか。江戸で戦っても

 埒はあかない、長門への出発を明後日に早めよ

 う。弥吉、順三衛門と鉄之助に伝えに行ってく

 れ、頼む」

 すぐに弥吉は部屋を出て行った。

 新之亟はゆう達の部屋に行って、昨日、江戸

の見納めということで、ゆう達を両国の花火に

見に連れて行くことを約束していたが、行けな

くなったことを説明した。

 江戸で一番の花火大会に行けると喜んでいた

ので、ゆうと新之助は多少がっかりしたようだ

った。

第二章 旅

 長門国への出発の日。

 明け七ツ、品川宿に九人が集まった。

 恵子、新之亟、弥吉、順三衛門、鉄之助、ゆう、新之助、その、で長門への旅立ちである。

「九人で歩くと目立ちすぎるので、二手に分かれたほうがよいのではないか」

 順三衛門が、新之亟に言った。

「そうだな、では俺、弥吉、おけい、おゆう殿と女将。戸部順三衛門は片野鉄之助、新之

 助殿とそのさんに分かれよう」

順三衛門の一行が先に発ち、四半時遅れて新之亟たちがついていった。皆は笠をかぶり、脚絆、手甲を身につけていた。

女の大荷物は、男たちが持った。

新之亟の荷は、昨日の朝から母のきぬと女中のつたが作ってくれた。

着替え用着物、足袋、頭巾、枕、油紙雨具、薬籠、手燭、たたみ提灯、矢立そして火打道具等を整えてくれた。

左手には茶屋が、右手には御殿山が迫っていた。

「この辺は、三代将軍家光公が沢庵和尚の東海禅寺を訪ねた折、街道近くまで家光公を見送りに来た時、『海近くして、遠海寺とは如何』と聞かれたそうで、それに対して沢庵和尚が『大軍を率いて小軍という如し』と答えた場所で、お互いにとんちを言いあったことで有名だ」

新之亟は、ゆう達に歩きながら説明した。

「あっ、それは、東海寺の東を遠いの遠と将軍様が言われたのに対して、将軍の将を小さい小にと和尚が返答されたのですね」

 恵子が、解説した。

「おけい、よくそんなことを知っているな」

街道脇の品川(ほんせん)寺を通り過ぎ、鈴が森刑場に一行が出た時、大乗の晒し首を見た女たちは、顔をそむけた。

「なんて惨いこと!」

 さすがの恵子も吐きそうになった。

六郷の渡しで船に乗り、江戸に別れを告げた。  

同じ船に、浪人らしき侍が二人、三味を抱えた女が同乗した。

船の中では、誰一人言葉を交わす者はいなかった。

四半時ほどで川崎宿を過ぎると、山側に富士が見えてきた。

神奈川を過ぎた頃から空腹と疲れで、恵子たちは無口になった。

「新之亟さん、お腹がすいたわ」

 恵子が言った。

「分かった。もうしばらく我慢しろ」

 半時ほど歩いて、保土ヶ谷宿の飯屋に入った。

「皆、菜飯でよいな」

 新之亟は、有無を言わせぬように言った。

「菜飯ってなに」

 恵子が、お清に聞いた。

「大根の葉か小松菜を刻んでご飯にまぜたものを菜飯っていうのよ」

「江戸時代の人は、こんなものをいつも食べているのかしら。これじゃ、力なんて出なくなってしまうわ」

 食べ終わると、新之亟は、先を急いだ。

戸塚近くになって、片野鉄之助が新之亟のところに来た。

「今日はちょっと無理をして、藤澤まで行こうと思うが大丈夫か?」 

 片野と話をした新之亟が、ゆうたちに聞いた。

「新之亟様、藤澤まで大丈夫です」とゆうが言った。

 新之亟は、片野鉄之助に承知と答えた。

原宿、鉄砲宿と意外に早く過ぎ、藤澤に入った。

まだ日暮れにはまだ時間があったので、一遍上人が開祖である時宗総本山である藤澤山清浄寺に詣でることにした。

ちょうど開山忌が行われており、皆、屋台をのぞきながら参道を登って行った。

新之亟たちは、本堂に上がりこれからの道中の安全と長門での成就を祈願した。

半刻(一時間)ほど歩いて、、藤澤宿の吉田屋に入った。

新之亟たちはまず風呂に入り、食事を取った。

鎌倉や江の島で取れた海産物が次々と出てきた。

「おいしい、おいしい」と言いながら、恵子たちは食べるのに一生懸命だった。

 新之亟は、酒を飲みながらサザエの壺焼きやら、刺身を摘まんでいた。

 食べ終わると皆疲れが出てきたせいか、各々布団を敷きだし、眠りについた。

 新之亟は、まだ安心きれずに横になっても注意を怠らないようにしていた。が、やはり疲れが出たせいで、いつの間にか寝入ってしまった。

翌日。

藤澤の宿を出たのは,明け六ツで、歩き続け、馬入川(現在相模川と呼ばれている)の渡し場で船に乗った。

「鎌倉時代、源頼朝が北条政子の妹の追善のため、馬入の橋の供養をした帰りに義経、行家そして、安徳天皇の怨霊を見て驚いて、落馬しました。それが原因で、翌年正月に頼朝はこの世を去ったと伝えられています」

 船頭が櫓をこぎながら説明した。

「頼朝の死の原因は、心臓の病によるものという説も聞いたことがあるけど、江戸時代ではこの説が信じられているのかしら」

恵子は、頷きながら聞き入っていた。

平塚宿の入口に着くと、街道に直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされ頂部は竹矢来で組まれている江戸見附があった。

「見附は本来城下に入る城門をいい、城下に入る人々を監視する見張り場の役目を持っています。江戸城では、三十六見附(現在の地名として残っている赤坂見附が有名)があります。宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防御施設として設置されました。また見附は正式に宿内であることを示す施設でもありました。また、宿と宿の距離はこの見附を基準としており、この平塚宿もそうですが、一般に江戸側出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼んでいます」

弥吉は、ゆう達に説明した。

「弥吉さん、物知りですね」

 恵子は感心した。

「いえ、薬の行商で、あっちこっちと旅をしているもんですから、いろいろ見聞きして覚えてしまうんですよ」

 弥吉は恥ずかしそうに答えた。

 平塚宿の見附は、規模は長さ二間、巾五尺、高さ一間の大きさで、江戸見附と上方見附の間は十五町。新之亟たちは、本陣、脇本陣、東西の問屋場、高札場,旅籠、二百軒を越える町並みを通り過ぎた。

「弥吉、すまんがこの辺りで、我々の後を怪しい奴が追ってこないか見張ってくれ」

 新之亟は、弥吉に命じた。

 恵子たちは弥吉と別れ、大磯に入った。

「山王町辺りはこんなだったんだ」

 恵子の親戚が住んでいる所を通った時は何とも言えない感慨が込み上げてきた。

 ゆうが、足を気にしだしたのに、恵子が気付いた。

「おゆうさん、大丈夫。足、見せて」

 ゆうの足にマメがいくつかできていた。

「新之亟さん、この辺で休憩しませんか?」

「どうした?」

「おゆうさん、足にまめができて辛そうです」

「わかった、鴫立庵の石碑が建っている前のあそこの茶屋で、飯を食べることにしよう」

「いらっしゃい。皆さん、なににしますか?」

 老婆が出て来て、早速、新之亟たちの注文を聞きに来た。

「なにができるのだ」

 新之亟が聞いた。

「蕎麦ぐらいしかできねえけど」

「じゃあ、蕎麦を頼む」

「皆さんも蕎麦でいいかね」

 恵子たちが頷いた。

 奥に伝えに行ってから戻ってきて、

「お侍さん達はこれからどこへ行くだ」と聞いてきた。

「京の方に」と新之亟は答えた。

「遠いところ、ご苦労なことだ。あんたたち、西行法師のことを知っているか」

 恵子以外は皆、首を横に振った。

「あんた、若いのに知っているのか?」

「心なき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れと歌ったことぐらいですけど」

 恥ずかしそうに恵子が答えた。

「それでも大したもんだ。もっと詳しく説明してやるべ」

 老婆は清の隣に腰かけた。

「この近くは昔、先ほど娘さんが言った「心なき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」と西行法師が詠った場所だ。西行、本名佐藤義清(のりきよ)祖先が藤原鎌足という裕福な武士の家系に平安末期生まれ、武士から大歌人へと、新古今和歌集には最多の歌が入選している有名な歌人だ。宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、ここにあった庵の孤独な暮らしをしながら、歌を詠んでいたんだ。若い時は、御所の北側を警護する北面の武士(一般の武士と違って官位があった)に選ばれ、同僚には彼と同い年の平清盛がいたんだと。武士としても実力は一流であったが、二十二歳で出家した」

「なぜそんな若さで出家したんだ?」

 新之亟が聞いた。

「出家の理由はたくさんあったようだ。仏に救済を求める心の強まり、人生の無常を悟った、政争への失望、自身の性格のもろさ、高貴な女性との失恋とどれが本当かわからんが、偉くなると大変だ」

「お~い。婆さんできたぞ」と奥から声がした。

「はい、はい」と奥へ行った。

皆、婆さんの物知りには驚いた。

食べ終わり、半時(一時間)も過ぎた。

「さあ、そろそろ出発しようか」

 新之亟は自分を励ますかのように大きな声をだして、店を後にした。

「もう少しで、小田原に着く。もうすこしのがまんだ」

 新之亟はゆうの歩き方がおかしくなったのに気づいた。

「背中に乗りなさい」

 新之亟は、ゆうに背中を見せながら声をかけた。

「すみません」

 ゆうは、恥ずかしそうに中腰になった新之亟の肩を掴んだ。

 新之亟も疲れてきたが、ここでゆうに万一のことがあったら元も子もないと思い辛抱した。

花水川に架かる橋を渡っている時に、小田原から来る空駕籠を止めた。

「駕籠屋、酒匂川の船乗り場まで行ってくれないか」

新之亟は、駕籠かきに心付をやり、ゆうを酒匂川まで乗せることにした。

駕籠かきが担ごうとした時、

「矢吹様」

 後ろから弥吉の声がした。

 弥吉は一人の侍、僧そして、職人風男の三人を連れて新之亟に追いついた。

「弥吉、どうした」

「こちらは、飯山一之介様、一心上人様そして畳職人の鉄太郎さんです。我々の仲間になってくれるそうです」

飯山が、挨拶をしようとするのを新之亟は手で押さえた。

「挨拶は、小田原宿でゆっくりいたそう」と言って、駕籠かきに出発の合図をした。

新之亟が歩き始めたところ、弥吉が近くに来た。

「矢吹さま、敵が後ろから追いかけて来てます」と弥吉は囁いた。

「なに、先を急ごう」

一刻(二時間)ほどで、酒匂川に着いた。

ゆうも駕籠から降りて、川を歩いて渡った。

「お清、おけい。まだ歩けるか」

 新之亟が、心配そうに声をかけた。

「私は大丈夫よ。お清さんは、駕籠に乗ったほうがいいわ」

 恵子が答えた。

ゆうと清を駕籠に乗せて、小田原宿まで急いだ。鍋町、万町と過ぎたところで、先発隊の鉄之助が待っていた。

「矢吹、皆、本町の脇本陣で待っているぞ」と言って、脇本陣清水に案内した。

もう既に、丹沢の山々は夕日に照らされ橙色に染まり始めていた。さすが脇本陣だけあって、造りが立派だと新之亟は言い、屋根の八棟造りには皆驚いた。

八棟造の様式は、棟や破風の数が多い複雑に屋根を組み合わせた豪華な民家形式だ。

皆が風呂に入り終わって、夕餉を共に取った。

新之亟たち男は、飯より酒と盃を口にした。

腹が満たされてきて、落ち着いてきたところで、新之亟は、弥吉を呼んだ。

「三人を皆に紹介しろ」

「承知致しました。こちらから、飯山一之介様、一心上人様そして畳職人の鉄太郎さんです。では飯山様からお願いします」

「飯山一之介と申します。戸部とは、竹馬の友で、今回助太刀することにしました。能の金春流(こんぱる)の名取です。以後、お見知りおきを」

「飯山は、もと武士であったが、故あって、いまは能の師匠をしています。タイ捨流の使い手でもあります」と戸部順三衛門は付け加えた。

「一心と申します。この度、弥吉さんから頼まれ、お供をさせていただくことにしました。愚僧ながら、俳諧に首を突っ込んでおります」

弥吉が一心は武家の出身で、剣術に秀でており特に槍は免許皆伝の腕前だと付け足した。

「しがない畳職人の鉄太郎です。昔世話になった弥吉さんに頼まれました。御同行させていただきます。よろしくお願いします」

「飯山殿、金春流とはいかがな派かな?」

「はい、金春派は、能のシテ方五流のうち、もっとも古いと言われており、聖徳太子時代の頃から伝えられております。代々童名を金春と名のったのが流名になったと言われています。安土桃山時代には宗瑞(そうずい)、岌蓮(ぎゅうれん)らの名手が現れ、秀吉様が金春流を学んだことにより、全盛を迎えました」

「次は我々の番だ」

 新之亟から自己紹介を始めた。

 恵子にまわってきて話始めようとすると、それを遮って新之亟が話始めた。

「おけいは、未来からちょっとした手違いで江戸にやって来てしまった。職は、八丁堀の道心のようなことをやっていたそうだ。武術のたしなみは、もしかして我々以上かもしれぬ」

「ここでは、けいと言ってますが、本当の名は、山田恵子といいます。よろしくお願いします」

 恵子は、ぽかんとしている飯山たち三人に頭を下げた。

 新之亟は、飯山達に今までのいきさつを話した。

翌日、総勢十二人が揃い、朝餉を取りながらこれからの策ついて話し合った。

食事を終えた新之亟は、皆を見回しながら言った。

「どうであろう。先発は今まで通り戸部、片野、新之助殿、おそのさんに鉄太郎さん。悪いが、鉄太郎さんには大坂まで、先発、後発のそれがしとの取次をしてくれないか」

「ようござんす、やりましょう」

「そして、後発はそれがし、弥吉、おけい、飯山殿、一心殿、おゆう殿そしてお清で如何であろう」と新之亟は言った。

「矢吹、それでよいが、箱根の関所は難関だ。特に女の方は覚悟してかかって下され」と戸部順三衛門は言った。

ゆう、そのそして、清は顔がこわばっていた。

「三年前、箱根に行った時に見たあの関所だわ。婆さんの人形が、女改めとか言って女を調べていた。確か、牢屋も復元されていた。こんなところで捕まったらたまったもんじゃないわ」

