第1幕 ちゅうぶらりんしゃん(7)
「此処のことを……教える、ですか?」
突然の申し出に、キョトンとした表情で店主は尋ねる。いや、実際、店主は尋ねたかったわけではなかった。ただ、眼の前の若者の口から出た言葉が、あまりにも予想外のものだったため頭の中だけでは整理ができず、思わず聞き返す形になってしまっただけ。
そんな店主に若者は力強く頷いて言葉を続けた。
「あぁ。此処らの事を教えてほしい。そして……出来ることなら力になりたいと思っている」
「力になってくださる?」
「そうだ。根無し草の俺に何がどこまで出来るかはわからないが……尽力したい」
若者の言葉には迷いも嘘偽りもない。
ただ立ち寄っただけの、ただ一晩宿をとっただけの、ただほんの少し会話しただけの、その旅籠とその旅籠の店主にここまで心を砕けるのはおそらく若者だからだろう。
彼は真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐで、真っ当過ぎるほど真っ当な、心優しき男だから。
「このような状況で……父親に嫌がらせまでされても、それでも君はここを守ろうとしてるのは……きっとここに思い入れがあって、ここが特別に大事だからなのだと思う。……なら、俺は、ここを守ろうとする君の力になりたい」
若者はそこまで言葉にしてから、少し考える仕草を見せてから、優しくどこか茶目っ気のある笑顔を見せて言う。
「俺は、君に一宿一飯の恩義があるからな。ぜひその恩を少しは返させてくれ」
店主はこの時、若者の微笑みを見たこの時に、初めて感情を顕にした。それは決して激しいものではなかったけれど、ひどく胸を締め付けられるほどのどこまでも純粋な切なさだった。
「あぁ、お客さん。……私はここが……僕はね、ここが、この場所が大好きなんだ。むか…し…っ昔はおじいちゃんが店主で……おばあちゃんが一人でお客さんのお世話して……家族みんなで切り盛りしてて……そりゃぁ、盛況だなんてお世辞でも言えなかったけれど……――すごく幸せだった……」
息も言葉も詰まった青年の途切れ途切れの悲しい告白を、もう戻ることのない過去の思い出話を、若者は静かに聞いていた。
「けど……あの人は……出ていってしまった。……貧しさに耐えられなかった。馬鹿にされる悲しみや揶揄される悔しさに傷つきすぎて、寒さや貧しさやさびしさやつらさに壊れちゃった」
青年の瞳に浮かんでいるのは、いつかの幸せだった日々と、それに比例するように崩れていく優しかった人の面影。
「あの人は……抗いたくなって、抗って、抗って、懸命に抗って……最後には抗い方を間違えちゃったんだ」
「……そうか」
「でも……誰だって、間違えることくらいあるでしょ?僕はおじいちゃんたちが好きで、この場所が好きで……だから……っここで……踏ん張って、待ってれば……きっと……」
その先は言葉にはならなかった。ただ、漏れ出る息が、嗚咽混じりの声にもならない音が、途絶え途絶えに繰り返されているだけだ。
若者はそっと手を伸ばし、まだ自身より幼い青年の頭に添えて、彼を隠すように抱きしめた。
「君は……
「あの人が、いつか……いつか、帰ってくるって」
信じているのだ。この幼い店主は、いつかここに、かつて優しかったあの人が、この旅籠で微笑っていたかつての店主が帰ってきてくれるのだと。
そのためだけにここで、この旅籠を守り続けている。意地っ張りでい続けているのだ。
ずっと、意地と気を張り続けていた若き店主は、初めて手を差し伸べられ、その手のあたたかさに張り詰めていたものが緩んだ。
幼子のように泣きじゃくる青年のとどまること知らず溢れ出る涙は、若者の着物に滲んでいく。
若者はそのことなど気に留めることもなく、ただ今ここにいない“あの人”を見据え強い瞳を向けた。
その時。
「先生……不義かい?」
突然に横から声をかけられ、若者は顔だけをそちらに向ける。
「……ヨミ!」
自身を先生と呼び慕うヨミの存在を目でとらえ、少し安堵の混じった声で彼の名を呼ぶ若者に、ヨミは少々、猜疑混じりの瞳を向ける。
若者は彼の名を呼んでから、先程なんと言ったか聞き返そうとしていた。
不義、と聞こえた気がしたが、ヨミに、よもやそんな事を言われるはずもないし、心当たりも全く無いゆえに。
ヨミはじろりと、若者を
「全く、あたしという存在がありながら移り気なお方だよ」
ヨミの予想外の言葉に若者は目を丸くする。
そして、ヨミに放たれた言葉に必死で抵抗して、声をひっくり返らせながら強く抗議する。
