毒殺令嬢は公爵閣下に恋してる

重田いの

第1話


国じゅうで戦勝の宴が華やかに催されていた。その中心、もっとも華やかな祝宴が繰り広げられるダキネラル帝国の白薔薇宮殿は、まだあんなに近い。大理石の尖塔にはすべての氏族の旗が誇らしげに掲げられ、かがり火に照らされるさまは壮麗である。


宵闇を貫いてひときわ強く白く光魔法に照らされるのは、帝国の旗、皇帝の旗。そしてダキネラル帝室アヴァトグルニ家の翼ある蛇を描いた大きな旗の三本だ。それは宮殿の大門から玉座へ一直線に続く道の果ての、もっとも高い大尖塔に掲げられていた。


「クソっ、クソっ、クソっ!」


と、レオはそれを背中に悪態をつく。土を握って山中を進む背中から怒気が溢れ、アガットには彼にかける言葉もない。


「なんで――どうしてこうなった!? クソぉっ!」


だんっ、とレオの拳が木の幹を叩き、まだ乾燥した木の皮が飛んだ。夏の終わりの夜は肌寒い。宮殿からは花火が上がる。その大砲のような轟音。ぱっと赤の火薬の色に染まったレオの、ドス黒い感情を隠しもしない悲痛な横顔。


美しい青年だった。さらさらした金髪は戦っていた頃の名残りで貴族にしては短いが、ダキネラル人らしい緑の目は夏の森の深さ。均整の取れた身体つきに長身、おまけに公爵家の跡取り息子とくれば若い娘たちは放っておかなかった。


それが――国が勝った今になって居場所を追われ、こうして山の中を逃げているのだ。怒り狂いたくなる気持ちもわかる。


レオはばっと後ろを振り返り、アガットが遅れているのを見て舌打ちしそうな顔になった。実際にそうしなかったのは、有り余るほどの騎士の矜持のせいだ。しかしレディ、お手をどうぞと気取る余裕はなかった。彼はアガットのところまで斜面を滑り降りてきて、彼女の肘を強引に掴んだ。


「遅い! 遅れるなアガット!」


「はい閣下」


とアガットは返事をした、したけれども、もう足がもつれて息も上がって、正直これ以上は彼の速さに合わせられそうもない。


それでもレオはざかざかと鍛えた男の速さで進む、アガットを引きずるようにして。彼女はひいひい悲鳴をあげながらなんとか足を動かした。


膝がガクガク笑っていた。汗みずくのあまり、コルセットの端の硬い縫い合わせの部分が肺と下腹に突き刺さるよう。ドレスの裾なんてとっくに泥まみれで、耳飾りは片方がどこかに行ってしまった。


不機嫌さを隠さない顔をしていてもレオは美男子である。崖じみた勾配に差し掛かると、彼はとりあえずアガットを置いて岩に手をかけた。


「上から引っ張り上げるから」


斜面は山慣れた猟師なら進めるだろう急な勾配だった。アガットも習って進もうとしたが、運動不足の女には無理がある。引っ張ってもらったって宙吊りのようになってしまうだろう。


アガットが先に行ってくださいと声をあげようとしたとき。幸いなことにリュドヴィックが戻ってきた。


魔法使いの掲げる杖の先、ほのかに黄色く灯るランタン魔法の灯りは、今のアガットには救いの手の主だ。彼女は上の方から滑るように降りてくるそれを見た途端、ほっと気が抜けてずるずる膝をついた。腐葉土が柔らかく彼女を受け止めたが、レオはその姿を見てとうとう舌打ちをした。


「二人とも、お怪我はありませんか」


「リュドヴィック! 砦はどうだった。我が方の兵はいたか!?」


魔法使いは肩を落とし、首を横に振った。レオの拳がわなわなと震えるのを、アガットは見た。


背後でまた、大きな花火が上がった。まだここは宮殿からさほど離れていないのだった。


「開けた場所に陣を張りました、閣下。どうぞそこまでお越しください。安全な場所に転移させますじゃ。――テミア子爵令嬢も、さ、お早く」


「ありがとうございます、先生……」


アガットは最後の力を振り絞って急な勾配に取りつき、レオの手を借りて這うように上った。


足手まといそのものの自分にアガットは悲しくなった。ひつめにした髪のどこかがゆるんで、青味のある黒に近い灰色の髪がだらっと落ちてきた。大粒の汗が、レオのそれと同じダキネラル人の緑の目に入った。