 恵子は、まさかあの名所に自分が本番に立つとは、恐怖と不安に襲われた。

戸部順三衛門たち先発隊が発って、四半刻(三十分)ほどしてから新之亟たちは宿を後にした。

弥吉は、皆が乗れる馬の数を手配してから、小田原宿で追手を待った。

新之亟たちは、急坂を上り三枚橋を渡り、湯本を通り関所に着いた。

「復元されていた関所と大体同じようだわ」

「おけい、何独り言を言っているんだ」

 新之亟が不思議そうに聞いた。

「なんでもないわ」

「ここでひとまず別れるぞ」

入口に六尺棒をついた足軽が二人立っていた。

面番所に新之亟たちが入った。

足軽が十人ほど並んでおり、物々しい雰囲気だった。

女たちに女改め姥が来て、恵子たちは別部屋に連れて行かれた。

「説明文に書いてあった通りだわ」

新之亟たち男は、関所役人の前に出た。

役人は、新之亟たちの関所手形の書かれていることに間違いがないかどうか調べた。

「よし、通れ」

 役人が偉そうに言った。

 恵子たち女が部屋に通された。

「令和の関所の人形が、人間に代わっただけだわ」

 恵子の脈が、速く打ち始めた。

 衣服を脱ぐように命じられ、脱ぎ終わると衣服を女改め姥が調べ、それが終わると、細かく身体を調べ始めた。 

恵子は、恥ずかしさ以上に、このような侮辱に対して怒りがこみ上げた。

余りにも、いやらしく調べているので、

「もういい加減にして」

 恵子は堪忍袋の緒が切れて、姥に怒りを表した。

 姥は、物欲しそうな顔で恵子を睨んだ。

「そうか」

 恵子は、思い出して着物から路銀を出して、渡した。

それが功を奏したか、すぐに改めは終わった。

「なかなか大変だったようだな。さあ行くか。箱根神社によってから、昼食をどこかで取ろうではないか。あとは、三島までの下り四里だ」と新之亟は皆に言って歩きだし、怒りが顔からいまだ消えない恵子、ゆう、清、一心そして、飯山一之介と続いた。

 第一鳥居、第二鳥居、さらに進むと第三鳥居。うす暗い杉木立の中を歩き、そして参道階段を上ると、広い境内に出た。左手に社務所や神楽殿があり、正面に神門、その先に大きな社殿が立っている。

 社殿に行き、新之亟一行は、今後のことがうまくいくようにと祈願した。

そして、箱根神社を出て、近くの茶屋に入って、甘酒を飲んだ。

「おいしい」

 ゆうは関所での出来事も忘れ、生き返った表情に変わっていた。

「おゆうさんが、元気になってよかったわ」

 恵子も関所の事は忘れていた。

箱根の山を下って、黄瀬川を渡ると右手に潮音寺の入り口が見えた。

一心が、説明し始めた。

「潮音寺は、臨済宗妙心寺派で、本尊の聖観世音は、恵心僧都の作といわれています。小野政氏という長者が子に恵まれないためこの観世音に祈ったところ一女に恵まれたそうです。その子の名を亀鶴と言い美しい子のようでした。しかし、父親と母親に早く死なれ、それを悲しみ、十八才の時、藍壺に身を投げて死んだといいます。また一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが、遊女亀鶴は応じないで入水したとも伝えられています」

皆、一心が詳しいのに驚いた。

「皆さん、よく知っているわね」

 恵子は新之亟に言った。

新之亟たちは、三島を過ぎ沼津宿に泊まり、翌日、七ツに沼津宿を後にした。

海から陽が上ってきて、空と海の青さが輝いた。

興津を過ぎると右に清見寺がせまって見えてきた。

また、一心が説明し始めた。

「千三百年程前、天武天皇の頃のことです。東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、清見関(きよみがせき)と呼ばれていました。そして、その近くに、関所の鎮護として仏堂が建立されたのが、清見寺の始めと伝えられています。平安時代には天台宗の寺院であったと思われますが、鎌倉時代に禅宗に改められました。室町幕府を開いた足利尊氏は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈ったようです。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、保護しました。あの雪舟はこの寺で、富士・三保・清見寺の景色を画いています。戦国時代には、今川・徳川・武田・北條の大名が入り乱れて、その都度各大名が清見寺に陣をしき城として使用されたため、甚大な戦禍をこうむることもあったようです。家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府にいた頃、当時の清見寺住職太原和尚より教育を受けたそうです。後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚に帰依し、何度も清見寺に行ったみたいです。家康公の三女静照院殿は、彿殿の本尊釋迦弁尼仏と大方丈の大玄関の寄進をしています。これら因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許されているのです」

「一心さんは、歴史に詳しいですね。どこで学んだんですか」

 恵子が聞いた。

「坊主をやっていると、寺の情報が入ってくるのと、暇なときは、本を読んで知識を得ています。どちらにしても、ただ歴史が好きだからでしょう」

山門をくぐると誰彼ともなく、

「すごい」と言う声があがった。

山門も素晴らしいが、仏殿、大方丈そして、鐘楼も古い建造物だった。

「令和でもこのままの建物が残っているのかしら」

 恵子は、興味深く見学した。

裏に回ると広く立派な枯山水の庭園があり、その縁で、しばしそれぞれ、行く末のことを考えたり、物思いに耽ったりした。

ふと、恵子は不安に襲われた。

「もしかして、私はこのまま江戸時代で生きて、死んでいくのかしら」

「どうした、おけい。そんな寂しそうな顔をして」

 新之亟が、心配そうに声をかけてきた。

「いえ、なんでもないわ」

富士川を渡り、蒲原、由井、興津をすぎ、五日目の宿泊地、江尻の宿に、暮れ七ツ頃に着いた。皆、旅には慣れてきたせいか、風呂や夕餉を早く済まして、既に五ツには床にていた。

新之亟は、まだ飲み足りないようであったが、弥吉より追手からまだ目が離せないとの連絡があったので、ほどほどに抑えていた。

翌朝、今にも雨が降りそうな雲行きなので、宿を早々に出た。

府中に入ると、右手に家康が隠居した時に居城とした駿府城が凛としてそびえ建っていた。 

鞠子宿に入ると小粒の雨がぱらぱらとおちてきた。

「雨宿りを兼ねて、昼飯にしよう」

新之亟は、ゆう達に声をかけた。

「いらっしゃい」

女が迎えた。

店の中はほんのり暗い。

客はまだ誰もいないようだった。

新之亟たちは適当な場所に別れて座り、何を頼もうかと思案していた時に、先ほどの女が来て言った。

「鞠子は、とろろ汁が名物だ。お客さんたちいかがですか」

皆が、とろろ汁と麦飯を頼んだが、新之亟だけは、酒ととろろ汁を頼んだ。

飯を食べ終わったが、外は雨は、本降りになっていた。

「おけいも、駕籠に乗ったらどうだ」

 新之亟が、言った。

「私は、まだ大丈夫よ」

「さすが、鍛え方が違うな」

 新之亟は感心した。

ゆうと清を駕籠に乗せ、新之亟、飯山、一心そして、恵子は油紙の合羽を身につけ、笠をかぶった。

府中そして安倍川を渡り、鞠子、宇津ノ谷峠を抜け、蔦の細道出口に出た。

六日目、岡部宿で宿をとり、翌日、若宮八幡宮に詣でてから、藤枝、金谷、日坂と進んで、掛川宿で宿を取った。

疲れが頂点に達していた。

旅籠でも誰もが無口になり、風呂から出て夕餉を終えると皆すぐに床に就いた。

翌日、袋井の油山寺に詣でて、見附を過ぎ、濱松宿から南に一里ほどすぎたところにある片野鉄之助の友人、田端八之進の屋敷に泊まることになっていた。

新之亟たちが田端の屋敷に入った時には、弥吉を除いて、全員が揃った。

「お世話になります」

 新之亟は、丁重にあいさつした。

「よく来て下された。ゆっくり休んでくだされ」

 笑顔で、田端が迎い入れた。

「皆、無事か?」

「矢吹、悪いが、先にやっているぞ」

すでに、先発の戸部順三衛門たちは、夕餉を取っていた。

田端八之進は、鉄之助の同門で直眞影流の使い手と鉄之助が紹介した。

「お疲れであろう、早速、風呂に入って、ゆっくりして下され」

田端は、新之亟たちをねぎらった。

最後に新之亟が風呂から上がって客間に戻って、用意された膳の前に座るや否や。

「矢吹殿、一献まいろう」

田端が新之亟の盃になみなみと酒を注いだ。

新之亟が、盃を空けると、

「御流れいただけますか」

 田端が言ったので、新之亟は盃を渡し、酒を注いだ。

田端の飲みっぷりは良かった。

「矢吹殿、この度は長府藩の奸物退治のお役目、ご苦労様です。いろいろ鉄之助から聞いています」

「父上」と田端を呼ぶ声がした。

「矢吹殿、これは息子の慎太郎です。よろしくお願いします」

田端は笑顔で言った。

「鉄之助からそれがしが話を聞いていた時に、慎太郎も一緒に聞き、正義感がわいてきたのだろうか、是非、矢吹殿のお供をしたいと先ほどからわたしを困らせています」

「慎太郎殿はいくつになられたのか」

「十五になりました」

「慎太郎は力信流の免許皆伝なんです」

「矢吹様、是非私もお供させて下さい、よろしくお願いします」

頭を畳につくほどさげた。

田端も息子の姿を見て、頭を下げざるをえなかった。

「承知いたしました」

今までの緊張もとけたせいか、あちらこちらで笑い声が聞こえている。

いつの間にか、飯山一之介が金春流‘羽衣’を舞い始めた。

皆、話をやめて見入った。

舞終わった時に、弥吉が部屋に入ってきて、新之亟のそばに座った。

「新之亟さま、追手がこの宿に入りました」

新之亟は、皆に大声で弥吉からの話を伝えてから、言った。

「これからの策を練ることにしたい」

 皆、真顔になり、新之亟と弥吉を囲んだ。

 弥吉が、追手の話をした。

「追手は三人、皆体が大きく強面で、この宿場の宿に泊まっています」

「追手は三人じゃ、もうそろそろ、退治しなければこちらが危ない」

新之亟は、悩ましそうに言った。

「この策はどうだ」

片野鉄之助が道中図を出して、説明し始めた。

皆が動いて、鉄之助を取り囲んだ。

「明日は赤坂宿に泊まり、その翌日、宮宿の手前に道に迫って林がある、この辺だ。ここで、三人を待ち伏せして人気のない頃合いを見計らって、討つ」

「良い策だ。事前に矢吹殿、弥吉さんと戸部殿にこの林を確認してもらう。早朝三人にはここを発ってもらい、赤坂宿で合流する。どうであろう」

飯山一之介が言った。

「いいだろう。待ち伏せは俺と順三衛門、一之介、一心そして、敵の顔を知っている弥吉の五人でどうだろう」

新之亟が言った。

皆、腕に自信のある連中であった。

「いいだろう。皆、腕がたつからな」

鉄之助が言った。

翌日、赤坂宿には二組に分かれて入った。

弥吉は新之亟、順三衛門を案内してすでに宮宿に馬を走らせていた。

鉄之助たちは風呂に入り、静かに夕餉をとった。

ゆう、その、清の部屋を囲むよう鉄之助たち男は部屋をとった。

 それからが忙しかった。

 相手とすれ違わないように、舞坂、荒井、白須賀、二川、そして吉田神社に詣でてなるべく遅く街道に入るようにした。

 敵を先に行かせるための慎太郎の考えだった。

一方、敵の三人はそれとも知らず、先を急いでいた。

新之亟たちは、御油宿、藤川、岡崎を過ぎ、もう既に矢作川を渡って、そして、池鯉鮒の宿を過ぎ、有松に入った。

街道の両側の家々の入り口には、有松絞りの暖簾が風にたなびいていた。

半刻ほどで、鳴海を過ぎ予定の林に着いた。

一刻ほど潜んで待っていると、三人の侍がやって来た。

新之亟たちは、弥吉を見た。

弥吉が頷いた。

三人のほかには、道を歩いている人はいなかった。

新之亟、順三衛門そして一之介は、深編笠を被った。

弥吉は一心と同じ、天蓋を被った。

「命を奪うな。よーし、行くぞ」

新之亟たち三人は、侍の三人に向かって走った。

弥吉と一心は林の中を走って、侍の後ろへと回った。

急に新之亟たちが出てきたので、三人の侍たち驚き、刀に手をやった。

「何者、どかねば斬るぞ」

六尺ほどの大男が言った。

「何を言ってるんだ。人の名を聞く前に、自分から名のるものだ」

新之亟は落ち着いていた。

「つべこべ言うと、本当にたたっ斬るぞ」

大男の右隣にいる小太りの侍が言って、刀を抜こうとした時、三人の侍たちの後ろから、甲高い尺八の音が聞こえた。

その音に三人の侍が気をとられた時に、新之亟、順三衛門そして一之介は抜刀し、あっという間に三人の侍を峰打ちで仕留めた。

すかさず新之亟たちは、三人を林の中に引き込んでさるぐつわをかませ、木に縛り付けた。

「では、ごゆっくり。後を追ってきたら、今度はこれでは済まさないぞ。さらばじゃ」

新之亟たちは、尾張藩領の宮宿の尾割屋という旅籠に入った。

部屋に案内された新之亟は障子をあけ、合図の黄色の手拭いを物干しに掛けた。

半刻ほどして、片野鉄之助たちが宿に着いた時には、既に新之亟たちは一杯やっていた。  

「新之亟、うまく言ったようだな」

「あっけなかったよ。おまえたちも一杯どうだ」

「そうするか。おけいさんたちは、先に風呂に入ってくれ」

新之亟と酒を酌み交わしながら、鉄之助たちは、新之亟たちの首尾を聞いて安心した。

しばらくして、恵子達が風呂から出て来て、今日の話をかいつまんで新之亟は話した。

ゆうは、ほっとしたようだった。

「矢吹、これで当分は大丈夫だろうが先を急いだ方がよい」と順三衛門は言った。

「そうだな、明日は、七ツに宿を出よう。鉄之助たちも風呂に入って来い」

新之亟が、盃を重ねて言った。

女たちは夕餉をとって、すぐに眠りに就いた。

新之亟は鉄之助が風呂から出た後、明日からの計画を話し合った。

朝七ツに、順三衛門、鉄之助、新之助、慎太郎そして、そのが発ち、半刻ほど後から新之亟たちが宿を後にした。

新之亟たちが、数里ほど歩いた先に、竹柵で囲われたところに町人や百姓たちがたむろしていた。

恵子が、近くにいた娘に尋ねた。

「隠れキリシタンの火あぶりの処刑がこれから行われるだ。かわいそうに。おらあの知っている人がいるだよ」

 娘は泣きながら言った。

「そう。かわいそうに。見せしめとはいえ、なんて野蛮なことをするんだろう」

恵子は歴史の書物で知ったことが、現実に目の前で起ころうとしているのに驚愕した。

ゆうと清の身体が震えてた。

夕闇が景色を包み始めて来た。

桑名宿まで一里ほどで、新之亟は二人を駕籠に乗せて、先を急いだ。

桑名宿の旅籠あやめに入ると、先発隊の順三衛門たちは、既に夕餉は終えていた。

「遅かったな。女たちは俺たちと一緒でよかろう」

「いいよ」

宿は混んでいて、新之亟と弥吉は別の部屋に別れた。

「今日は、相部屋で申しわけございません」

女将は、新之亟と弥吉を別の部屋に案内した。

新之亟が部屋に入ると、一人の僧が座って木を彫っていた。

「新之亟と申す、よろしく頼む」

「円空と申します。こちらこそよろしくお願いいたします」

「お客さん、夕餉です」と女が箱膳を運んできた。

「お女中、申しわけないがお酒を四合頼む」と新之亟は頼んだ。

しばらくして、酒が運ばれた。

新之亟は手酌で盃を重ねながら、

「円空殿、一献まいろう」と円空に盃を渡した。

「有難うございます、般若湯は久しぶりです」

新之亟は、先ほど木を彫っていたことから円空の生い立ちに至るまで話を聞いた。

円空は、行李から木彫りの木彫りの仏像を出した。

それは、ゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえており、このような独特の彫りを新之亟は、初めて見た。

