第5話 交渉成立

 一週間後、俺は再び佐奈ミナと、秋葉原の中央通り沿いにあるカフェで対峙していた。ここは中古のフィギュアを取り扱うショップのビルの3階に位置していて、暖かな照明と木を基調としたシックな内装、そして何よりキンキンの冷房が夏場は嬉しい、秋葉原における隠れ家めいた場所だった。その奥にあるソファー席で向かい合う俺たちは、暫く何も話さずにアイスコーヒーを飲んでいた。


 気まずい。


 なぜこのようなことになったかと言えば、かのAIソウマボイスの開発者である楢崎に俺は結局ダイレクトメッセージを送ることが出来なかったからだった。簡単な話で、ダイレクトメッセージはフォロワー同士以外では送信できないよう設定することが可能で、楢崎はそう設定していたのだ。FF外だった俺は敢え無く直接連絡の手段を失い途方に暮れていたのだが、そのとき楢崎のフォロワーに佐奈ミナを発見したのだ。彼女は楢崎と相互フォローだった。


 渡りに船と言わんばかりにミナに相談を持ちかけたところ、彼女は条件付きでそれを受け入れると言った。そう、「夕焼け」である。彼女は俺に「夕焼け」を――聞かせるよう要求してきた。


「あんま繰り返し聞いたら、解釈が崩れるって懸念してませんでしたっけ?」


「そんなことは起こらない、って言って聞かせてきたのはクリオネさんの方ですよね?」


 俺の牽制に、ミナは不愉快そうな視線で応じる。今日は黒い薄手のワンピースを着ている。ノースリーブのため肩がよく見え、その骨ばった薄さが印象的だった。レース生地風で涼しそうだが、黒いのでその分太陽光をたっぷり吸収しそうでもある。というか真っ黒ってハチに刺されるイメージがあるのだが、それを恐れたりはしないんだろうか。


 暫く睨み合う……が、ずっとそうしていても生産性がない。先に折れることにしよう。


「先に提案をしてくれたのは佐奈さんでしたけれど、俺からも提案があります。それも譲歩の。もしこれを受け入れてくれるんだったら、曲を聞かせるだけじゃなく、この曲のデータごと渡したっていいと思っています」


「……へえ?」


 眉をぴくりと動かすミナ。わかりやすくて良いね。


「不法にダウンロードしたデータをそんな風に使いこなすとは、大した根性ですね。いや、この場合は性根(しょうね)か。」


 前言撤回。めちゃくちゃ相手しにくい。


「提案を聞く気はあります?」


「まあ聞くだけ聞いてあげますけど」


 俺はひとつため息を挟んで、


「俺は、この曲は全人類に聞かせるべきものだと思っています。ラジオでもテレビでもストリーミングサービスでもジャックなりハッキングなりして、全ての音響機器を、鼓膜を、空気を、この周波数で震わせるべきだと。そうじゃないと、生まれたこの曲に対してあまりにも不敬だとも。だから、もしこの曲を世に出すための障壁があるんだとしたら、それを取り除きたい。それがソウマの個人的な悩みなのか、それとも何か背景にある事情なのかは分からないけれど、それを解決したい、そう思っています。それが、この曲を聞いてしまった者の責務であると、そう考えているんです」


 少し離れたカウンター席に座る男が、ちらりとこちらを見たのが分かった。宗教の勧誘か何かだと思われたかもしれない。隣に言って囁いてやりたい気持ちになった。「宗教よりも、もっと気持ちいいものですよ」ってな。


「佐奈さん。あなたにも協力してほしい。……いや、少なくとも邪魔はしないでほしい。それを保証してくれれば、俺はあの曲を渡しますよ。何なら、一人でも多くの人に聞かせることは俺の目標でもあるんだから」


「随分とわたしに、勝手な想いを寄せている気がするけれど」


 ミナはグラスを机に置いて、


「わたしは、あの曲に感動したとも言っていないし、あの曲がほしいとも言っていない。今日ここに来たのは、あくまで先週伝えた通りのことを主張しに来ただけ。その曲の存在は、やっぱり彼の存在を脅かしかねない。削除して」


「死んでも嫌だね」


 心の底からそう言えた。それきり会話が途切れる。お互いの主張は平行線のままだった。


 しかし、本当にそうだろうか。もし意見が全く変わっていないのなら、そもそもここに彼女がわざわざ来る必要もない。「夕焼け」をダシにほいほい出てくるんだから、きっと彼女だってこの曲の衝撃に絆されているはずに違いない。