「ちょっと待て!!何を言っているんだ!?俺がいつそんな軟派な男にっ……」
若者の必死の訴えを、ヨミはツンっとそっぽを向いたまま、表情を崩さない。
若者は困り顔で、ヨミに何度か訂正を求めたがヨミは聞く耳を持たない。
その光景に小さな笑い声が混じる。
「ふふふ。お二人は仲がよろしいんですね」
若者の胸元から、顔だけをヨミに向けて店主は柔らかく微笑む。
先程までとは打って変わった表情になったのは、若者も店主も同じだ。涙をこぼしながら泣き顔だった店主からはクツクツと微笑みがこぼれ、強く決意を固めていた表情の若者はどこへやら、今は眼の前のヨミにタジタジだ。
「……あぁ、まぁ、仲良し……だな」
若者の照れながらも純粋な返しに、ヨミは目だけを若者に向ける。それは、猜疑の混じった先程のものよりも、ずっと柔らかいものだった。
ただ一言で、たった一言で、若者は簡単に、ヨミの心を動かしてしまうのは、ヨミいわく惚れた弱みなのだそうだ。
「えぇ、あたしと先生は仲良しですよ。生涯を共にすると約束した仲ですからね」
「いつ?」
機嫌を直したヨミの言葉に、若者は脳みそを通さずに出た言葉で間髪いれずに尋ねる。
ヨミの言葉は若者にとっちゃ寝耳に水である。
「あたしと先生は一蓮托生なんです」
「なんで?」
若者の問いに答えず、続けたヨミの言葉に若者は再び脳みそを通さず問いかける。
若者にとってこの言葉も寝耳に水なのだ。
「今日だってあたしと先生は
「何の話をしてるんだ!!おまえは!!」
更に続けたヨミの言葉に、たまらず若者は声を荒げて訴える。
咄嗟に店主の耳を押さえていたおかげで、ヨミの少々刺激的な言葉は、まだうら若き店主の耳には入らなかった。
「そして……先生の死に際にも共に、願うなら黄泉の道も、いつか来る次の世も……」
「重い重い、俺の荷が重すぎる」
苦笑いを浮かべながら、若者がそう言って、ヨミの顔を見た時、それは見間違いだったのだろうか。
――泣いてるっ……?
若者は咄嗟にヨミに向かって手を伸ばす。まだ若い店主から離れ、悲しげに瞼を落とすヨミに若者は駆け寄る。見たことのないはずのヨミの表情に、どこか懐古的な既視感を感じながら。
ヨミの、この男のこんなに悲しげな表情を見たことがない。巫山戯て、もしくは何かを成し遂げるために、わざとこのような表情をつくることは多々あるが。こんなにも、心底から悲しげな、見ているこちらの方が胸を締め付けられる表情など、涙など見たことがない。
見たことがないはずだ。若者は見たことがないはずなのだ。
けれど、この感覚は何なのか。まるで夢の中にいるような、足元がおぼつかないような感覚は。知らないことを、見たことのないものを、いつかの自分が訴えてくるような……そう、まるで夢でも見ているような感覚は。
言葉にならない感覚と感情に呑み込まれそうになりながら、ヨミの涙の伝った跡に若者が触れようとした。
その時。
「なぁ〜に、いちゃついてるんだい?だぁ~んな」
背中に聞き覚えのある声と重みを感じて、若者は我に返ったように、現実に引き戻される。
「こらこら、お銀。そんなに旦那に寄り掛かったら旦那が潰れてしまうからやめなさい」
「利之助、先生はそんなにやわじゃないよ」
お銀を窘める利之助を窘めるヨミ。そのヨミの表情はいつもの彼のもの、そのものだった。
どこか安堵した表情を見せながら、若者もその会話に加わっていく。
ただ、若者の心臓はまだ言いしれぬ不安に早鐘を打っていた。それを、隠すように、振り切るように若者はいつもより一層、声音を明るいものした。
三体の人ならざる者たちは、若者の様子に少々、違和感を感じていたが、あえて何も言わなかった。
ただいつもの彼らとの、変わらない日常風景が流れていた。
「ふふふ、皆様お揃いで。今、お部屋にお夕食をお持ちしましたよ」
先程まで苦しそうにしていた青年の明るい声音に安堵しながら、若者は三体を引き連れ、部屋に戻っていった。
残された店主は、客人の背中を見送りながら、目を細めて微笑った。
「お優しい人で良かったよね。ふふふ……大丈夫」
暗闇でもないのに、まるで宵闇の猫の瞳のようにキラリと光が瞳に宿る。
今ここにいない、あの人に、その目は向かっている。
「僕が必ず、ここを守ってあげる。だから、早く帰っておいで。僕の……」
美しく微笑む店主の白い着物はまだ汚れなき、白いままだった。
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