「すばらしい彫り物じゃ」

円空は、はにかみながら訥々と話し続けた。

「生まれは美濃国です。それから物心ついた時には弘前城下にいたのですが、今から二十年前、ちょっとしたことで、津軽藩の弘前城下を追われました。それからというもの旅をしながら彫り続けています。青森経由で松前に渡り、太田山神社をはじめ道南の各地を廻り、多くの仏像を彫りました。それから、尾張・美濃の地方に戻りました。そして、大和の法隆寺に住持していた巡堯春塘より法相宗の血脈を受けました。近江国の園城寺に住持いた尊永より仏性常住金剛宝戒の血脈も受けたのです。その後、関東に滞在して、再び美濃に戻り、荒子観音寺の住持であった円盛より天台円頓菩薩戒の血脈を受けました。元禄二年、私が再興した美濃国関の弥勒寺が、天台宗寺門派総本山の園城寺の山内にあった霊鷲院兼日光院の末寺につい最近なりました」

新之亟は、黙って聞いた。

円空は続けた。

「矢吹様は、これからどちらに行かれるのですか」

「それがしは、長州の方へ行くのだが、和尚殿はどちらに行かれるのかな」

「わたしは、奈良へ行こうと思っています」

「では和尚殿、途中まで一緒だな。よかったら、京まで一緒に行かないか?」

「よろしければ、お供させていただきます」

そして、ふたりは床に就いた。

翌日は日本晴れだった。

皆が揃って、戸部たちの部屋に集まった。

新之亟が円空を紹介した。

一心は驚き、隣に座っていた恵子に、話しかけた。

「この上人様は、民百姓の幸せのために仏像をたくさん彫っている方なのですよ」

「ええ、私知ってますよ。令和の時代でも有名です」

 恵子には、円空の性格が人懐こそうなのに見えた。

旅は道連れ、世は情けそして、一人増えての旅が始まった。

円空を加えた新之亟たちが先に発った。


四日市、石薬師と過ぎ江戸から既に百六里二町の伊勢国鈴鹿郡に入った。

新之亟たちは、関宿の方へ行かず、伊勢路に入る大鳥居をくぐった。

今朝、遅出の順三衛門たちと話し、折角だから伊勢神宮に詣でて、仇討ち成就の祈願をしていくことになっていた。

五十鈴川にかかる宇治橋を渡りそして、火除橋を通り、一の鳥居、二の鳥居をくぐると左手に御神楽殿が見えた。

一心が、説明し始めた。

「御神楽は、雅楽や舞を伴った丁寧な御祈祷のことです。ありがたい御祈祷をこのお神楽殿でやっていただけるのです」

隣にいた円空もこの説明に感心していた。

「お伊勢様には狛犬がいないのですか?」

ゆうが、一心に聞いた。

「狛犬は平安の時代の神社には置かれていました。しかし、お伊勢さまはもう既に社殿の建築様式や構成が確立していましたので、流行りに流されることはなかったようです。おみくじもありません」と間髪をいれず、一心が答えた。

「何ごとのおわしますかは 知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

円空は、九百年前に西行法師が歌ったのを思い出し、声を出して詠じた。

「円空様、お伊勢様の由来はご存知ですか」

一心は聞いた。

「よくはは知りませんが。まず、伊勢神宮と言う名は神宮と言うのが正式名称のようです。神宮は内宮、外宮があります。内宮は天照大御神、外宮は豊受大御神を祭っています。お伊勢様の始まりは第十代崇神天皇の頃のようです。このころ、疫病がはやりこの国の存亡の危機が訪れました。その時、天皇は神を祭ることで国を治めることを考えたようです。このことで、天皇が政治と宗教の分離を決意したと言われています。遷宮と言う神様の引っ越しの始まりは四十代天武天皇の発意だったと聞いています」

帰りの参道で、ゆう達女がお腹が空いたと訴えてきたので、金時屋という餅屋に新之亟たちは入った。

「おう、順三衛門」

新之亟は驚き、大きな声をあげた。

「新之亟、もうお参りはしたのか?」

「今終わったところだ」

「そうか、ここの餅はうまいぞ」

鉄之助がにこにこしながらお茶をすすっていた。

「では新之亟、石部の宿で会おう」と言って、順三衛門は一行の分もまとめて払い、店を出て行った。

新之亟たちも餅を食べ終わり、店を出てから二時ほどで近江甲賀郡の石部宿に着き、おうみという旅籠に入った。

もう京まで九里十三町を残すあまりになった。

 すでに、戸部順三衛門たちも到着していた。

 久しぶりに大広間に、皆が入ることができたので、揃って夕餉をとった。

 明日は、京ということで皆は何となくほっとしているようで口数も多かった。

 円空は、さっさと食して、部屋の片隅で一人ぽつねんと木を彫り始めていた。

 食事を終えると、女中と主人が片づけに来た。

「皆さま、お食事いかがでしたか。ごゆっくりお過ごしください」と主人が挨拶した。

「そうだ、先ほどお女中からこの宿で有名な話があると言っていたが、良ければ聞かしてくれないか?」と新之亟は頼んだ。

「はい、お話しいたしましょう」

 いわゆる‘桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)’というものだ。

「呉服屋の長右衛門さんは商用で遠州に出かけ、帰り道でお半さんに会いました。お半さんは隣家、信濃屋の娘で、乳母や丁稚の長吉どんと一緒に伊勢参りに行った帰りだったのです。一行はよい道づれができたと同道し、私どものこの部屋に泊っていただきました。その夜、お半さんは丁稚の長吉どんがしつこく言い寄るので眠れないと言って、長右衛門さんが泊っている部屋へ逃げたようです。長右衛門さんはお半さんをなだめ、『夜明けまでここに居てもよい』とお半さんを布団に入れたとのことですが真意はよく分かりません。まだ子供だと思っていたお半さんは長右衛門さんに恋心を抱き、長右衛門さんは理性を失ったのか二人は結ばれたとのことです。お半さんの後を付けてきた長吉どんは部屋を覗き、驚き、嫉妬し、腹いせに長右衛門さんが遠州の大名から研ぎに出すよう預かってきた正宗の脇差と自分の旅差をすり替えたのです。夜が明け、一行は京へと戻ります。そして、半年ほど後に、長右衛門さんの妻お絹さんの弟、才次郎さんとお半さんが結納を交わすことになりましたそうで。仲人は長右衛門夫婦。呉服屋を乗っ取りたい長右衛門さんの弟、儀兵衛さんが兄の代理として信濃屋へ来ます。儀兵衛さんは、お半に惚れていてこの縁組みを破談させたい丁稚の長吉どんと悪巧みの相談をしていた。長右衛門が祝儀にやって来た。縁組みを拒むお半さんから自分の子を身ごもっていると告げられ長右衛門さんは驚いた。日がたち、六角堂でお絹は百度参りをした時、後を追ってきた小舅の儀兵衛さんが長右衛門さんとお半さんのことを告げ、証拠だとお半さんから長右衛門さんへの手紙を見せびらかしたそうです。自分の言うことを聞いたら手紙を渡すといやらしく言う儀兵衛にお絹は「折を見て」とかわし、追いたてます。お絹があれこれ考えているところへ通りがかったのが丁稚の長吉。お半と長右衛門のことを訊ねると、石部の宿で二人のことを見てしまったと答えた。お半さんに惚れている長吉どんに、恋をかなえてやるからお半と契りを結んだのは長右衛門ではなく、この長吉だと言い張ってくれと頼んだそうです。その後二人は悲劇に陥ったようです。今でも浄瑠璃等で受け継がれていますので、興味があるならば、お後は浄瑠璃でお聞きください。夜も遅くなりましたので失礼いたします。ごゆっくりお休みください」

 恵子は、この話に興味を持ったが、明日を考えてすぐに床に入った。

外が、明るくなっていた。

朝餉の時、清は新之亟の顔をちらちら見ていたのを、弥吉は見逃さなかった。

今日も新之亟たちは、女ふたりをを駕籠に乗せ、先に発った。

次の目的地、京へと急いだ。

昼頃、大津宿に着いた。

宿の入り口の左には屋根つきの見事な常夜燈、右には、高野地蔵が新之亟たちを迎えるかのようにたち並んでいた。

 幟に姥カが餅屋と書かれている店に、新之亟たちは入った。

 皆で、あんころ餅を食べ、茶でのどを潤し後三里ほどの京を目指して出発した。

 しばらく行くと、左に近江一之宮、建部神社のお鳥居がそびえ立っているのを右に曲がると瀬田の唐橋にでた。

 とうとう、新之亟たちは、江戸から百二十五里二丁(五百キロメートルと二百十八メートル)の京に到着した。

 清が何か寂しげに唄い出した。

「都路は五十余りに三つの宿、時得て咲きや江戸の花、波静かなる品川をやがて声来る川崎の・・・・」

皆、静かに聞きながら、江戸を思い出していた。

八坂神社に詣でてから、その近くの旅籠に泊まった。

一刻ほど経って、順三衛門たちが宿に着いた。

京では、体を休めるために二泊することにしていたので、皆のんびり夕餉を取り、新之亟は久しぶりに酒を浴びるほど飲むことができた。


第三章 敵地

 翌日の夕に、大坂に入った。皆、大坂道頓堀には橋が多いのに驚いた。

「今の道頓堀は、こんなに多くはなかったと思うけど」

「おけいさん、どうかしましたか?」

「いえ、何でもありません」

「一心さん、この辺は食い倒れと言うのは、なぜですか」と清が聞いた。

「食いはくいでも、杭なんですよ。大雨が降ると川が暴れ橋を支えている杭が倒れてしまうのです。それで杭倒れと言うのです。京の着だおれとは違うのです」

「なるほど、一心さんは何でもご存じなんですね」

 清がまた感心した。

近場の宿に新之亟たちは泊まることにした。

弥吉は用事があると言って、宿には入らずに出かけて行った。

一時ほど遅れて、戸部順三衛門たちが宿に入ってきた。

「早かったな」

 新之亟は笑顔で迎えた。

「おまえたちはいつ着いたんだ?」

「一時ほど前だ。先に風呂に入ったらどうだ、飯は皆で食べよう」

一同が部屋に集まって夕餉を共にして、食後くつろいでいると、弥吉が戻って来た。

弥吉は、若い男と女を新之亟たちに引き合わせた。

忍びの彦太郎と、くの一の八重と名乗った。

「俺は、矢吹新之亟と申す。弥吉から話は聞いたと思うが、相手が相手だけに十分注意してかかってくれ」

 新之亟は、弥吉に向かって頷き、そして、一同を紹介した。

 恵子が挨拶をすると、彦太郎と八重は身構えた。

「おけいは決して怪しいものではない。おれも素性はよくわからんが、信頼できる女だ」

 恵子は忍者に会えるとは思ってもいなかった。「本当の忍者って、どんな働きをするのかしら。よく見ておかなければ」

「新之亟さん、これならなんとかなりそうだな」

 片野鉄之助も喜んだ。

「これで、役者は揃った」

 飯山一之介が言った。


 晴れた朝を迎えた。

 いつもの通り、七ツに宿を新之亟組は出た。

 一行は、兵庫港から船に乗って、数日かけて三田尻港に向かった。

 恵子たちに、頬に気持ちの良い春風が、頬をなぜるかのように吹き過ぎた。

 しかし、間もなく船の揺れがそれに勝って、直に恵子たちは船酔いに襲われた。

 新之亟だけは、酒を飲み続けていた。

「新之亟さん、飲みすぎると敵が来たら対処できないわよ」

 恵子が苦しそうに言った。

「船で酔うより酒で酔った方がいいわい。おけいも飲んだらどうだ」

「冗談じゃないわ」

 船を降りてしばらくすると、恵子たちは船酔いが嘘だったかのようにやや元気を取り戻した。

 暮れ六ツ、一行は宿に入った。

「疲れましたな」

 飯山一之介が、恵子に声をかけてきた。

「はい、船酔いにはまいりました」

 ゆうと清もまだ本調子ではないようで、恵子の言葉にただ頷くだけだった。

 順三衛門たちは、三日遅れで宿に入った。

「新之亟、海が荒れて、途中島影で停泊してしまった。疲れた。そっちはどうであったか」

「天気が良かったので多少揺れたが、順調だった。まあ、ゆっくり風呂でも入ってこい」

夕餉の後、今後の策について話し合いを持った。

「忌憚のない意見を言ってくれ」

 新之亟が、盃を置いて言った。

「僭越ですが、まず藩領がどうなっているか調べたほうがよいと思いますが、いかがでしょうか」

 ゆうが口火を切った。

「そうだな、敵を知り、己を知る」

 分かったような顔をして、新之亟は再び盃を手にして言った。

「弥吉、忍びを連れて舟木市に行って、藩の様子を探ってきてくれ」

 他のものから意見が出る前に、新之亟は弥吉に命令した。

「はい、承知いたしました。彦太郎、八重よいか」

彦太郎、八重は承知と言って、頭を下げた。

「弥吉、山中宿は‘山の葉’に俺たちは泊まる。そして、おまえたちは、舟木宿の‘津市屋’で待っていてくれ。くれぐれも用心してな」

 片野鉄之助が助言した。

「ちょっと待て、俺も行く」

 戸部順三衛門が大声を出して、長刀を手にした。

「だめだ、お前は腕より医学だ、まだ出番は早い。俺が行く」

 飯山一之介が、長刀を持って立ち上がった。

「良かろう、飯山に任そう。弥吉たちを頼む」

 新之亟は盃を置いて言った。


翌日。

八ツ半(朝三時)まだ暗い空の下、飯山たち四人は三田尻を後にした。

続いて、七ツ刻(朝四時)に田畑慎太郎と表具師鉄太郎が今日の宿を探しに小郡に向かって、宿を発った。

 六ツに、新之亟残りの一行は、ゆっくりと小郡に向かった。

 女たちの乗った駕籠も動き出した。

山陽道に入った。塩田があちらこちらに作られていた。

新之亟は、西国の海が青々しく美しいのに感動した。

田畑たちは、既に小郡宿の旅籠津市屋を貸し切りにすることを宿の主人に了承を得ていた。

飯山たちは、小郡宿を過ぎ、あと一里で今日宿泊する山中宿に着く場所にいた。

新之亟たちは、小郡宿の津市屋に暮れ七ツに着き、続いて一刻ほど後に、順三衛門たちも入った。

皆、疲れていたので、夕餉を取るとすぐ床に着いた。

翌日。

新之亟一行は、山中宿の旅籠愛宕屋に泊まった。

風呂と夕餉を済ませた新之亟たちは、大部屋に集まって、盃を重ねながら話していたところ、舟木から帰って来た飯山たちが部屋に入ってきた。

「おーい、静かにしてくれ。これから俺たちが調べたことを話す」と飯山が言った。

 ざわめきが止まった。

「飯山たちが戻ってきたぞ。ご苦労だったな。さあ話を聞かせてくれ」

新之亟が飯山に声をかけた。

まずは、舟木までの道のりについて飯山が話し始めた。

「割木松峠が周防と長門両国の国境で、それを下って行くと山中市に入る。山中市は本陣が二つある。二俣瀬の舟渡で厚東川を渡り、そして舟木峠を越えると舟木市着く。ここは、代官所があるからくれぐれも気をつけなければならぬ」