それらにかまう暇もなく、アガットは男たちについてほとんど四つん這いに山を登った。ブーツの中で足の爪が靴下にひっかかり、もげてしまいそうに痛い。


ささやかな、おそらく前は沼地だったのが乾いたのだろうくぼんだ平地があって、そこにリュドヴィックの魔法陣が敷かれている。


「お早く、お早く」


とせかされるままに、真ん中に陣取るレオの隣にアガットは滑り込んだ。


「急げ」


「申し訳、あ……」


げほげほ咳き込んだ彼女が顔を上げると同時に、周囲が赤い光に包まれる。咄嗟に目を閉じ、開けるとそこはすでに静かな室内だった。花火の音はもう聞こえない。いや、ごくごく小さな振動はある。遠く、山一つは超えただろう先に。それでもさっきまではすぐ背後にあったのに比べれば、まったくの静寂といっていい。


「飛べるのはここまでか? 近すぎまいか」


「これが限界です」


と貴公子の視線をまっすぐ受け止めて、老魔法使いはたじろがない。


「転移魔法の多様はお体に障ります。これ以上の連続使用はできません。……この老いぼれの腕も落ちましたでな。それよりも、子爵令嬢を少し休ませてさしあげねばなりません。気を失ってしまいますぞ」


と、鳥ガラのような指で優しく肩を叩かれ、アガットは顔を上げた。息がまだ、ぜいぜい整わない。


「お気に、なさらないでください。私は……」


「さ、立ちなされ。座りなさい」


老人は埃よけの薄い布を取り払い、籐椅子にアガットを座らせてくれた。


仁王立ちになったレオは苦々し気にその様子を横目に見つめ、何度も拳を握っては開いてを繰り返している。内心の苛立ちや無力感から逃げる道はそれしかないとでもいうように。


背もたれにぐったりもたれかかったアガットは、目を開けようとしても落ちてくる瞼と必死に戦った。疲労と緊張と安堵に負けそうだ。胸の中で肺が乾いている。心臓が収まらない。ぶるぶるするふくらはぎが攣りそう。


束の間、瞼が落ちた。


「――いやだ!!」


レオの大声で、アガットははっと意識を取り戻す。


正直言ってアガットはまいっていた。状況は――なんとなく把握しているつもりだったが、それでも細かいところはなにがなんだかわからない。今日はめでたい祝賀会の日だったはずである。魔王を打ち倒した勇者をダキネラル帝国あげて讃える日……。


それなのにどうして、アガットはこんなところにいるのだろう?


「お前は私に子爵になれと申すのか! 私を誰だと思っている⁉ 私はレオ・クロード・ドゥ・シャヴァネル! 時期シャヴァネル公爵だ!」


どうやら自分に関係あることで怒っているようだとわかって、アガットはあわてて背筋を伸ばした。コルセットに締め付けられた肋骨がぎぃと軋んだ。


「しかし今となっては、その御名がお命を縮めますな」


リュドヴィックの声は静かである。


「お聞き分けなさいませ、閣下。国王陛下はシャヴァネル家の糾弾をお決めになりました。あなた様は今、罪人として追われる身。そこなテミア子爵令嬢よりも不確かなお立場なのです」


レオは射殺しそうな目でアガットを見つめた。ひっ。アガットは目を伏せ身を縮めた。


老魔法使いの理詰めは正しかったが、この状況ではレオをますます激昂させる一因にしかならない。


リュドヴィックはくるりとアガットに向き直った。


「アガット・ド・ブルーニ・テミア。いいですかな、落ち着いてお聞きなさい。あなたはこれからこちらにおわす貴公子レオと結婚し、彼を婿に迎えるのじゃ」


「……はい?」


アガットは絶句する。身を乗り出したので、黒に近い灰色の髪を抑えていたバレッタがとうとう外れ、髪の毛はさらさらと顔の横からうなじから垂れてしまう。ダキネラル帝国において髪をおろしたままの女性は娼婦とみなされる。けれど今はそんなお作法や常識に気を取られている場合ではなかった。


「な、なんておっしゃいましたの、先生? 私が?――閣下と?」


「さよう。今後は臣下ではなく、妻として彼によくお仕えするのじゃ。幸いにして儂は司祭の資格も持っておるから、このまま結婚の祝福をしてあげよう」


「待ってくださいまし。待って! そんな――急に。困ります!」


アガットは慌てて立ち上がり、はずみでバレッタはとうとう床に転がった。腰まで伸びた灰色の髪がぶわりと広がる。


「リュドヴィック。これより他に道はないのだな」


レオは片手で顔を覆い、歯の間から絞り出したような声でリュドヴィックに訪ねた。魔法使いは静かに頷く。


「さようでございます。テミア家は下級貴族。それも新参でございます。上級貴族名簿には名前が載っておりません。これなら国王の目を誤魔化せる。テミアを名乗り、ひとまずはシャヴァネルのことをお忘れなさいませ。市井に身を隠すのです、閣下。時が経てば国王陛下もシャヴァネル公爵家への恩義を思い出すことでしょう。……王女殿下も勇者ジュリアンもまた思い知るでしょう、国の運営にはシャヴァネルがなくてはならなかったと」


