小さな世界

阿下潮

小さな世界

 海風に乗って、遠くの打ち上げ花火のように太鼓の音が届いた気がした。

 実際は海の近くでもなければ屋内なので、海風なんて吹いてはいないのだけれど。

 それでも決勝会場の中心に設置されたヤグラとそこに鎮座する太鼓を見上げると、夏海は自分の心臓が早いテンポで高鳴る音が本当に聴こえるような気がした。

 今日はボンダンスグランプリファイナル。アメリカ、フランス、日本、ロシア、中国、インド。あれよあれよと踊っているうちにここまで来た。今でも自分たちがボンダンスの聖地ナルクスタンにいることの現実味が薄い。

 先ほど大会本部から決勝の課題曲も発表された。十曲ともこれまでに踊ったことのある曲だったから、どの三曲が来ても大丈夫。おばあたちは「テンヨー節」がなかっただの、「踊るマハラジャ」ならお手の物だの、言いたい放題だったが、決勝で踊る三曲は神のみぞ知る選曲だ。夏海たち七人はその時流れた曲に合う踊りを踊るだけだし、ドラマーの雷蔵おじいは夏海たち踊り手が踊りやすくかつ曲に合わせた太鼓を叩かなければならない。

 いかに曲に合った踊りを即興で踊れるかが競技ボンダンスの極みの一つだ。流れてきた曲に合わせて予め決めておいた踊りのパターンを嵌めていくにはテクニックが必要だが、リズムを取り踊り手を誘導するためにドラマーの果たす役割は大きい。正確なリズム、曲の解釈、踊りとの親和性など、多くの変数が求められるため、決勝に進んだ他国のチームはどこもAIドラマーに太鼓を任せている。踊り手は太鼓の弾奏に情動を重ね、無心に手を振り足を滑らす。そのためのAIドラマーという選択は確かに合理だ。それでも夏海たちは雷蔵の太鼓で踊る。

 大会前、どこかのチームがIBU(国際ボンダンス連盟)のネットワークに潜り込んで、選曲のアルゴリズムを解析したなんて噂が流れていたけど、真偽のほどは分からない。あらかじめ曲が分かっていれば確かに踊りやすくなるかもしれないけれど、次にどんな曲がかかるのかワクワクするのもボンダンスの醍醐味だと夏海は感じている。夏海たちの強みはたとえ国際大会の決勝でもボンダンスを楽しめることだ。おじいの太鼓だと楽しく踊れる。

 とはいえ、一定の緊張感は集中力をブーストしてくれる。夏海はしゃがみこんでダンスフロアの艶のある白い床を、ついと撫ぜた。緩みすぎないようにしよう。

「夏海ちゃん、さんぴん茶飲むかい?」

「飲むのむ!」

 いつの間にか会場に来ていたチハルからの呼びかけにことさら陽気に答えると、夏海は砂浜から立ち上がったときのように手を払って腰を伸ばした。

 ボンダンスグランプリファイナル、決勝開始まであと一時間四十七分。


 夏海とチハルが日本チーム控室に戻ると、アメリカチームが大きな壁となって雷蔵を囲んでいた。緊張した面持ちの彼らと比べて、その横でさんぴん茶を飲むカマドたちの表情はいたって和やかだ。

「ミスターサンダーボルト、貴重な時間に大変申し訳ありません。あなたに会うことができて私たちはとてもうれしいです」

「あなたのドラムの大ファンです。一生の思い出にどうかサインをください」

「子守唄代わりにThe RICEの音楽を聴いて育ちました。ロックの魂は今もこの胸に」

 雷蔵が若い頃アメリカでバンドを組んでいて、世界的なヒットを飛ばしていたとカマドから聞いたことがある。夏海の生まれる前の話、とのことだったけど、眉唾の話と思っていたら、どうやら本当のことだったらしい。

 雷蔵にサインをもらってただのロックファンに戻ったアメリカチームは、控室を去り際に振り返ると、「サインの御礼に一つ残念なニュースをお教えします。インドチームが審判団の一部を買収したという噂があります。買収された審判はインドチームに最高得点をつけるでしょう。でも」見た目とは裏腹にかわいげのあるウインクを一つ。「我がUSAもJAPANも最高得点を獲得するから関係ありませんね。つまりこれはインドチームにとって残念なニュースです」

 HAHAHAとアルファベットで笑いながら、アメリカチームは出ていった。

 アメリカチームがいなくなると、控室の雰囲気は途端に我が家感が増した。おばあたちがさんぴん茶を飲む横で、雷蔵がハブ酒に手を伸ばそうとしている。

「競技前に酒飲むやつがいるか!」

「夏海ちゃん、大丈夫さー。雷蔵は母乳の代わりにハブ酒飲んでたくらいだから、ちょっと飲んだ方が落ち着くさ」

 それにしても、もし何も知らない人がここに入ってきたら、ケアハウスか何かに迷い込んだかとびっくりするだろうな、と夏海は控室の光景を見渡す。夏海たち日本チームのメンバーは、百十二歳で最年長のカマドおばあを筆頭に、百歳オーバーが六人並ぶ。そこに十七歳の夏海が一人加わることで、チームの平均年齢を少しだけ下げている。ドラマーの雷蔵も百三歳なので、控室にいる者の平均年齢は高齢者専用病院の待合室にも引けを取らない。