茶を一口飲んでから、話を続けた。

「舟木市から西に行き、西見峠を越えると厚狭に出る。そして、蓮台寺峠を越えると吉田に着く。そして、木屋川を渡ると、毛利藩の支藩の清末藩領だ。そうですね、おゆう殿」

「そうです、清末藩領を過ぎますと、長府藩に入ります。ここから藩の体制については、進之助、おまえが説明しなさい」

「はい、姉上」

進之助は若干緊張しながら、長府藩の体制や組織について話し、そしてどのような役職の人間が堀田派なのか、また彼らがどこに屋敷を構えているのかを半時ほど一気に話し続けた。

その後、いろいろ聞かれてそれについて、ゆうとそのも答えた。

反堀田派も多少いることを恵子も知った。

「反堀田派の連中に会って、今の藩の様子を聞いた方がよいのではないか」

新之亟が盃を置いて、真面目な顔で提案をした。

「しかし、反堀田派の人たちは今目立たないようにしていますから、会うのは難しいと思われます」

ゆうが答えた。

「おそらく、堀田派の連中が見張っているでしょうから危険が伴います」

 新之助が続けた。

「それはあり得るな」

「反堀田派の中で御存じの方を知ってはいませんか。ゆうさんのご存じの方に、文を送ったらどうでしょうか」

恵子が言った。

「おけいさん、それは良い考えですね」

ゆうは、恵子に向かってほほ笑んだ。

「御使番役の黒田忠衛門殿へ文をしたためたらいかがでしょうか、姫様」

そのがゆうに提案した。

片野が、黒田の屋敷の場所を開いた絵図に指さした。

「誰が、どのようにして届けたら良いかな?」

新之亟が、言うや否や、

「それがしが行きましょう」

一心が言った。

「手立てはあるのか?」

「もちろんです」

「分かった。では決まったところで、一心殿は朝一番で発ってもらおう。それからは、敵に悟られるといけないので、それぞれ姿を変えて、少ない人数で発つことにしよう。次は、山中市で会うことにしたらどうであろう」    

飯山は、皆の顔を見回して確認した。 

一刻ほど話をして、それぞれの相手と姿のことなど決め、皆床に着いた。

新之亟一人、明日からは酒が飲めないのでゆっくり盃を傾けていた。

憂鬱な空模様であった。

一行は、長州藩領に入っていたので、緊張のためか、皆早く起きてしまった。

明け七ツ、一心は虚無僧の姿で宿を発ち、長府へと急いだ。

続いて、半刻(一時間)ごとにまずは、前方の注意のため、彦太郎と八重が先発し、そのあと、戸部順三衛門は大店の番頭に、田畑慎太郎は手代の姿となり、ゆう、そのを駕籠に乗せて出発した。

片野鉄之助は相棒の鉄太郎と同じ表具職人の姿になり、女形になった進之助を駕籠に乗せて続いた。

新之亟は着流し姿、頭にてぬぐいかぶった清が三味線を持って、並んで歩いた。

恵子は新之亟の本差と脇差を抱えて、駕籠に乗った。

「駕籠の中ってこんなに狭く、乗り心地の悪いこと」

 恵子は歩いたほうがましだと思った。

 最後に弥吉が一人、後方を注意しながら、山中市に向かって、宿を後にした。

 長府藩領に入った。


 長府藩は萩藩の支藩の一つで藩祖は、毛利元就の五男元清の子、秀元である。長府藩主は、三代目四十になったばかりの毛利綱元で石高は五万石になっていた。居城を長府(現在の下関)の串崎においた。

一方、長府藩を取り巻く、宗家の萩藩主は毛利吉就、二十二歳、そして支藩の岩国藩主吉川広紀、三十二歳、長門清末藩主毛利元平、十五歳、徳山藩主毛利元次二十三歳であった。これらの藩を併せて、長州藩と呼ばれていた。


新之亟たちが、西見峠に差し掛かった。

「ちょっと待った!」

木陰から浪人ふたりとごろつき男ふたりの四人が、新之亟の前に飛び出してきた。

六尺もあるひげ面の大男が怒鳴った。

「お前たち、命まで取らん。金目のものを全部よこせ」

「助けてくれー」

恵子を担いでいた駕籠かき二人は大声を出して、逃げてしまった。

「一体何があったのかしら?」

 恵子はそっとたれを押して外を覗いた。

「山賊、野盗?」

ごろつきの二人は匕首を、浪人は刀を抜いた。

「おまえらは山賊か?」

「つべこべ言わずに金を出すんだ」

新之亟は、清を後ろに位置させながら、駕籠の横にまわった。

「新之亟さん、刀」

 恵子が、たれをまくって長刀と小刀を渡した。

「おけい、駕籠を出るな」

新之亟は両刀を腰に差して、長刀の鯉口を切った。

木々にいた鳥が、音を立てた。

その瞬間、大男が新之亟に真っ向から打ちこんだ。

新之亟はその剣を払いのけ、峰で胴を打った。

浪人ががっくりと崩れた。

ごろつき二人が、駕籠の後ろにまわって、ひとりが恵子の手を持って、駕籠から出そうとした。

「何すんのよ」

 恵子はその手をねじ上げながら駕籠から出た。

「いてえ。このあま」

 左手の匕首で恵子を斬りつけようとした。

 恵子は、ねじり上げた手を突き放し、すぐに駕籠かきが置いて行った杖を拾い上げるやいなや男の左手首に杖の先を叩きつけた。

「ギャー」

 男は手首を抑えながら座り込んだ。

 もう一人の浪人が、新之亟との間合いを詰めていた。

新之亟は、腰を据え正眼の構えをとり、わっと叫んで上段に上げるや、体を斜めに沈め、目にも止まらない速さで詰めてきた浪人の足を払った。

「ギャー」

悲鳴を上げて、しゃがみこんでしまった。

「清、大丈夫か」

 新之亟が刀を鞘に納めながら言った。

「新之亟さんは、本当に強いのね」

 新之亟は照れた。

「そういえば、おけいさんは?」

 新之亟が振り向くと、もう一人の男が匕首を構えながら恵子に近づくのが見えた。

「おけい、気を付けろよ」

「大丈夫。この悪党め、行くわよ!」

 恵子は杖を振り回しながら、その男の腹を打った。

 あっけなく男は倒れた。

 弥吉が、追いついてきた。

「どうしたんですか?」

 恵子は、山賊に襲われた経緯を説明した。

「皆さん、大丈夫でしたか」

「新之亟さんとおけいさんが、簡単に追い払ってくれました」

 清が答えた。

「おけいは二人もやっつけたよ」

「おけいさんは本当に強いですね」

 三人ともおけいの強さには脱帽した。

山中市の待ち合わせの宿に入った。

一心を除いて皆揃っていた。

新之亟は、西見峠の出来事を話した。

「これからは、気を引き締めなければなるまい」

戸部順三衛門が言った。

半刻ほど経って、一心が御使番の黒田忠左衛門の文を持って帰って来た。

「ご苦労だったな。文を見せてもらおうか」

一心は、皆の前に文を広げた。

そこには、家老 堀田時衛門、目付 山下右左、御用人 山下三郎、勘定奉行 井出和之助、普請奉行 谷山十左衛門そして、豪商の安部四郎右衛門の名が書かれていた。

「なるほど、これで敵の名はすべてわかったわけだ」

 新之亟は盃を置いて言った。

宿で、数日間、新之亟たちは入念に計画を練って、岩国藩領に入った。

江戸を出てすでに、一ヶ月が過ぎようとしていた。

「この際だ、厳島神社にお参りして行こうではないか」

 新之亟が提案すると、皆喜んだ。

「私は一度来たことがあるわよ」

 恵子は新之亟に言った。

「俺は初めてだが、どうであった」

「神社の近くでお弁当を食べていたら、鹿がやって来て私のお弁当を食べてしまったの。

 あそこの鹿は凶暴だから気をつけてください」

 恵子はそう言ってから、以前行ったのは令和の時代で、今はどうか分からないことに気づいて、顔を赤らめた。

渡し船に乗って、新之亟たちは、まず厳島神社に祈願のために参拝した。

そして、目立たないように城下に進入した。

岩国藩当主四代目吉川宏紀のいる岩国城を目指して歩いた。

錦川に美しい橋が架かっていたのを見て、新之亟たちは目を見張った。

「今もある錦帯橋そのままだわ」

 恵子も、この時代の職人の技に感服した。

宿に入ると、片野鉄之助が長府藩について調べたことを新之亟たちに報告した。

「毛利 綱元(もうり つなもと)、慶安三年(一六五0年)十二月二十三日、江戸で生まれで、 宝永六年三月一日(一七0九年)まで、長門国長府藩の第三代藩主。第二代藩主毛利光広の長男。母は本多忠義の娘・清殊院だ。正室は池田光政の娘・祥雲院。側室に貞性院。子に毛利吉元(長男)、本多忠次(次男)、毛利匡以(三男)、毛利元矩(四男)、娘(森長成正室のち南部信恩正室)。官位は従四位下、甲斐守、侍従。幼名は又四郎。承応二年(一六五三)、父の死去により後を継いだ。このとき、叔父の毛利元知に一万石を分与して、清末藩を立藩した。寛文四年(一六六四)、甲斐守に叙任する。天和三年(一六八三)、倹約を主とした「天和御法度」を制定する。元禄十年(一六九七)には窮民の救済に尽くし、さらに文武奨励や覚苑寺建立など、藩政に尽くしている。今は、毛利綱元四十歳になっている。そんなところかな」

「片野、ありがとう」

 新之亟が礼を言った。


二日後、皆、長府藩領に入った。

ゆう、進之助そして、その、清と恵子を新之亟は、住吉神社に連れて行った。

神社の鳥居をくぐると、檜皮葺きの屋根で流造の本殿が見えた。

近づくと、一間社流造の五社殿を並べ、これを合いの間で一連にした九間社流造の形式でまた、それぞれの正面の屋根には千鳥破風がきれいに造られていた。

新之亟たちが、拝殿に見とれていると、神主が出てきた。

「おゆう様、よくご無事で」

 新之亟がすぐ対応した。

「俺は矢吹新之亟と申す。分け合って、おゆうさんと清さん二人を預かってほしいだが?」

 新之亟は、神主に一両を包んだ物を渡した。

「分かりました」

 神主は訳も聞かずに笑顔で受け取った。

「新之亟さん、いくら渡したの?」

 神主と別れると恵子は新之亟に聞いた。

「一両だ」

「そんなにやったの」

 恵子は新之亟の気前の良さに驚いた。

「おけい、なぜそんなに驚くんだ」

「一両は令和の時代に換算すると十万円ぐらいで、その金額では安いアパートを一か月くらい借りれるわ」

「アパートとはなんだ」

「そうね、長屋みたいなものかな」

「長屋は月五百文ぐらいですよ」

 弥吉が代わりに答えた。

「一両って、何文なの」

「四千文です」

「じゃあ、長屋だったら八か月分になるわ」

「おけいさんは計算が早いな」

 弥吉が感嘆したが、新之亟はぽかんとしていたが、すぐに気を取り直して、新之亟は注意を払いながら、恵子と弥吉を伴って長府の町に出た。

新之亟たちの策はこうだった。

 直心影流の使い手、片野鉄之助と伊賀下忍の彦太郎は、勘定奉行の井出和之助と一刀流の付き人、山口達之進等を仕留める役目を負った。タイ捨流の使い手で能は金春流の名取の飯山一之介は、伊賀女忍の八重と組んで新陰流使い手の御用人、山上三郎たちを相手に。

 濱松の田畑慎太郎と畳・表具師の鉄太郎は普請奉行の谷山十左衛門たちと闘うことになっていた。

 また、槍の名人でもある俳諧師の一心は、俳諧好きな豪商、安部四郎右衛門に近寄って、目付の山下右左と悪の権化の家老、堀田時衛門の動きを探り、新之亟たちに、弥吉を通して、その一部始終を知らせる役目を負った。

 一心は、豪商安部四郎右衛門の店に近い長屋に住み、飯山と八重は、そこから三丁ほど離れたところの毛利邸近くの長屋に住むことになった。

 恵子は、新之亟、清、弥吉、片野、彦太郎、田畑そして、鉄太郎たちと忌宮神社の近くの一軒家に住むことになった。


新之亟と入れ違いに、住吉神社にゆう達の護衛として、戸部順三衛門がやってきた。

「戸部様、よろしくお願いいたします」

 ゆうと清は深々と頭を下げた。

現在の下関一帯が、藩の政治の中心で、ゆう達の隠れ家である住吉神社はそこから一里ほど離れている。


ひと月が過ぎた。

一心は豪商、安部四郎右衛門(酒造で財をなし、そしてそのお金をもとに、家老の堀田たちに賄賂をばらまき、今では鉱山開発をも独占していた)に近づくために、旅の俳諧師として、噂を流していた。

 その噂を聞いた四郎右衛門は、一心を俳諧の師匠として、屋敷に呼んで、矢数俳諧の会を開くのでその指導を願いたいと声をかけた。

 一心は、四郎右衛門からの話を二つ返事で承知して、忌宮神社の近くの屋敷に仮住まいする新之亟にこのことを伝えた。

「一心殿、その矢数俳諧とはどのようなものかのう」

 一心の話を聞き終えた新之亟は、恥ずかしそうに聞いた。

「平安の頃から続く和歌は、多人数で上の句と下の句を順に連ねて行く連歌というものを 生み出しました。その連歌は室町時代では、その句ごとに俳言(俗語や漢語)を入れ、俳諧というようになりました。その後、大坂の西山宗因を中心とした談林流が生まれ主流となりました。そして、談林派が独吟で句数を争う競技的な俳諧即ち、矢数俳諧を興 行したのが始まりです。話が長くなりますが、俳諧でいくつかの句を連ねた中の最初の句を発句といいその発句を独立させたものが俳句です。その俳句で有名な芭蕉さんは、門人の曽良さんを伴って奥州に旅立ったようです」と一気に一心は言った。