レオは拳で自分の太股を殴った。鈍い音にアガットは肩をすくめ、言いたいことは頭から飛んでしまった。


しばらくレオは無言で自分を殴り、拳を白くなるほど握っていたが、やがて落ち着いた。なんの変化も見せないリュドヴィックの横を素通りし、レオはアガットのバレッタを拾い上げる。


ざわりと逆立つ金の髪の乱れ具合は獅子のたてがみのよう。らんらんと煌めく緑の目はドラゴンのよう。学院一の俊才、剣にも魔法にも学問にも優れたシャヴァネルの貴公子レオは、落ちぶれかけた今でも若く美しい。


彼は革靴の底に取り付けられた鋲を高らかに鳴らしてアガットの目の前に立つと、すらりとした体躯を折って貴族女性に敬意を表す一礼をした。


「テミア子爵令嬢アガット。私と結婚してください」


おおよそプロポーズとは思えない、ぎらぎらした目つきである。下から睨み上げるような、その緑の目! 夏の山脈の青より青い。


「あなたも突然のことで不安だろうが、私とて不服だ。だが仕方があるまい。魔法使いリュドヴィックの提言に従うことを、シャヴァネル公爵家の嫡男として私は決定する。よって我が父の引き立てにより爵位と権力を手に入れたテミア家の者が、我を通すことは認められん」


それとも、とアガットにバレッタを握らせながらレオは剣呑な目をする。ダキネラル人の深緑色の目がぎらぎら光る。


「そなたは私では不足だと言うのか?」


「とっ、とんでもない、閣下」


と思わずアガットは頭を下げてしまったのは、長年にわたって染みついた条件反射と言えるだろう。


ああ、やってしまったと思う暇もなく、レオはくるりとリュドヴィックを振り返る。


「だ、そうだ。令嬢は承諾してくれた。進めてくれ、リュドヴィック」


それでそのようになった。なってしまった。


何故こんなことに? と呆然としながら、アガットはリュドヴィックが何もない空間から取り出した婚姻証明書にサインせざるを得なかった。同じくリュドヴィックが取り出したインクに羽ペンを浸し、さらさらとサインするレオの気迫に押されたというのもある。尊敬する老魔法使いリュドヴィックの頼みを断ることなんてできなかったというのも。


それに――学院の貴公子と自分の名前が並んで書かれている、婚姻証明書に、のぼせあがってしまったというのも、当然あった。


かつてアガットは学院図書館に住んでいるような女の子だった。お下げ髪の。


そしてレオは、魔法剣技部に所属し主将をつとめ、国家大会に出ては優勝聖杯を持ち帰ってくるような男の子だった。


もう十年近く前の、ダキネラルが魔族との戦争に突入する前の記憶である。学院の女の子でレオに憧れと羨望を抱かない者はいなかったし、もちろんアガットもその一人だった。こちらは高等部で向こうは中等部で、この国では年上男に年下女の組み合わせはありふれていてもその逆は奇異の目で見られるというのも構わずみんなで熱狂した。それが楽しく、恋を知った気持ちになると大人になった気がした。


当然叶う可能性など視野に入れない恋心に育つ前の段階の憧れが、思春期のあのときのまま息を吹き返したかのようだった。


アガットは淑女らしくなく、小さく口を開けて婚姻証明書がリュドヴィックの開いた小さな時空門に吸い込まれていくのを見届けた。これから証明書は時空を通り抜け、明日の明け方には教会の専門窓口に届く。受理されると名前の書かれた二人は夫婦だ。


リュドヴィックはそれを説明し終えると、深々とレオに向かって頭を下げる。


「それでは、儂はこれにてお役御免にさせていただきたく。魔法使いとして、またあなたのお父上の臣下として、身を粉にしてお仕え申し上げてまいりました。できうる限りお守りいたしたく思いましたが、ここが限度でございます」


隣に立つレオが身じろぎし、彼の体温が上がったのがアガットにもわかった。驚愕のせいか、怒りのせいか。


いくら名目上夫になったといっても、今日が初対面のような人だ。頭一つ分以上高い位置のその顔を見上げることもできず、アガットはひたすら自分の腕を掴み、視線をうろうろ彷徨わせるしかない。