 もともとボンダンスは老若男女が一緒に楽しむことのできるスポーツだけれども、それにつけても競技ボンダンスは他の競技に比べて子どもや老齢者の参加者が多い。これは年齢が一桁もしくは三桁以上のメンバーには、二桁数字との差一歳につき一点ずつの加点が与えられるというルールがあるからで、特に今回の大会で日本チームと中国チームはこの加点の恩恵を大いに受けている。

 中国チームは前回のロシア大会ではメンバー七人全員が六歳という驚くべき布陣だったにも関わらず、このファイナルではそのうち二人をさらに四歳の少女に変えてきた。伝統的に得意としている柔軟かつアクロバティックなボンダンスに年齢加点も合わさって、中国チームは今大会ダントツの一位で予選を通過している。

 それでも、年齢が一桁の踊り手に対する加点には限界がある。ボンダンスに参加するだけなら一歳や二歳もありうるが、競技ボンダンスとなると話は変わる。採点基準にある技術完成度や芸術表現度においては、一歳や二歳の幼児ではどうしても点を取ることが難しいからだ。

 年齢が三桁の踊り手も状況は同じだ。生成筋肉を移植しても、百歳を超えた者が十代二十代の踊り手と同じように踊ることはできない。にも関わらず日本チームが百歳以上のメンバーを六人も入れて上位を狙える位置にいるのは、ダンス構成の妙味と加点ルールのおかげである。難しいトリックを取り入れれば取り入れるほど点が取れるという単純な競技ではない。

 とはいえ、生成筋肉や再生神経接続の技術開発がこの先も進めば、誰でも全盛の若者のように踊ることがいずれ可能になるだろう。そうなれば必然的に年齢による加点もなくなる。日本チームが勝てるのはここ数年のうちだけかもしれない。ただ、進歩した生成筋肉などのおかげで、今よりもっと歳をとったおばあたちがバチバチのトリックを決めるボンダンスを想像して、それもありかも、と夏海は一人笑った。

「でも買収とか有り得ないよね」

「まくとぅそーけー、なんくるないさー。うちらはうちら。いつもどおり踊ればいいさ」

「そんなことより、夏海ちゃん」

 ミサキがいたずらっ子めいた顔で、サトエに合図を送った。それを見たおばあたちがフォーメーションを組むように滑らかな動きで立ち位置を変え、横一列で夏海の前に並ぶ。おばあたちの壁の向こうでサトエがごそごそと荷物を探る。「オッケーさー」今度はサトエが合図を返すと、おばあの壁が中心から二つに別れ、カマドとチハルの間から、ケーキを持ったサトエが進み出た。と同時におばあたちの陽気な合唱が始まる。

「はっぴばーすでーつーゆー、はっぴばーすでーつーゆー、はっぴばーすでーでぃあ、なーつみー、はっぴばーすでーつーゆー」

 驚いた。今日は夏海の誕生日なのだ。決勝と同じ日に誕生日だなんて自分からは恥ずかしくて言えなかったが、みんなが覚えていてくれたことがうれしい。みんな自分の誕生日は忘れているのに。

「夏海、誕生日おめでとうー」

「今日は夏海ちゃんの誕生祝いに踊るさー」

「夏海のために優勝するさー」

 おばあたちが口々に夏海を喜ばせる言葉を投げかけてくる。世界一位を決する国際大会の決勝を、誕生日のお祝いで踊るチームはきっとどこにもない。だからきっと、夏海たちはどこにもないボンダンスを踊ることができるのだ。

 夏海がケーキを受け取ると、雷蔵が竹箸で机やコップのふちを叩き出す。カマドが三線を取り出して弾く。誰からともなく自然と体が動き出し、カチューシーが始まった。ファイナル決勝まであと一時間だというのに、こうなったらもう止まらない。ケーキをテーブルに置くと、夏海も腕を振り上げ、心のままに足を動かす。みんなの気持ちが海風のようにたゆたい、熱を保って立ち昇っていく。異国で迎える最高の誕生日。

 ひとしきり踊ったあとで、サトエの顔が曇っていることに夏海は気づいた。

「夏海ちゃん、ごめんね。それでも、うちはあの人のことを思って踊るさ。今日はあの人の命日なんだ」

 誰かの誕生日は同時に誰かの命日でもある。老いも若きも輪になって踊るボンダンスは、さながら生と死の輪廻のよう。

「サトエさん、何にも問題ないさ。うちもサトエさんの夫さんのことを思って踊るよ。もともとボンダンスってそういうもんさ」

 ナルクスタンでは先の戦争で亡くなった人たちを悼むためにボンダンスが始まった。競技ボンダンスになっても、根底に横臥するその思いは不変だ。ボンダンスを愛し、ボンダンスで競い合う者たちが一つの輪を形作るとき、そこには情報戦も買収も立ち入ることはできない。戦勝国も敗戦国もない。

 ボンダンスの輪の中で、小さな世界が廻る。太鼓の音と掛け声と、踊り手たちの衣擦れと息遣いが、嬉しいも寂しいも飲み込んでその場を満たす。

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