「さすがだな。一心殿は俳諧にも詳しい」

 片野が感心して頷いた。

 一方、飯山一之介は能の好きな御用人、山上三郎に近づいて能の師匠になっていた。

 山上に十日に一度、屋敷で金春流を教えた。

「飯山殿、さすが京で学んだ方は素晴らしいものだ」

「いや、まだまだでございます」

「そうだな、能は奥が深いでのう」

「そう言えば、飯山殿は、いつまで長府にいらっしゃるのかな?」

「長府は素晴らしい所なので、当分こちらにお世話になろうかと思っております」

「では、いらっしゃる間、よろしくお願いいたす」

長府に入って、既に二か月過ぎ、十一月になっていた。

一心がとうとう、ゆうと進之助の父の山田勘兵衛を殺害した事実をつかんで、新之亟たちに知らせにやって来た。

「弥吉、今一心から聞いたこと、皆に知らせろ」

 新之亟の声は高ぶっていた。

「はい、矢吹さま」

いよいよ決戦の時がきたと、新之亟は身の引き締まる思いだった。

(皆、いきりまいているけど、大丈夫かしら)

 恵子は心配になった。

「新之亟さん。お願いだから、殺傷だけは避けてください」

「おけい、相手の出方次第だ。分かってくれ」


暮れ六ツ、勘定奉行の井出和之助が三人の供をつれて、毛利邸から出てきて、武家屋敷地に向かった。

提灯を待った下人を先頭に井出和之助たちが、神社前に来た時、提灯を掲げながら、片野鉄之助が飛び出した。

「井出和之助殿でござるか」

「なんだ、お前は。無礼者めが、名を名のれ」

 供の侍が、刀に手を掛けた。

「片野鉄之助と申す。家老山田勘兵衛を殺めたのはそちたちか」

「黙れ、こいつを斬れ」

供の侍が抜刀して、片野の頭から斬りつけてきた。

手ごたえありかと思った瞬間、片野鉄之助はその侍に体当たりをして、相手が後退してからおもむろに刀を抜いた。そして、刃を峰に返し、正上段に構えた。

飛ばされた侍は、立ち直って中段に構えなおすと、その瞬間、鉄之助の峰が侍のさ骨に当たった。

「グシャ」

「貴様、金が欲しいのか。いくら欲しいか言ってみろ」

 井出和之助は、震えながら刀に手を掛けた。

 抜刀する瞬間、鉄之助の長刀が井出の手首を打った。

井出は手首を押さえながら、しゃがみこんでしまった。

すでに、提灯持ちとお供の二人は逃げ去っていた。

隠れていた表具師の鉄太郎、彦太郎と弥吉、一心が出て来て、二人を縄掛けて無理矢理駕籠に押し込んだ。

「これでよし」

 片野鉄之助は満足げに駕籠の後について行った。


数日後、御用人の山上三郎の屋敷に飯山一之介が呼ばれていた。

くの一の八重は、女中として働いていた。

 能の稽古が終わり、飯山は夕餉を山上から誘われた。

「飯山殿は金春流をどちらで習ったのかな」

 盃を傾けながら山上が聞いた。

「はい、京で師事を受けました。しかし、山上様は筋がよいです」

「飯山殿は、世辞がうまい」

「お政治なんかではありません。本当のことです。山上様、どうぞ」

 飯山一之介は酒を山上の盃に注いだが、途中で出なくなった

「おい、酒が無いぞ。誰か」

 山上が怒鳴った。

しばらくして、女中が酒を運んできた。

「遅くなって申し訳ございません」

女中は飯山に目で合図をして、山上に酌をして下がった。

「飯山殿、もう勝手に手酌でやろう」

「承知しました」

「飯山殿、それがしは眠くなってきた」

 山上が手から盃を落とした。

「山上様、ごゆっくり眠りなさい」

しばらくすると、黒装束に身を固めた八重が、縄を持って部屋に入ってきて、飯山に渡した。そして、すぐに用心のために入り口に立った。

飯山は、山上を縛った。

「八重、塀まで運ぶぞ」

「承知しました」

塀に近づくと、後ろから声が聞こえた。

「出会え、出会え。曲者だ」

「八重、早く山上を弥吉たちに渡してくれ。後は俺が引き受けた。頼んだぞ」

「分かりました」

八重は塀の上に登り、外で待機していた弥吉に合図をした。

「ピー」

弥吉が、八重のそばに立った。

「山上を引き上げるぞ。よいしょ」

 飯山が塀を背にして、敵と向かい合いながら大声を出した。

「弥吉。山上を頼む」

「任せてください」

弥吉と八重は、山上を縛った綱を引っ張り上げて、塀の外にいた彦太郎のもとに降ろした。

八重と弥吉は、塀の外に飛び降りた。そして、弥吉と彦太郎は、置いていた駕籠に山上を乗せて、前は、弥吉で後ろは彦太郎が担いだ。

「彦、行くぞ」

 八重は後ろを注意しながら駕籠について行った。

「弥吉さん、ちょっと待って」

 八重が駕籠を止めた。

「どうした」

「追いかけられています」

「どうする?」

「あたしがここで迎い討ちますので、先に行ってください」

「分かった。彦、急ぐぞ」

 弥吉は後ろ髪を引かれる思いで走り出した。

「へい」

しばらくすると、飯山一之介が走ってきて、八重に気づいた。

「飯山様、ご無事で」

「八重、追手が来る。この場は逃げよう」

 飯山と八重は一目散に駆け出し、追ってから逃げ延びた。

一方、畳・表具師の鉄太郎と田畑慎太郎は、普請奉行の谷山十左衛門を屋敷の門からわずか離れた木陰で待ち続けた。

二つの提灯の灯りが見えてきた。

「田畑様、駕籠が出てきました。おそらくあの駕籠に谷山十左衛門が載っていると思われます」

「そうだな、まずは通り過ぎさせよう。おまえは前から行け。俺は後ろにまわる」

「承知しました」

提灯を持った先頭中間そして、駕籠が続き、その両側には、侍が三名固めており、その後ろから槍持、草履取そして挟箱持が通り過ぎた。

「あいや待ちなされ、そちらの駕籠の中にいるのはは谷山殿とお見受けした」

列が振り返り、侍たちは刀の柄に手が掛った。

「何者だ」

侍の一人が、落ち着いて言った。

「それがし、田畑慎太郎と申す。谷山殿、出てきなさい。そなたは、家老の山田殿を斬殺した罪として、処罰いたす」

「無礼者目、こ奴を斬れ」

谷山十左衛門が、駕籠から姿を現して叫んだ。

田畑慎太郎は、ゆっくり三人の侍を見ながら柄に手を掛け、三歩前に歩み、抜き打ちで侍の一人の足を峰で払った。

中間たちは危険を感じて、提灯を捨て逃げた。

前にいた鉄太郎は、もう一人の侍を後ろから首を絞め気絶させた。

田畑は、谷山に近づいた。

谷山は上段に構えながら、間合いを取りながら、じわじわと後ろに下がった。

残っていた侍ふたりが田畑の前に立ちはだかった。

田畑は、二間半ほどの間合いで足をとめた。

侍が斬りかかってきた。

田畑はそれを左によけ、侍の胴を打った。

「ギャー」

 残った侍がそれを見て走り去った。

風が吹いたその時、谷山が走りかかって来た。

 同時に、田畑も走り飛んで、二人は空中で交差した。

谷山ががっくりと倒れ込んだ。

一瞬早く、田畑が谷山の胴を峰で打っていた。

鉄太郎が気を失った谷山に縄を打ち、目隠して猿轡をかませ、新之亟のいる屋敷に運んだ。

「田畑様、鉄太郎さん、ご苦労様でした」

 弥吉が二人を迎えた。

「鉄太郎さん、代わろうか」

 弥吉は谷山を背負って座敷牢に運んだ。

 牢にはすでに、勘定奉行の井出和之助と御用人の山上三郎が入っていた。

 谷山十左衛門を牢に入れてから、田畑と鉄太郎そして弥吉が新之亟のいる部屋に入った。

「矢吹さん、谷山十左衛門を取り押さえ、今牢に入れてきました」

 田畑慎太郎は、江戸紫の覆面を外して言った。

「ご苦労であった」

 新之亟は、飲んでいる盃を田畑に差し出した。

「弥吉、井出、山上、谷山は、おとなしくしているか?」

「観念したらしく、今の所、三人ともおとなしくしています。八重に代え、彦太郎に見張らせています」

「そうか。鉄太郎、ゆっくり飲んでくれ」

 新之亟は、弥吉、鉄太郎と酒を注いだ。

「残るは家老の堀田時衛門、目付の山下右左そして、商人の安部四郎右衛門の三人か」

新之亟は、酒には酔えなかった。


一方、山田勘兵衛暗殺の首謀者の豪商の安部四郎右衛門と目付の山下右左が、家老の堀田時衛門の屋敷で談合していた。

「堀田様、この度は鉱山開発の権利をお与え下さり、ありがとう存じます。少ないですがこれをお受け取り下さい」

 四郎右衛門が、菓子箱を堀田の前に差し出した。

「いつも悪いのう」

「酒にしよう。酒だ、酒を持ってこい」

 堀田が手を打った。

 酒と肴が次々と運ばれてきた。

「遠慮なくやってくれ」

「ありがたく頂きます」

 山下右左と安部四郎右衛門は盃を手にした。

「そう言えば、この二三日、勘定奉行の井出和之助、御用人の山上三郎そして、普請奉行の谷山十左衛門が出仕していないと聞いているが、どうしたんだ。おまえたちも知っているはずだが?」

 堀田が、思い出したように言った。

「ご家老、どうも、我々に敵対する者たちの仕業で三人とも拉致されたのではないかと思われます。調べさせておりますので、しばしお待ち下さい」

 山上三郎が答え、頭を下げた。

「なにを悠長なことを言っているんだ。山下、町奉行と寺社奉行にも早く捕らえるようを命ぜよ」

 堀田は、体を揺すりながら言った。

「ご家老様、山下様。私に何かできることがあればなんなりとお言いつけ下さい」

 安部四郎右衛門が、心配そうに言った。

「安部屋、心配するな。必ずや、山下たちがひっ捕らえてくれようぞ」

 堀田は、赤ら顔で盃を飲みほした。


第四章 奮闘

翌朝、目付の山下右左が町奉行と寺社奉行に会って、行くへ知らずの井出和之助たちの探索そして、下手人を捕縛するようにとの家老堀田時衛門の命令を伝えた。

「ご家老が早く捕らえろと言われてますので、よろしくお願いいたします」

「承知いたした」

 寺社奉行の寺田倉之助は、力のない返事をした。

反堀田派の寺田倉之助は、すぐに御使番役の黒田忠衛門の部屋を訪れた。

「ご家老が、山下殿に反対派の探索を徹底するように命じた。私と町奉行にも同様の命令が下った」

「これはまずいことになった」

「ところで、黒田殿。我が藩が、山林境界争いで萩本藩と対立しているのを知っているか」

「ええ、知っていますが、なにか」

「どうも家老が、萩本藩に金で懐柔されているようだ」

「なんですって。そんな馬鹿なことが」

「まさかとは思ったのだが、どうも間違いないようだ。我が藩を売るようなことをして、私腹を肥やすとは、許せぬ」

「堀田さまは、殿の後継の件でも問題を起こしているのに、今度は、山林の境界争いで良からぬことをしているとは情けない」

この跡継ぎ問題では、堀田は前家老の山田勘兵衛と対立して、最後には堀田が無理やり意見を通したことは、藩では周知の事実であった。

黒田忠衛門は、仕事が手がつかなかった。

(早く、矢吹殿たちへ知らせないと大変なことになるぞ)

居ても立っても居られない状況だが、まだ帰るには早すぎるし、変な疑いを掛けられても元もこうもないと平常心を保つのに苦労をした。

黒田が、急いで屋敷に帰ったのは七ツ前であった。

妻の安江は、忠衛門の顔色を見て驚いた。

「あなた、今日は早いお帰りですね。何かありましたか?」

「ちょっと、急いでる。呼ぶまで、部屋に誰も入れるな」

 安江の手伝いで、着替えが終わるや否や黒田は一人書斎に入って、寺田倉之助から聞いた話を文にしたためた。

 気がせくせいか、文字が乱れた。なんとか書き終わると、用人の太助を呼んだ。

「太助です」

 戸襖越しに聞こえた。

「入れ」

 太助が部屋に入って、戸襖を閉めた。

 黒田は、至急この文を矢吹新之亟に届けるよう命じた。

「太助、くれぐれも注意して参れよ」

「承知いたしました」

太助は胴巻きにその文をしまいこみ、部屋を出て行った。

新之亟の屋敷には、住吉神社にいるゆうたちと戸部順三衛門の四人を除いた仲間が集まっていたところに、ちょうど黒田からの文が届いた。

 新之亟は、みなの前に文を広げゆっくり読んだ。

「やはり、敵は気づいたか。われわれの仕業と気づく前に、何とか決着をつけないとまずいぞ」

 新之亟は、相も変わらず盃を手にしていた。

「新之亟さん。大事な話の時は、お酒を飲むのはやめて下さい」

 恵子が顔をしかめた。

「おけい、そんな怖い顔をするな。わかった、わかった」

 新之亟は、しぶしぶと盃を置いた。

「相手も家老の堀田と目付の山下そして、安部屋だけになったが、これからはみな身辺警護が厳しくなるのは明らかだ。これからは、ここにいる人間を二組に分けて、それぞれ行動したらどうかな」

 片野鉄之助が提案した。

「それがいいな。では、片野、飯山、一心、彦太郎、八重の五人を片野組とし、残りの者を新之亟組としたらいかがであろうか」

 盃を伏せていた飯山一之介が言った。

「よかろう。ところで、安部屋に潜り込んだお清からの連絡はないのか、弥吉」

 心配そうに新之亟が、弥吉に向かって言った。

「まだ、何もございません」

「これからは、安部屋を我々の組で見張ろう」

 新之亟は盃に酒を注ぎながら言った。

「新之亟さん」

 恵子が大声で言ったので、新之亟は苦笑いをしながら盃を置いた。

「すまん」


数日後の夜。

安部屋では、菊という名で奉公している清が、とうとう安部屋の裏帳簿を見つけ、息を呑んで見ていた。、

「菊、お前ここで何をやってるんだね」

 いつの間にか、後ろに大番頭の平助が立っていた。

「いえ、何でもありません」

 清はすばやく、島田髷に挿した仕掛け簪を手に取り、振り向きざまに番頭の急所をはずした首の一点を刺した。

「うっ、だれか~」

 番頭は膝から体が崩れ落ちていった。

(早く逃げないと)

 庭に飛び出て、裏木戸から外に出ようとした時、清の体に鎖が巻きついた。

 清の身体が、一間ほど引き戻された。

(捕まった)