「リュドヴィック。お前まで俺を、シャヴァネルを見限るというのか」


「お許しくださいませ、閣下……いいえ、我が弟子レオ。儂とて国王に恩義が、魔法使い仲間には義理がありますじゃ」


「何故だ⁉ 臣従契約を交わした父上が、シャヴァネル公がすでに亡いからか!? 私が爵位を継ぐ前に追放されたからか!? 私、私が……公爵にすらなれなかったから……」


リュドヴィックは痛みに耐える顔をした。老人のそんな顔を、アガットははじめて見た。彼の中にレオへの確かな愛着があるのを知った。


だがリュドヴィックは細い声老いたしわがれ声で、きっぱりと言った。


「儂が忠誠をここで終わりにしたとして、謗る者はおりませんでしょうから」


そして魔法使いは杖を振り、消えてしまった。きれいさっぱり、跡形もなく。


あ、と小さな声がアガットの口から漏れたけれど、レオはそれに注意も払わなかった。リュドヴィックの名残りを探すように足を前に進め、しかし魔法使いは煙のようにいなくなったあと。彼は泣きたかったのかもしれない、汚い床に両膝をついて惨めさに酔いたかったのかもしれない。


アガットがいるので、それができないでいるのだった。


やがてのろのろとレオは振り向き、アガットを――妻になったばかりの子爵家の娘を見た。


彼女としては微笑めばいいのか、泣けばいいのかさえわからない。つい昨日まで主君筋だった貴公子の、精悍な美貌をただおどおどと見つめ返すだけである。


「アガット、来い。この家を案内する」


「はい、閣下」


「閣下はやめろ。――私はもう、何も持っていない男だ」


「……はい」


そうしてレオについて回った家の中は、古びて埃に塗れてはいるがなかなか立派なものだった。


玄関は複雑な防御の魔法陣が刻まれた硬いオークの木の扉で封鎖されていた。内側から閂がかけられ、今も強固に外界との接触を閉ざしている。


扉から入ってすぐのここが広く空間を取られており、埃よけの薄布をかぶされた家具がいくつか打ち捨てられていた。元は絨毯が敷いてあったのだろう跡が木の床に残る。


続く先の小部屋には小さな台所があり、石づくりの竈があった。ふちの欠けた皿が床に転がっている。アガットが拾い上げてみると、元は装飾を施された上等の食器だったのだとわかった。


「こっちだ」


と呼ぶレオについて次の戸を開けると、その先には廊下があり、両側に二つの扉が見える。開けてみるとそこも小部屋だった。それぞれに窓があり、天井の梁も柱も頑丈そうだ。大きさこそ、学院で宛がわれた二人部屋の寮の一室と変わりないくらいだったけれど。


「寝るのはここでよさそうだな」


「でも、寝台がありません」


レオはひょいと片方の眉を上げた。


「寝台などなくても、寝転がれるだけで御の字だ。戦場ではそうだった。――が、そうだな。確かに女には厳しいかもしれん。なんとかしよう」


「はい。申し訳ありません」


アガットは慌てて頭を低くした。思わず口答えをした自分が恥ずかしかった。まるで、対等のような口をきいて。――まるで本当の妻になったと自惚れているみたいじゃない。


「いい。そなたは……私の妻だ」


言い慣れない単語を口の中で転がすような声だった。レオは気まずそうに眼を瞬いた。目の前の女がまがりにも貴族の娘であり、戦場はおろか家の中と学院と買い物市場くらいしか知らない身の上だったのを思い出したようだった。


「ここはおそらくシャヴァネル家の領地の一画だろう。訪れた覚えがあるところだ。代々の狩猟小屋だった。少なくとも冬の狩猟の時期にならなければ、ここのことを思い出す者はいない」


と、小さな咳払いと共に吐き捨てるように言う。


「ひとまず、今日のところはここで寝ろ。詳しいことは明日、話す」


「かしこまりました、……レオ様」


レオは一度がりがりと頭をかいた。それからばたんと重い木の扉を開けて、右の小部屋に入り姿を消した。蝶番が悲鳴のような音を立てる。


アガットはしばらく立ち尽くしていたが、そっと左の扉を開けて中に入った。廊下の突き当りに設けられた明り取りの窓から、三日月と見えない花火の反響が忍び込む。


本当に何もない、小さな部屋の片隅にアガットは座り込んだ。一度座ると、もう立てなかった。衣服の上からコルセットの留め金とリボンを外し、痛む足をブーツから解放する。


毛布も何もないのに寝られるわけなんてないと思ったが、丸くなって目をつぶり、開くとすでに朝だった。

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