「花、ほんとに大丈夫? お母さん呼ぼうか? 今日休みだから、」
「このくらいなら大丈夫だよ」
今日は花の委員会が長引いて、いつもより一本遅い電車に乗った。過疎地というほど廃れてはいないけれど都会ではないから、一時間に一本も電車が来ない。夏も終わりに向かっているのか、いっそう前より日の暮れる時間が早くなり、涼風が私たちの間を吹いた。
毎日二人で通る通学路。いつもと同じその道で、大きな石につまづいて花が転んだ。咄嗟に手をついたからかそこまで大きな怪我にはなっていないけど、手のひらや膝からはジワリと血が滲み出している。
今日はなんだか、不吉なことが起きそうだった。
朝から電車が鹿を轢いて遅延、昨日まで元気だった担任の先生が体調不良で休み、授業中突然通り雨が降り出して雷鳴がとめどなく鳴り響いた。蝉がうるさくて、昼間は暑くて。花は転ぶし、私たちの家の方向から消防車と救急車のサイレンが夏に染み込むように低く響いている。心臓と胃の真ん中の辺りがキリキリと痛む。
痛みに顔を顰める花に言う。
「ペットボトルの水あるから、それで一回すすいで絆創膏貼ろう。今日貰ったのが重なってて、返さなくてもいいって言われたやつ、一つ持ってるからさ」
「……翔吾くんから貰ったのでしょ。いいの? そんなの」
「花は知らないかもしれないけど、私、翔吾くんと花に誘われたら翔吾くんを断るよ」
細い歩道だけれど誰も通らないから、縁石に座らせ靴を脱がせて水ですすぐ。砂が入り込んでいるのは薄暗くてどうにもできず、大きな粒だけ除いて絆創膏を足に貼った。手は血が固まってしまって、洗っても取れなかった。
その間もずっとサイレンは耳をキンキンさせていたのに、不意にどこかで大きなクラクションがなって、さっきの騒がしさが嘘みたいな静けさが私たちを襲った。
蝉も車も急に鳴き止み、花の顔の輪郭をなぞる汗がやけに鮮明に光る。
「……ね。今もだけど、さっちゃんて、ほんとに運がいいよね」
「そんなことないよ。毎日こういう訳じゃないし」
「でも……運ってすごく大切じゃない? だってもしさっちゃんが、翔吾くんと席が隣になったから仲良くなって、付き合って結婚して、子供ができたらさ。その子は、さっちゃんの運が悪かったら生まれなかった子なんだよ? 運、それだけで」
「え……ど、どうしたの? 急に変なこと言って」
「……あ。ごめんね、なんか、羨ましいな、って、思って」
前を向いて静かに話す花は、なんだかいつもと様子が違っていた。
高く括ったポニーテールの先がゆらゆらと揺れて、夕暮れに背を向ける私たちの影も一緒に蠢く。並んで歩く花は夕陽の当たりで眼窩が暗く、表情はわからなかった。乾いた空気が喉の奥をひっかけて言葉を押し留める。
「たぶん、気のせいなの」
「……ねぇ、大丈夫? なんの話をしてるの?」
私の言葉を無視しているというよりも、全く聞こえないというふうに足早に歩く花を、地面が抜けそうな不安の中追いかける。
途端花が一瞬ピタリと動きを止めたかと思えば、目がこぼれ落ちるくらいに大きく開かれる。彼女の視線の先に、踏み出した花自身の右足がある。花が機械のように硬直した時間は長いようで短く、ぎこちない動きで再び歩き始めた。
「……わたしの運が悪いって、話だよ」
彼女の右足の靴の下には、やわらかく広がった瑞々しいアマガエルが落ちていた。
水色だった月が、黄色く染まった。
花の表情は相変わらず見えない。
思い返してみると花は今朝から何か違った。でも、考えてもパッとした原因は思いつかない。花は道路を走る車の前照灯に目を細めることもせず、淡々と独り言のように言葉を落とした。
「さっちゃん。運って、なんなのかな」
「そんなの、わからない」
「ただ普通に暮らしてる中でちょっといいことがあれば、それは運ってものになるの? 運って、誰が決めるの?」
歩くスピードは変わらない。矢継ぎ早に詰め寄るような質問が飛び出してくる。静かな声だった。