 心の中で叫んだ時、急に巻かれた鎖が緩んだ。

 全身の力を振り絞って、木戸に向かった。

後ろで音がした。

鎖鎌を持った侍が倒れた。

「女将!」と塀の上から声がした。

弥吉だ。

黒装束に身を固め、手に棒手裏剣を持った弥吉が塀の上から笛を吹いた。

「女将、早く逃げろ、外で矢吹さまが来るのを待て」

弥吉は、新手の追手にさらに手裏剣を投げつけた。

「曲者、出会え」と叫んだ侍も倒れた。

清が道に出ると、馬が走ってきた。

「お清、乗れ」

 江戸紫の頭巾をかぶった侍が、手を差し伸べ、清の手を持ち、体を引っ張りあげた。

「いくぞ。しっかり摑まっておれ」

「はい、新之亟様」

新之亟は、馬に鞭を入れた。

無事に、新之亟と清は屋敷に着いた。

弥吉もしばらくして無事に戻ってきた。

皆が、集まっている座敷に新之亟は清を抱きかかえるように入った。

「お清さん」

 恵子が、真っ先に清に近づき、脈を取り、頷いた。

「おけいさん。お清さんは、大丈夫か」

片野が心配そうに言った。

 新之亟は、清を横に寝かせた。

 恵子は、清の着物をはだけさせ、胸に耳を当てた。

「ただ気を失っているだけだわ。しばらくしたら、気が付きますよ」

 恵子が、そう言ってからすぐに、清が目を開いた。

「お清、大丈夫か」

 新之亟は、清の顔を覗き込んだ。

「はい、大丈夫です。弥吉さんに教えてもらった仕込み簪を使ってしまいました」

半べそをかいて、声が細った。

弥吉は、ゆうと進之助達の助太刀に全くの素人の清を連れて行くのには反対であったが、

新之亟がどうしても連れて行くと言い張ったので、その条件として護身術を教えることで、しぶしぶ賛成したのであった。

そんな清を心配して、弥吉は江戸を出発してから、暇さえ見つけて、清にいろいろな仕込み杖、仕込み煙管、そして仕込み簪の使い方を教えた。

「お清さん、ご苦労様でした」

 飯山一之介が、丁重に頭を下げた。

「女将が裏の大福帳を取ってきてくれたので、これを証拠に藩主の綱元様に堀田たちの悪行をお知らせせねば」と新之亟は皆に言った。

「どのようにしたら、綱元様にお目通りがかなうのだろうか?」

 思案気に片野鉄之助がつぶやいた。

「それは後で考えるとして、まずは、女将は早く住吉神社に隠れてもらおう。他に、敵に顔が割れている者はいないか?」と言って、飯山が皆の顔を見回した。

 しばらくの沈黙の後、

「他にはいないようだな」

 飯山が念を押した。

「先ほどの話の綱元様へのお目通りのこと、山村様に相談したら如何でしょうか」

 田畑慎太郎が恐る恐る言った。

「そうだな」

 新之亟は頷いた。

「堀田と山下も早くなんとかしないと」

「大福帳、山村殿に届けて、山村殿から綱元様へ渡しいただいたらどうだろう」

 片野が言った。

「よし、弥吉。わしが山村殿に文を書くので大福帳と一緒に山村殿へ届けてくれ」

新之亟は、筆と紙を引き寄せ書き始めた。

「承知いたしました、矢吹さま」

「それがしは、弥吉の護衛で参る」

 片野は、刀を取った。

「俺は、お清を住吉神社まで送り届けてくる。お清、行くぞ」

 新之亟も、刀を引き寄せた。

「分かった、弥吉、片野、矢吹。気をつけて行け。後は俺に任せろ」

 飯山が言って、恵子の顔を見た。

「飯山さんの指示に従います」

「これは、心強い」

 新之亟は、厩から馬を出し、清を乗せ暗闇に消えた。

 新之亟が、住吉神社に着いた頃、屋敷に残った飯山のもとに、鉄太郎が目付の山下右左が安部屋の屋敷に入ったと知らせに戻ってきた。

 飯山は、鉄太郎の話を聞いて迷った。

 しばらくして、

「しばらく見張ってくれ。田畑殿と八重殿も一緒に行ってもらえまいか」

「承知しました」

 三人は部屋をあわただしく出て行った。

「彦太郎殿、捕まえた連中の見張りを頼む」

「はい、飯山様」

 座敷には、飯山と一心そして恵子が残った。

「一心殿、安部屋の屋敷には用心棒は何人ぐらいいるのだろうか?」

「五人ぐらいだと思います」

「五人か、腕のたつ奴はいるのかな?」

「確か、ひとり一刀流の使い手がいると聞きました」

一刻半ほど経って、新之亟が戻ってきた。

「矢吹殿、ご苦労であった。ゆう殿たちはいかがお過ごしでしたか?」

「皆、暇を持て余していたよ。宮司が助っ人を出してもよいと言ってくれた」

「矢吹殿。安部屋の屋敷に目付の山下右左が訪ねているそうだ」

飯山が、鉄太郎、田畑そして、八重を見張りに付けたことを伝えた。

外は暗闇に包まれており、暮れ五ツの鐘が恵子の耳に伝わってきた。


安部屋の屋敷では、安部四郎右衛門、山下右左が座敷に会して、談合していた。

「山下様、当方の裏の大福帳が使用人に盗まれてしまいました。あれが、表に出ますと、

 ご家老様や山下様達にご迷惑がかかります。なんとか、早く取り戻さなければなりません。よろしくお願いいたします」

「安部屋、まずは、仔細を聞かせてもらおう」

四郎右衛門は、まず大福帳が女の使用人に盗まれ、逃げようとしたところ取り押さえたが、忍びの者に邪魔をされ取り逃がしたことや、その大福帳には今まで家老たちに献金したお金の詳細が事細やかに書かれていることを一気に話した。

「なに、そんな大事なものを盗まれたとは、早くご家老様に知らせねば」

「はい、よろしくお願いいたします」

「どちらにしても、もう夜は更けているので、明日の朝、それがしがご家老様に伝えることにしよう。安部屋、その下手人はどのような女か」

「はい、うちの番頭がよく知っていますので、いま、番頭を呼びます」

 四郎右衛門は、下女に番頭を呼んで来るように命じた。

 しばらくして、番頭が、ふらふらした足取りで、座敷に入ってきて、菊(名を変えて安部屋に奉公していた清)の話をした。

「山下様、どうも仕込み簪にしびれ薬が塗ってあったようで、敵はかなり手ごわいと思われます」

山下は、黙ったままであった。

「番頭さん、もう下がっていい」

番頭が出て行ったあと、四郎右衛門は山下に言った。

「いま、人を動員して、菊を探しております」

「安部屋、それがしの方も探そう。もう一度、菊と言う女の特徴を教えてくれ」

「はい、島田髷を結い、目は切れ目で鼻筋が通っていまして、口は大きからず小さからずの瓜実顔の美人で、身長も五尺ぐらいでしょうか。しゃべりは、江戸弁のようでした」

「分かった、では今日はこれで帰る」

「山下様、これ些少ですがお土産を。また、ご家老様にこちらのものをお渡ししていただけませんか」

「安部屋、いつもかたじけない」

 四郎右衛門が玄関まで送って行くと、既に山下の付き人の侍四人が待っていた。

 山下は侍たちに四方囲まれて、安部屋を後にした。


翌朝、山下右左は、家老の堀田の屋敷を訪ねた。

「堀田様、安部屋からこれをとのことです」

 山下は、菓子折を差し出した。

 そして、昨日、安部屋から裏の大福帳が盗まれた一件について話した。

 話が一段落した。、

「そやつたちを早くひっ捕らえんと、こちらが危ないぞ」

 堀田の身体が震えていた。

「安部屋は用心棒をかりだして、探しているようですが、まだ見つかってはいないとのことです」

「まだ、そんなには遠くに行っていないはずだ、早く探し出せ」

「承知しました」

「山下、本藩から山林境界の件で、早く殿を説得しろと催促が来て、困ってる」

「そうですか、殿も頑固でいらっしゃるから、困ります」

「元清様をなんとか、四代目にしないと埒が明かない」


堀田は、娘の千代を藩主綱元の側室にさせていた。その千代が、八年前に男子を産んだ。

 綱元の正妻は二年前に、やっと男子を産むことができた。

 それから、後継者争いが始まり、堀田は暗躍し、権力を利用して金を集め、そして、そ れをもとに、味方につけるため金をばらまいた。

 そのような時に、萩本藩の人間が堀田に近づいた。萩本藩は、後継者争いで、堀田に加担することを条件に、両藩で十年間もめている山林境界を決着するよう求めてきた。

ゆうの父山田勘兵衛は、長府藩のために堀田のたくらみを阻止しようとしたが、堀田に下城の途中、暗殺された。

まだ、ゆう達はこの話までは知らずにいた。


「ご家老、まさか敵は本藩の者たちではありませんか?」

「山下、それは絶対にあり得ん」

「では、ご家老、一体だれが井出たちを」

「もう、井出たちはこの世にはいないかもしれん」

「まさか」

「なにはともあれ、山下、全力を挙げて敵を探し出し、一刻も早く敵を始末しろ」

「承知いたしました」

 目付の山下右左は頭を下げ、長刀を手にとり座敷を出て行った。

 

新之亟から文を受け取った次席家老の山村英之進は、すぐに用人に新之亟の屋敷に行って、至急、新之亟を呼んでくるように命じた。

五ツ刻、用人は供をつれて山村の屋敷を出て、半刻ほどで新之亟の家に入った。

用人は、主人の山村の意向を伝えた。

「今日は、旦那様は明け番なので、いつでも屋敷でお待ちしているとのことです」

「分かった。すぐに参ろう」

「矢吹様、一緒に行くと目立ちますので、矢吹様は、駕籠で行かれたらいかがでしょうか」

「おぬしが出てから、四半時後に発つ」


山村の屋敷で、新之亟は、山村英之進の話を聞いた。

「山村殿、我々は、これからいかがしたらよいだろうか?」

「それがしは、殿にすぐさま大福帳を届けます。矢吹殿は、目付の山下右左を捕らえてもらえませんか。奴がいる限り、我々の身の安全は守られず、堀田の悪だくみを暴くことが難しいのです。奴がいなくなれば、家老の堀田は右腕を失ったようなもので、身動きが取れなくなり、物事がうまく進むでしょう」

「分かった」

「矢吹殿、山下は一刀流の使い手なので、くれぐれも気をつけて下さい」

 半刻ほどで、新之亟は山村の屋敷を辞した。

新之亟が戻ると、恵子たちが心配顔で迎えた。

「新之亟さん、どうだった」

「目付の山下右左をなんとか捕らえてもらえないかと言われたよ。山下は、かなり腕がたつそうだ」

「承知したんですか?」

 恵子が確認した。

「もちろんだ」

 新之亟は、用意された酒を飲まずに、山村との話を一方的に四半時ほどかけて皆に話した。

「矢吹、山下右左という目付を早く始末しよう」

飯山が、自分を鼓舞するように言った。

「飯山の言うとおりだ、一心、弥吉は山下の屋敷を、鉄太郎と八重は家老の屋敷の見張りを明日から頼む。屋敷を出たときを狙うので、そのとき至急連絡してくれ」

「承知いたしました」

 四人が、同時に言った。

「矢吹様、私も山下の屋敷を見張りましょう」

田畑慎太郎が、柄をつかんだ。

「それは心強い、よろしく頼む」

「矢吹、山下は手強い相手になりそうだそうだ。山下をやるときは俺も行く」

 片野鉄之助が言った。

 鉄之助は、直心影流免許皆伝の持ち主、田畑は不動剣で有名な力信流の使い手である。

「皆さん、ちょっと待ってください」

 恵子が慌てて立った。

「殺傷はいけません。山下右左を殺害してはいけません」

「そうは言っても、相手は強い。生温い対応では、こちらが殺されてしまう」

 新之亟が反論した。

「私が、山下右左を捕らえて見せます」

「おけい、どうやって捕らえるんだ?」

 恵子は、手に棒を持って示した。

「仇討ちだが、藩にも幕府にも届け出ていない。敢えて、ご政道に背いてまでは危険だ。

 わしも、おけいさんの意見に賛成だ。ここで、堀田を殺めても若いゆう殿たちの将来はない。長府藩主綱元様に家老の堀田を裁いてもらおう」

 飯山一之介が、恵子の意見に賛成した。

「おけいさんのいうことは分かった。ところで、矢吹、ゆう殿たちはこれからどうする?」

片野が、思案しながらつぶやいた。


数日後。

空は多少の茜色を残しながら、街路樹を闇が取り巻いてきた。

弥吉が目付の山下が屋敷を出て、安部屋に向かっていることを伝えに新之亟の所に戻ってきた。

「おけい、片野、行くぞ」

「はい」

恵子はたすきをかけ、棒を手に取る。

新之亟と片野は、長刀を腰に差した。

半刻程で山下の屋敷を見張っていた田畑と一心に会った。

「田畑殿、一心。ご苦労」

「矢吹様、片野様、おけいさん、ご苦労様です」

田畑が答えた。

「山下は、四人の供を連れて、安部屋に向かっています」

「よし、われらも後を追おう」

南筋の夜道を新之亟たちは、提灯を持った弥吉の後に続いた。

半刻ほどで安部四郎衛門の屋敷の前に着いた。

新之亟は、皆にそれぞれの持ち場を指示し、片野は山下右左が屋敷を出てきてからの策を説明してから言った。

「山下を殺してはならん。捕らえるのだ」

田畑と一心は、わき道に潜んだ。

恵子は、新之亟、片野そして、弥吉と一緒に安部屋の前にある料理屋の二階の部屋を取った。

皆、窓から安部の屋敷の門を見ていた。

「新之亟さん、山下は安部屋と何の話をしているんでしょうか?」

恵子が、小声で聞いた。

「そうだな。たぶん、俺たちの事じゃないか」と言いながら、新之亟が障子を一尺ほど開けると、身を潜めている田畑がこちらを向いて合図を送ってきた。

 一刻ほど過ぎた。

「おい、駕籠が門の前に着いたぞ。そろそろお帰りか」

 新之亟は、長刀を手にした。

 屋敷の門が開き、山下右左たちが安部四郎衛門と番頭に見送られて出てきて、山下は用意された駕籠に乗り込んだ。

 それをお供の四人の侍が取り巻き、山下の屋敷に向かって動き始めた。

 田畑は、新之亟のいる二階を見た。

新之亟は手を上げて‘承知’の合図を送った。

「おけい、片野、弥吉、行くぞ」

 新之亟たちは、料理屋を出て、山下右左の後をつけ始めた。新之亟は、駕籠から目を離さずに、また片野鉄之助は取り巻きの一人、六尺もあろうかという大男の挙動に注意しながら機会をうかがった。