 おそらく、葛藤している。それは何かを天秤にかけ、その精査に悩んでいるのかもしれないし、あるいは自分の感覚を合理化するためのうまい説明が思い浮かばずに苦労しているのかもしれない。しかし、何らかの材料があれば彼女を転がすことが出来る、そんな気がした。


 暫く考えて、俺は口を開いた。


「なら、監視役ってのはどうです。佐奈さんからしたら、俺がどんな行動をするのか分かったもんじゃないでしょう。下手したらあなたの言う通り、俺がこの曲を使ってあいつを直接的に脅迫し始めることすらあるかもしれない」


 他の客に聞こえることを懸念して、ソウマという言葉を出すのを避ける。秋葉原で落ち合うというのは、この話題に関して言えば非合理かもしれないとちょっと後悔した。


「けれど、俺の意志は固く、あなたの勧告に応える様子もない。そうなるとあなたとしては、俺の行動を監視するほかなくなる。協力でも、黙過でもなく、監視するんです」


 積極的な容認でも、消極的な追認でもない。彼女の正義のために俺の行動にはコミットしつつ、その責任を負う必要はない。ミナが気にしていること、それはつまりソウマへの義理だ。全く当人に期待されているわけなどないそれを、勝手に大事にしてしまう、それがファンという生き物だった。そんな立場についての解決策として、俺は監視役を提案した。


 手を口元に当て提案を暫く思案した後に、ミナは「そう」と言った。そして体にかけていた小さなバッグからスマホを取り出した。一瞬見えた背面には、制服衣装のデフォルメされたソウマのイラストが貼られていた。

 

 交渉成立らしい。


「AirDropで送ってください」


「俺、Androidだから」


「……これだからソウマニアは」


 なんでだよ。最近のAndroidはカメラも機能性もiPhoneよりよっぽど進化してるんだが?


    ◆


 仕方なしにメールアドレスまで交換して、なんとか元ファイルを共有することに成功する。これは私的利用の範囲を超えた頒布行為になるんだろうかと少し不安になる。しかし、俺が罰金や懲役を受け入れてこの音楽を広めることができるんだとしたら、それもまったくやぶさかではない。


 そう話すとミナは「あなたのその熱意が、本当にソウマに害をなさないか心配なんだけど」と心底けったいそうに言った。


 彼女がとりえる行動は他にもう一つあった。それはつまりソウマ本人に、景色が流出したこと、違法ダウンロードした人間がいることを伝えるということだ。それは根本的な解決策なようで、しかしミナには取りえない。それはソウマに対してメタな視線で臨むことに他ならないからだ。


 Vtuberのファンは複雑な世界を生きている。理性として、そのVtuberに中の人が居ることは誰だって当然知っている。それを知った上で、それでもその存在とキャラクターとを切り分けて、受け入れているのだ。普通の人間だって、その場その場、相対する人とで人格なり仮面なりを使い分ける。あるいは役者や声優はキャラを演じることを通してそこに虚構の存在を作り上げる。


 Vtuberという存在は、人々の持つペルソナ、役者が作る虚構、そういった形態に並ぶ第三の人格のあり方として存在しているのかもしれない。


 そしてそうした複雑な前提の上に成り立っているものであるからこそ、不祥事、特に、それが活動上の行為ではなく活動の裏の私生活にて行われたものであるとき、ファンは約束ごとをひっくり返されたことに激昂し、そのコミュニティーは崩壊寸前まで揺らぐ。その意味でまさしくVtuberは配信者と視聴者が両方あって初めて一個の世界として成立するものであり、その信任が崩れた途端、容易に失われてしまう世界でもあるのだ。


 だからこそミナは、ソウマに報告するという行動を取れなかった。いや、伝え方に工夫を施せばどうにでも出来たかもしれない。例えば、「ソウマと似たような声の人の録音ファイルがある」などとすれば良いかもしれない。しかしそのような形だけの取り繕いで解決できるほど、彼女の忠誠心はヤワではないはずだと踏んだ。俺はその忠誠心に賭けた。そして成功したのだった。