「……否定するわけじゃないけど。全部が全部、そうとは限らないよ。だって花はいつもみんなのために頑張ってるから、いいことがあったとしても、それは花の努力が回り回って帰ってきた結果でもあると思う。だから……運だけで人生が決まるなんて、ありえないよ」
「……」
宵。一層夜に近づいた空気が頬を刺した。
俯く花に添うように歩いていたのが、いつの間にか一歩先にいた。
「……花?」
花はいつの間にか足を止めていた。迷子の子供のように、口を開けたり閉じたりしている。どうしたの、と問う前に、震える声が耳へ届いた。
「ぜんぶ、さっちゃんのせいだと思ったの」
「……なんのこと?」
「もう、いやなの。好きじゃない人に好きっていわれて、断ったら、怒られるの。みんなそう。ドラマみたいに優しい人なんていなくって、毎日こわいの。ねぇ……さっちゃん。家のポストに毎朝手紙が入ってるの。赤い字で、好きって書いてあるの。わたしが昨日一日なにをしてたか、日記みたいに書かれてるの。……わたし毎日悪夢をみるの。犬と、男の人が、わたしにずっと、怒鳴ってる夢をっ!」
秀麗な顔を歪ませ、溢れた本心を叫ぶように感情を吐露する。
頭が急に重量を増したように足元が覚束ない感じに襲われ、血の気が引いた顔で花をみつめる。知らなかった。花はそんな素ぶり、一度だって見せたことは無かった。私は、なにも知らなかったのに。
「……わたしね。さっちゃんに会うまで、すごく運がよかったの。あの日からアイスのアタリが出なくなって、よく転ぶようになって、犬に吠えられて、鳥のフンが落ちてきて、男の子に怒鳴られて引っ張られるようになって、……ふこうになったって、思ったの。それもだんだん、昔よりもひどくなってきて、今更どうしようもなくって──」
「ぜんぶ、さっちゃんのせいにしようとしたの」
頬を涙に濡らして、花は懺悔するかのように話す。立ち尽くして、ただ見つめた。花の言葉が頭の中で反芻した。
「ああ、わたしの運は、ぜんぶさっちゃんに取られちゃったんだって、本気で思ってたの」
パチパチうるさい蛍光灯とヘッドライトが、張り付く涙の跡を辿るように通り過ぎる。
でも、と花は言った。
「でもね。わたし、全然ふこうなんかじゃないって、気がついたの。だってわたし、あのときさっちゃんに会えたから、今も毎日楽しいの。さっちゃんがいないわたしなんて、もう考えられないの。……さっちゃんに会えたことが、わたしの幸運なの」
自分の中で納得させるかのような震え声が。自分勝手な許しを乞うような含み声が。どうしようもなく感情が乱される言葉たちが並べられて、濡れた水晶の目が身体の知らないところを見つめた。
果たしてこれは歓喜か悲哀か、それとも疑念か。自分自身でも渦巻いている大きな感情に名前がつけられなくて、ただ理解が追いつかずに詰まった息を吐き出した。
ただ、なにも考えたくなくて頭が空っぽでも、未だ重力に従い落ちるばかりの涙を拭ってあげたい使命感に近い何かを感じて。彼女の涙は、どうしても心を締め付けられる。ああどうしたの、どうしてそんなに泣いているの? って。
だけどその言葉は出て来なくて、けれど泣いている花を慰めたくて。遠くの蛍光灯と近づく前照灯の薄灯を頼りに、黄色く光る頬に手を伸ばす。
「……だから、」
ガシャん!
と。
前方からの衝撃音に、思わず目を瞑った。
次に目を開けると、そこにはなにもなかった。ただ薄明かりが照らすのは歩いてきた道ばかりだった。
どうしてか、目の前にいたはずの花がいない。
いや、違う。消えたんじゃない。一瞬で、いなくなった?
突然の出来事に、身体がなにも動こうとしない。
すごく大きな音がした。
水の音、あとはクラクションの脳を裂くような音。
私は手を伸ばしていた。あと数センチで頬に触れていたはずの指先が、行き場をなくしてピクリとも動かない。酷く冷えた頭が、耐え切れないほどの痛みを訴えている。いつの間にか崩れ落ちた身体にも膝が擦れた痛みを感じた。
視線を彷徨わせ、呆然とした頭で花を探す。
花は、どこにもいなかった。
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