田畑、一心そして弥吉は、他の三人の侍に的を絞った。

恵子は、駕籠の中の山下右左をただ捕らえることだけを考えていた。

山下たちが、道を左に曲がった。

「おけい、気をつけろよ」

間違いなく山下の屋敷に向かっていた。

新之亟たちは武家屋敷の区画に入る前に、山下を捕らえる予定だった。

この辺りの地形は、以前から弥吉が十分調べて、皆に伝えていたので、恵子と新之亟は、焦らず左に曲がった。

「片野、行くぞ」

 小声で新之亟が促した。

 ふたりは顔を隠すために、覆面をした。そして、駕籠の前に出るために、脇道に入って行った。

恵子、田畑、一心そして、弥吉は今まで通り、後ろからつけて行った。


「やあっ!」

江戸紫の覆面をした新之亟と片野鉄之助が、駕籠の前に躍り出た。

「何者だ」

「曲者」

駕籠を警護していた四人が、すぐに抜刀した。

「駕籠に乗っている山下右左殿に用がある、手出しをせねば皆助けてやる」

「何を、えらそうに!」

「人が親切に言ってやっているのに」

「ギャー」

弥吉が、右手にいる侍の首に手裏剣を命中させた。

「今だ!」

一心と田畑は走って、一心は左の侍の左腿に鑓を刺し、田畑は後ろの侍が振り向くところを峰で肩を打った。

 悲鳴のような叫びが、三つ続いた。

「何事だ」

外の異常に気づいた山下右左は、刀を抱えるようにして駕籠からでた。

六尺男は、新之亟と片野から目をそらすことはなかった。が、山下と六尺男は五人に遠巻きに取り囲まれていた。

片野鉄之助は直心影流の‘右転左転’の構えを取って、六尺男と二間半ほど間合いを置いて対峙した。

こうもりの羽ばたきの音がした瞬間、六尺男が上段に振りかぶり、片野に向かって走った。

 片野はすばやく、下段から中段にするや否や左に剣を引き、一間ほど近づいたときに身を沈めた状態で六尺男の胴を打っていた。

 六尺男は膝から崩れ、道に倒れる音が闇に響いた。

 恵子は、棒を中段の構えで山下右左に対峙していた。

 山下は、刀に手をかけていない。

「小癪な小娘、逃げるのなら今のうちだ。俺が抜刀したら命がないものと思え」

 恵子は、棒を八の字の形になるように回し始めた。

「そんなもので俺に勝てると思っているのか」

 かすかに笑った山下が刀を抜いて、下段の構えを取った。

「どう攻めてくるのかしら」

 恵子は、それにかまわずまわしながら山下に一歩ずつ近づきながら様子を見た。

 山下の顔に玉の汗が噴き出てきた。

「なんだ、こいつは何者だ。こんな相手は初めてだ」

 山下は、上段に構えを持っていくや恵子の頭へと刃先を打ち下ろした。

 棒が刃先を止めた。

「やあ」

 恵子は棒を左へ振った。

 山下の身体が右へふらついたがすぐに立て直して、今度は中段に構えた。

「なかなかやるな」

 山下が、恵子との間合いを詰めてきた。

 恵子は再び棒をまわした。

(山下は私の懐に入ろうとしているんだわ)

 恵子は棒先を山下の腹に向けて突進した。

 前に歩を進めていた山下は不意を突かれて、恵子の突進の早さに呆然としたがさすがの剣術士、中段の構えからやや上段に構えなおすや否や、山下の剣は恵子の棒を叩き落とした。

「まずい」

 恵子はすぐに後ろに退いたが、山下は、中段の構えで稽古を追い詰めた。

「ぎゃー」

 山下の手首に手裏剣が刺さり、刀が手から落ちた。

 恵子は、その瞬間を見逃すことなく再び突進して山下の胸倉を掴み背負って投げ飛ばした。

「ドスン」

 山下が背中から地上に落ちて、気を失った。

「おけい、よくやった」

 すぐに、新之亟が恵子の所にやって来て、肩を叩い手喜んだ。

 恵子の額から大粒の汗が、流れていた。

一心と弥吉によって、山下と四人の侍は猿轡をかませられ、後ろ手にしばられた。

「一心、弥吉、後を頼む」と新之亟は言った。

山下は駕籠に乗せられ、一心と弥吉が担いで屋敷に運んで行った。

新之亟、片野そして田畑は、供の四人の侍を堀田の屋敷の門前に坐らせた。

「足を縛ろう」

 新之亟が言うと、片野と田畑は手際よく四人を縛った。

「きっと、明日の朝には大騒ぎになっているだろう」

 片野鉄之助が笑みを浮かべながら言った。

「これでよし、帰るぞ」

 

翌朝、堀田の屋敷の門前に縛られた四人の侍たちは、門番によって見つけられた。

屋敷の者たちが慌てて出てきて、四人の猿轡を外し、縄をほどいた。

「そちたちは、お目付役の山下様の供人ではないか、一体どうしたんだ。ともかく、中に入りなさい」

座敷に連れて行った。

供の一人が、昨日の夜の話をしたところ、用人は堀田に連絡しに部屋を出た。

しばらくして、堀田が部屋に入ってきた。

「そちらは、山下の供の者だな。話は聞いた。下手人は誰だか分かるか」

「ご家老様、相手は頭巾を被っていたものでよく分かりませんでした。ただ、剣や棒のかなりの使い手で、手強い相手でした」

「主人を守れないとは情けない。切腹ものじゃ」

「誠に申し訳ございません」

四人は、頭を畳に摺りつけた。

「すぐに山下を見つけ出せ。一度だけ機会を与える。分かったな」

堀田は、言い終わるや否や部屋を出て行った。


その頃、次席家老の山村英之進と後藤悠馬は藩主の毛利綱元にお目見えして、清が取って来た安部屋の裏大福帳を開いて安部屋の収賄の詳細を、山村が説明していた。

綱元は黙って聞いていた。

元家老の山田勘兵衛の暗殺の件に至っても綱元は口を挟まない。

山村はさらに続けた。

「殿、まだあります。本藩との森林の敷地境界のことです。堀田様が本藩にこちらの情報を流して、本藩が有利になるように堀田様が画策しています」

「そんなバカなことを、堀田がやるわけはない。何かの間違いじゃ。もしそれが本当であっても、わしは絶対に譲らんぞ。そちたちも当方の敷地には銀が埋蔵されていることを知っているだろう。この銀で藩の建て直しをするのだ」

「その通りでございます。万が一堀田さまがその件で殿に話をされても、決して、承知してはなりませぬ。殿、他にもあります。お世継ぎの件でも、千代様のご長男を堀田様が殿のお世継ぎとするように萩本藩とともに暗躍しております。もし、千代様のご長男が後を継ぎましたらこの長府藩は、萩本藩に乗っ取られてしまいます」

綱元は、目をつぶってしきりに考えていた。しばらくして、

「山村、後藤、予はどうしたらよいと思うか」

「このことが幕府に知られましたら、長府藩はお取り潰しになります。内密にご家老たちを処分されるのが良いかと思います」

 山村が答えた。

「家老たちとは、堀田の他に罰しなければならない者がいるのか?家老の堀田以外は誰だ」

「目付の山下右左、普請奉行の谷山十左衛門、御用人の山上三郎そして、安部屋の安部四右衛門の四人です」

山村は、四人の名を上げてから、元家老の山田勘兵衛の子、ゆうと進之助そして、助太刀の新之亟たちの江戸からここまでの話を綱元にした。

「勘兵衛の娘と息子は苦労したのう。その矢吹新之亟とやらは、信頼できる輩か?」

山村が胸を張って、矢吹は信じることのできる人間であると伝えた。

「分かった。矢吹殿に寺社奉行の寺田倉之助に山下たちを引き取りに行かせると、伝えてくれ」

「山田勘兵衛の子のゆう殿と進之助殿はいかがいたしましょうか?」

「おまえたちに任せる。良いようにしろ」

山村と後藤は、綱元の部屋を後にして、二人は、下男がひいてきた馬に乗り、新之亟の家に行き、そして、藩主の毛利綱元との話を一部始終伝えた。

「矢吹殿、と言うわけで、明日寺社奉行の寺田が山下たちを引き取りに来ますので、お引き渡し下さい」

山村は言った。

「山村殿、ゆう殿たちはいかがいたそう」

「それがしと後藤が住吉に迎えに参ります」

「山下や堀田は、どうなるのでしょうか」

 恵子が口をはさんだ。

「家老や山下はおそらく切腹で、お家お取り潰しでしょう。安部屋は遠島五年ぐらいだと思います」


 翌日。

 家老の堀田時衛門は藩を揺るがした罪で、次席家老山村英之進の手のものによって捕らえられ、座敷牢に幽閉された。

 その知らせを聞いた新之亟は、皆にすぐ報告した。

 ゆうと新之助は嗚咽が止まらずに話を聞いた。

「おゆうさん、新之助殿、よかったな。これであなた方の父上も浮かばれることだろう」

 恵子の目からも涙が流れた。

「新之亟さま、本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」

 気を取り直したゆうが新之亟に向かい姿勢を改めなおして、深々と頭を下げた。

「また、皆様におかれましても、今までのご親切感謝しています。本当にありがとうございました」

 恵子たちにも礼を述べた。

 

数日後。

矢吹、恵子たちは、藩主の綱元に呼ばれた。

「皆の者、この度は、我が藩のために尽くしてくれて感謝している。今日は、ゆっくりと好きなだけ食べたり飲んだりしてくれ」

上座から綱元が降りて、新之亟たちに酌をしてまわった。

「おけい殿。この度、女の身でありながら、あの剣客の目付の山下を打ち倒すとは大したものだ。一度お 手合わせを願いたいが、どうであろう」

 綱元が恵子に酌をしながら言った。

(セクハラじゃない。この人も女を馬鹿にしている)

 たまに一課の連中が恵子にいうようなことこの時代でも言われたことに腹が立った。

(こらしめてやるか)

 近くでその話を耳にした新之亟が、恵子のそばに近づいて、

「お断りする理由はあるまい、お受けしたらどうだ」

「殿様、お受けします」

 恵子は、ぎこちない言葉使いになっていた。

「では明日の午後八つ藩邸の庭で行おう」

四半刻が、過ぎた。

皆酔いが回ってきたせいか、場が崩れた。

綱元はひと廻りして、新之亟の前に座った。

「矢吹殿、この度は山田ゆうと進之助の面倒を見ていただきありがとう」

「いや、大したことはしておりません」

「山村からもいろいろ聞いている」

「矢吹殿、もう少しの間この地にとどまって、、藩の事情が良くなるまでお手伝いお願いできないだろうか?」

「綱元様、少し、考えさせてください」

「矢吹殿の連れのおけい殿たちも誘って良いかな?」

「それは願ってもないことです。彼らはいろいろ苦労してそれなりの物を持っていますので、殿様のお役に立つと思います。ただおけいは、この時代の者ではないので、なんというか本人に聞いてみなければ・・」

「この時代のものではないと言うと、なんだ」

 新之亟は、恵子について説明したが、綱元にはよく理解できなかったようだ。

 新之亟も、実は本当に理解できてはいなかったので、うまく説明できなかった。

「矢吹殿、分かった、私から皆に聞いてみよう」

「有難う存じます」

ほんのり顔を赤くそめた清が、新之亟の前に座り、盃に酒を注いだ。

「何とか終わったな」 

 新之亟は、あけた盃を清に渡した。

「女将、殿様から、ここに残ってはどうかと言われたのだが。女将は、どう思う?」

「矢吹様のお好きなようにされたらいかがですか」

「女将は、どうする?」

「私は、片野様と一緒にここに残ります」

 申し訳なさそうに清が言った。

「そうだったのか」

新之亟は、驚きを隠せなかった。

「新之亟さま、この度は大変お世話になり、ありがとうございました」

ゆうが来て、新之亟の前に三つ指をついて礼を述べた。

「ゆう殿、よかったな。これで父上も成仏できるだろう」

新之亟はゆうに盃を渡し、酒を注いだ。

恵子、戸部、片野、飯山そして、弥吉が次々と新之亟たちの周りに集まってきた。

「矢吹、綱元様から、長府に残らないかとお誘いを受けたが、おまえはどうするんだ?」

 戸部順三衛門は、嬉しそうに言った。

「片野、飯山、一心、鉄太郎、彦太郎と八重は長府藩にお仕えすることに決めたようだ」

「それは、良かった。戸部、お前はどうする?」

「俺も残る」

「本当か?」

「進之助殿の後見人にと言われたのでな。断れなかった」

戸部は、ゆうの方を向いた。

皆、戸部とゆうの関係をすでに気づいていたので驚かなかった。

「それはよい。ゆう殿を大事にしろよ。祝言は江戸でもやれよ」

新之亟は、嬉しかった。

「矢吹、分かった。来年行くからな。お前は、帰るのか?」

新之亟は、黙った。

いつの間にかそばに来ていた恵子が、新之亟の顔を見つめた。

綱元が来た。

「矢吹殿、ご返事はいつ頃もらえるのかな」

「ありがたいお話ですが、お断りします。申しわけありません」

「そうか、分かった」

 綱元はがっかりした様子を見せた。

 結局、恵子も綱元の申し出を断った。


 翌日。

 藩邸の庭では、新之亟たちや藩の重臣たちが見守る中、木刀を持った綱元と棒を持った恵子が対峙した。

「両者ともけがをせぬようお願いします。私がそれまでと声ををかけましたら、直ちに試合をやめて下さい。では、始め」

 審判の後藤悠馬が手を挙げた。 

「遠慮はいらぬ、さあかかってきなさい」

 綱元が中段の構えを取った。

「はい」

 恵子は右手で棒をまわしながら、綱元が動くのを待ったが、微動だにしない。

「どうした。かかってこい」

 恵子が動いた。

 綱元の胴を狙ったが、辛うじてかわされた。

(なかなかだわ)

「おけい殿、やるな」

 綱元は上段に構えを持って行った。

 恵子は、綱元ののど元に棒先を構え、間を詰めて行った。

 一間ほどに詰まった時、恵子は棒先を突き出した。

 綱元がそれを上段から斜めに振り下げ、棒を叩き落した時、恵子は綱元にとびかかった。

 一瞬のスキを突かれた綱元は、恵子に襟を掴まれた。

 恵子は、力いっぱい綱元を引き寄せ、自分の脚の外側で綱元の脚の外側を刈って綱元を投げた。

「ドスン」

「それまで」

 後藤悠馬の甲高い声がした。

 悲鳴のようなざわめきが起こった。

 誰もが綱元が勝つと信じていたのだ。 

 綱元は気を失ってしまった。

「殿、大丈夫ですか?」

 驚いた重臣たちが綱元を取り囲んだ。

「どいてください」

 恵子は重臣たちを押し分けて、綱元の上半身を起こして活を入れた。

「まいった。おけい殿は、本当に強い」

 綱元は負けても晴れやかだった。

 新之亟が恵子の所にやって来た。

「おけい、負けてやらなきゃ、殿様の面子が丸つぶれだ」

「新之亟さんらしくない。忖度なんてしては殿様のためにはならないわ」

「忖度か」

 新之亟は苦笑いをした。


翌年。

家老堀田の失脚で、本藩の萩藩との境界争いは再燃したが、家老に昇格した山村英之進が、江戸に帰らず残った戸部順三衛門たちを登用することによって、境界争いは落ち着く方向に進みだしたと新之亟に連絡が入った。