 一旦の目的が果たされたこともあり少し空気が緩んだ。少し世間話めいたことでも話そうという気持ちになる。


「スマホのシール、めっちゃいいですね。それってどこで買えるんですか」


「これですか。この前のオンリーイベントで買ったやつです。市販品じゃないです」


 彼女はスマホをひらひらと振ってみせる。


「オンリーって、平和島でやってたやつ?」


「そうです」


「凄いね、俺も行ってみたいと思ってたけれど、いつも平日だから行けてない」


 すると彼女は眉を少し上げて、意外そうな声で、


「それはどうして?」


 と聞かれた。初めて自分の人となりに興味を持ったような質問だったので、その問いが妙に印象に残った。


「そりゃ働いてるから。サラリーマンが平日に、娯楽のために休み取るってのは、中々難しいことなんですよ」


 しばらくの沈黙ののち、


「……あなたのようなヤバい人を雇ってくれる会社があるんですか?」


「失礼すぎるだろ」


 俺にだって、ペルソナを使い分ける能ぐらいある。会社では一応、毒にも薬にもならない程度には真面目に働いている。もちろん最終的には会社の人間も「夕焼け」染にしてやろうとは思っているが。


「逆に、佐奈さんはまだ学生とか?」


「そちらこそ失礼ですね。ちゃんと働いてます」


「平日休み取れるってことは、看護師とか?」


 その瞬間彼女はさっと身を隠すような手振りをした。


「うわ……当たりかよ? 逆に気まず」


「なんかストーカーとかやってるんですか?」


「スポーツ経験みたいな聞き方すんな。ただ、親戚が看護師だったからなんとなくそうかなって思っただけです。そっちの失礼具合と相殺しておいてくれ」


 看護師か。確かに清潔というか潔癖というか、清楚とは言いたくはないがしかしどこかひんやりとした空気は確かに病院のそれを想起させる。ナース服姿はあんまり想像できないが。


 しかしあまりずかずかした足取りで身の上を交換し合うのもどうかと思い、再びシールに話題を移す。


「じゃあそのシール買おうと思ったら、通販とかで買うしかないってことかあ」


「それか次のオンリーか、コミケとか、ですかね。あとは、望み薄だとは思いますけれど、実店舗探してみるか」


「なるほどねえ。じゃあ、このあとは暇だし探してみることにしますよ。ありがとうございます」


 いえ、と彼女は小さく首を振って、またアイスコーヒーを口に含んだ。


 その後、本来の目的である樽崎(AIソウマボイスの開発者だ、念のため)へのメッセージについては後日改めてミナに文案を送ることで合意し、これで今日の主目的は果たされた。


 席を立ち、会計を行う。「お会計はご一緒で?」「いや、別々で」。


 店の外に出ると、彼女は黒い日傘をさした。正直言ってこの炎天下の殺人光線の下では、喉から手が出るほど羨ましかった。だがそう思っても日傘を買ったりはしない俺の、非合理な側面を治す気は今のところなかった。


「じゃあ」


「はい」


 そう言って別れようとするのだが、大通りに出て二人は向かって左、同じ方向に足を向けた。そこまでなら駅の方向だし、さして妙ではない。しかし大通りの横断歩道を渡ろうとするところまで一緒だった。一応、俺の方が少し先を歩いている。


「これからどこ行くんですか」


 気まずいのか、向こうから先に問いかけをしてきた。


「メロンブックスです。この辺りで同人売ってるのって意外とあそこと、comiczinくらいですから」


 そう答えると、彼女はさらに気まずそうに「ああ」と漏らした。もしかしなくても、彼女も同じ場所を目指していたようだった。


「佐奈さんの方もメロブに用が?」


「……まあ。予約してたのを受け取りに」


「じゃああれか、少し裏道の方のやつですね。俺は大通り沿いの、ゲーセンの地下にある方なんで」


「そうですか」


 彼女は少しほっとしたように見える。それでも数百メートルは経路が重なり、まだ雑談の続きが必要だった。


「それもソウマの同人を?」


「そうです」


「へえ。俺、基本は配信を追いかけてばかりだから、あんまりそっちの方は手出してないんですよね。どういうのが多いんですか」


「知りたいんですか?」


「え?」


 その時のミナは、無表情だった。しかしそれは、ホラー映画の登場人物のようなどこか壮絶で、進むことを躊躇わせる表情だった。


「本当に、知りたいんですか?」


「……あっスーっ……、大丈夫、かもです」


 聴きながら、俺はショタ顔男子高校生Vtuberの同人誌と言ったらどんなものになるのかを想像しすぐにその解に辿り着いた。間違いなくそれは、ぐんずほぐれず系のやつだ。


「じゃあ、ここで」


 そう言って彼女は途中の角をスッと曲がり、大通りから一本奥の、電気パーツショップやコンカフェの呼び子が立ち並ぶ路地の方へと進んでいった。俺はその背中を見送ってから、目的地へと再び歩み始めた。

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