恵子と新之亟が、江戸に帰る日が来た。

朝から快晴であった。

綱元の好意により、恵子と新之亟は、長府藩の海産物を運ぶ千石船に乗せてもらうことになっていた。

ゆう、進之助そして、居残る者たちがの見送りに来た。

恵子と新之亟が、船に乗った。

 甲板に出て、新之亟と恵子が、見送る人たちに手を振った。

 潮風が気持ち良く、二人を通り過ぎて行く。恵子に、この先どうなるのか不安が止めどもなく襲ってきた。

 新之亟は、ただ黙って恵子を見つめていた。

 千石船は、江戸に向かって、海面をすべりだした。

「新之亟さんは、これでよかったの?」

「俺は江戸が好きだから江戸に帰るだけだ。おけいはどうだ?」

「私は、令和の時代に戻りたいの。だから江戸でその機会を待ちます」

「あてはあるのか?」

「そんなの無いわよ」

「そうか、その機会とかいうやつが来るまでどうするんだ?」

 恵子は答えに詰まった。


 一方、令和の日本では、火星行ツアーの宇宙船から交信が途絶えて一年ほど過ぎていた。

交信が途絶えてすぐに、宇宙防衛省からツアー客の探索に数台のロケットが火星への航路を目指して発進した。

その結果、七十二時間以内に、山田恵子を除いたツアー客が、救助された。

 行方不明の山田恵子を捜し見つけるために、宇宙防衛省内に有識者を含めた捜索会議が開かれており、今日は、第五回目の会議だった。

 委員長のTR大学宇宙工学専門の浅野教授が、席に着いて開催の挨拶を終えて、議題に入った。

「前回の議事録の確認を行いますので、島田担当官お願いします」

浅野が、島田を促した。

島田が読み終えると、浅野が、議事録に加筆修正等の有無を確認した。

問題ということで、承認され次の議題に入った。

「今までの調査や議論により、行方不明の山田恵子さんは、何らかの状況によりブラックホールに入ったと考えられます。よって、至急、宇宙防衛省は、ブラックホールへ突入して彼女を救出するよう手はずをお願いしたい」

 委員のS大学教授が口火を切った。

「委員長はじめ委員の方々におきましては、この一年、調査やご議論をいただきありがとうございました。今いただいたご提案については、早速省内に持ち帰り、至急実行に移るよう計画いたします」

 審議官の松元が、それに答えた。

「よろしくお願いします。では、これで委員会を閉会します。皆さま、ありがとうございました」


 一か月後。

 宇宙防衛省は、防衛部巡視課の宮越、今田そして、警視庁の刑事部の立山、早川を乗せた高速宇宙船ハヤテをブラックホールに向かって打ち上げた。

「あれがブラックホールだ」

 宮越が、画面を見て叫んだ。

「本部、こちらハヤテ、これからブラックホールに突入します」

 今田が、マイクに向かって言った。

 気を失った四人が、意識を取り戻した。

「なんとか、無事着陸したようだな」

 宮越は、安堵した。

「ここは一体どこなんですか」

 立山が聞いた。

「どうも江戸時代にやってきたようです」

 運転席にいた今田が答えた。

「なんですって!」

 早川が、声を上げた。

「ここは、どこでしょうか?」

 今度は、立山が今田に聞いた。

「おそらく、日本橋だと思います。山田恵子さんもこの辺りにいるに違いありませんよ」

「そうだといいんだが」

「とにかく、早く一目のつかないところに移動しよう」

 宮越が今田に言った。

 宇宙船を操縦して、近くの林の中に隠した。

「今田君、スマホのアンテナを立てておいてくれないか」

 宮越が、今田に頼んだ。

 そして、早川が、早速山田恵子の番号に通信した。

「呼び出し音は、聞こえますが、彼女は出てきません」

「そうか、わかった。時々通信してくれないか」

 四人は、日本橋の中心部へと歩いた。

 繁華街に来る前は、通行人が四人を物珍しそうにじろじろ見ていたが、繁華街に入ると人込みに埋もれてしまい、すれ違う人間は興味を示さなかった。

「皆さん、どうしますか。この町の人のような着物に着替えるといっても、それを買うお金がありません」

 宮越が、三人に向かって言った。

「コインがありますから、売れるかどうかわかりませんが、何処か交渉してみましょう」

 立山が財布を覗いてから言った。

「着物どころか、ここで食べたり飲んだりしなきゃならないんだ。少しでも、使えるお金に替えなければならないな」

「飲食物は、宇宙船に一か月分ほどありますので、当面は大丈夫です」

 今田が言った。

「着物に変えないほうがいいんじゃないですか。山田恵子さんに気づきやすいのは、この恰好だと思います」

 早川が言った。

「そうですね。当面お金はかかりそうもありませんが、万が一のために、コインを売りましょう」

 早川は、皆が出したコインを売りに行って来て、一両ほどに替えて戻ってきた。

「早川さん、一両に代えてくるなんて、さすがですね」

 今田が驚いていた。

「では、これから宮越さんと早川、今田さんと私の二班に分かれて、山田恵子さんを捜しましょう」

 立山が言った。

 ハンディタイプの顔認証カメラを一人ずつ持って、繁華街に出た。


 一方、長府から戻った恵子は、矢吹新之亟の実家に身を寄せていた。

「おけい、これからどうするんだ?」

「どうしたらいいのか分からないわ」

「父上もここでゆっくりしたらいいと言ってくれているから、その間考えればいい。俺も考えるよ。気晴らしに、芝居でも見に行くか?」

 恵子は、新之亟に連れられて、午後の町に出た。

「相変らず、人が多いですね」

「江戸は、平和だな」

 雑踏の中を通り過ぎて、芝居小屋に入ろうとした時、スマホが鳴ったが、騒音にかき消され、恵子の耳には届かなかった。

 芝居が終わり、ふたりは小屋から出た。

「おけい、どうだった?」

 新之亟が、恐るおそる聞いた。

「結構面白かったわ。新之亟さん、ありがとう」

「軽く飯でも食っていくか」

「ええ」

 近くの飯屋に入って、酒樽に腰をおろすと、女が注文を取りに来た。

「酒を二本と田楽豆腐を四本、たまごふあふわを二人前。おけい、他に食べたいものはないか」

「お煮しめとあとためしに林巻大根をいただこうかしら」

「おけいは、だいぶこの時代に慣れてきたようだな」

 女が注文を確認して、恵子たちから離れて行った。

 恵子は、おなかがすいていたので、飲むより食べるほうに勤めていた。

 新之亟は、田楽豆腐を食べながら、もっぱら飲むほうに専念していた。

「位置情報からすると、この辺りなんだが」と言いながら、この時代にそぐわない服を着た男三人が引き戸を開けて入ってきて、店の奥に席を取った。

「まずは、腹ごしらえといきますか」若いほうが、言った。

「そうですね。今田さんは、酒はいけますか」

「たしなむ程度です」

 ふたりは、地球から山田恵子を探しに来た警視庁刑事部捜査一課の立山、早川と宇宙防衛省防衛部の今田だった。

 店員の女が恐るおそるやって来て、早川から注文を聞いて立ち去ってから、立山は、顔認証システムカメラを店員や客に気づかれないように、女の客たちに素早くあて始めた。

’ピィー’と反応した。

「早川さん、あの女性は山田恵子さんだ、恰好は違うけど間違いなく捜査一課の山田恵子さんだ。私、彼女の所に行ってきます」

 恵子の前に、立山が立った。

「失礼ですが、山田恵子さんですね」

 恵子は、ここで本名を呼ばれたことに驚いた。

「はい。あれ、立山さんじゃないですか」

「やっと見つけました」

 恵子は、顔中涙だらけになっていた。

「ありがとうございます」

「一課の連中は皆心配してます」

 新之亟は、キョトンとした目で立山を眺めていた。

 立山は、早川たちのほうに向かって合図を送った。

「山田さん、こちらのお侍さんはどなたですか?」

「矢吹新之亟さんというお武家さんです」

「矢吹新之亟と申す」

「私は山田さんと同じ職場の立山と言います。令和の時代の地球から山田恵子さんを探しにきました。おかげさまでやっと捜すことができました。いろいろ山田さんがお世話になったようでありがとうございました」

 早川と今田がやって来て、新之亟に挨拶した。

「おけいの知り合いですか。おけい、よかったな」

 新之亟は何とも言えない心境だった。

「新之亟さん、ここじゃなんですから座敷に上がってゆっくり飲みませんか?お話もいろいろお聞きしたいので、どうでしょう」

 立山が誘った。

「俺はいいが」

 立山が店員を呼んで、座敷の部屋を頼んだ。

 新之亟は恵子のことをいろいろ立山たちに聞いた。

「そうか、令和の時代でも恵子みたいな女は珍しいほうなのか」

 新之亟は勝手に納得した。

 夜も更けてきた。

「そろそろ、俺は帰るが皆はどうする。おけいも泊まっているから、良かったら俺の家に泊まってたらどうだ?」

 立山たちは、新之亟の言葉に甘えることにした。

「お武家の屋敷はこんなにも立派だとはびっくりした」

 立山たちは初めて見る武家屋敷に感嘆した。

「俺のうちは御家人だからこんなもんだが、旗本や大名はもっとすごいぞ」

「でも、一般の町人は狭い長屋住まいですからそれに比べれば月と鼈だわ」

 恵子が立山たちに言った。

「なるほど、そうですか」

 今田が納得した。

 屋敷に入ると立山たちは物珍しさに目を奪われた。

「このような間取りはどこかで見たことがあるが、人が住んでいたのは見たことがない」

 早川が言ったのを恵子たちは大笑いした。

 客間に案内され、しばらく新之亟が着替えてくるのを待っている間、恵子が話始めた。

「新之亟さんの父上は、矢吹忠世さんで与力で家禄は二百石です。忠世さんの仕事は、町奉行の部下として、町奉行所の人事や財政を司る年番という職務で、また、町廻りや牢屋廻りする同心の上司でもあるそうです。奥様は、きぬさん、女中はつたさんです。そうそう、新之亟さんのお兄さんは数之助さん、私はまだお会いしたことはありません」

「町奉行に勤めているとは我々の大先輩になるんだな」

 立山が自分で言って頷いた。

「立山さんたちが来なかったら、私は町奉行所に勤めたいと思っていたんですよ。でもこの時代は無理だと新之亟三に言われました」

「やはりこの時代は封建制度が厳しいのかな」

「ここも男中心の世界ですわ」

「令和もあまり江戸から進歩していないっていうことか」

 今田が口をはさんだ。

「これからさらに日本は人口減少によって働き手がすくなくなるから、どんどん女性を登用しなければならないのに江戸時代より多少進化しているようではお先が暗いな」

 早川が寂しげに言った。

「お待たせしました」

 きぬとつたが、酒と酒の肴を運んできた。

 あらためて、きぬが丁重な挨拶をした。

 すぐに、父親の忠世、数之助そして、新之亟が入ってきて席に着いた。

「私は、新之亟の父親の忠世と申します。この度はおけいさんを探しに遠方より来られたとのこと、ご苦労様です。ごゆっくり過ごしてください。私は明日朝が早いのでこれで失礼いたす」

 恵子、新之亟、立山、早川は底抜けに飲んでいた。

 すでに、今田はつぶれていた。

 突然、半鐘がけたたましくなりだした。

「何事だ!」

 立山が目を覚ました。

「火事だ」

 新之亟が、怒鳴った。

「新之亟、火事はどこだ」

 忠世が起きてきた。

「いま、兄上が見に行きました」

 四半刻過ぎて、数之助が戻って来た。

「父上、細川越中守の上屋敷にはすでに大名火消たちがあふれているようですが、火の勢いは衰えを知らず近くの富田帯刀、東條平左衛門、市橋壹岐守の屋敷にも飛び火しているようです。町火消はすでに細川様の屋敷に到着しているようです」

「分かった、我々も出陣だ。すぐに着替えて来い」

 新之亟と数之助は着替えに部屋に戻って行った。

 忠世は、ふたりが戻ってくるのを苛々しながら待っていた。

「忠世さん、何かお手伝いできることはありませんか?」

 恵子は恐るおそる聞いた。

「おけいさんたち、悪いけどそれがしの後に続いてきてくれないか?」

 更に鐘の音が、近づいてきた。

「父上、風向きがこちらに向かっています。母上を風上に連れて行きます」

 数之助が言った。

「兄上。頼みます」

 新之亟はそう言って、忠世の所に走って行った。

「新之亟、行くぞ」

 忠世が叫んだ。

 火事場に着くと町火消がもめていた。

「父上、あれはよ組ではありませんか?」

「よ組とろ組の纏が屋根に上がっていて、喧嘩しているぞ。新之亟、すぐ屋根に上がって喧嘩をやめさせるんだ」

 数之助がやって来た。

「遅かったな」

「父上、大名火消がすぐそばまで来ています」

 数之助の言葉が現場の雑音に妨げられた。

「数之助、何と言った」

「父上、青山様の火消連中です」

 火消装束を着た青山家の侍が、梯子を屋根に掛けた。 

「この火消口は、よ組とろ組のものだ。青山家の者はすぐ降りろ」

「この無礼者」

 立山たちは、息を切らせながら火事場到着した。

「町の連中、ここは大名火消の出番だぞ。さっさとどけ」

 大名火消の責任者が、延焼を極力減らすために、富田帯刀、東條平左衛門、市橋壹岐守の屋敷を壊すよう指示した。

「それ壊せや壊せ」

 威勢のいい声が聞こえてきた。

 恵子たちが忠世の所に集まった。

「おけいさんたち、手渡しで桶で水を運んでもらえないか」

「はい」

 恵子は返事はしたものの、大変なところに巻き込まれたものだと思った。

「これじゃ火はなかなか消えないぞ」

 立山が早川に言った。

「林に隠した宇宙船に火消道具が入ってますので、取ってきます」

 今田が思いついた様子で走って行った。

「消火器ぐらいのものしかなかったような気がするが」

 早川が、恵子に言った。

「おけい、どうした」

 新之亟がそばにやってきた。

「新之亟さん、これじゃなかなか火は消えそうもないわね」

「壊して、延焼を防ぐしかないんだ」

 今田が戻ってきた消火器も結局役には立たなかった。

 朝方やっと火炎はおさまったが、あちらこちらで煙が出ていた。

「おけいさんたち、屋敷に戻ろう」

 忠世が恵子たちを労いながら屋敷に戻った。

 そして、すぐに皆眠りに入った。

 恵子たちが目を覚ますと、きぬとつたが朝餉を用意して待っていた。

 恵子は忠世がいないことに気づいた。

「新之亟さん、お父さんはどうしたの?」

「昨日の火事の現場検証に行っているんだ」

「大変ね」

「奉行所って、警察と消防を兼ねているようだ」

 立山が言った。


 翌日。

 恵子は、新之亟と矢吹家の人たちに別れの挨拶をした。

「おけい、世話になったな。元気でな」

 新之亟は、目に涙を浮かべながら言った。

「おけいさんが、新之亟のお嫁さんになるのを楽しみにしていたのに」

 新之亟の母が残念がった。

「新之亟さん、この時代や江戸の事を教えていただき、ありがとうございました。すごく楽しかった」

 恵子は、泣き崩れてしまった。

「そろそろ、行きなさい。迎えが待っている」

 新之亟の父が、恵子に催促した。

「俺たちは、ここで見送るからな」

 新之亟は、門を出た所で恵子が見えなくなるまで立っていた。

 恵子は、何度も振り返って手を振った。

 新之亟に恋心を抱いていたことに気づいたのは令和に戻ってからだった。

 恵子は、その甘い感傷を胸の奥底に大事にしまって、今日も犯人を追っていた。                           

                  (了)

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警部補山田恵子ブラックホールに入る 沢藤南湘 @ssos0402

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