第3話
病院に1週間通い詰め、検査を行った結果、私の難聴はどうやら内耳の障害による伝音難聴という種類の難聴らしい。補聴器の訓練、発声機能の回復、手術のために1ヶ月入院する事になった。私は診察を受けた病院には空きがなかった為に町はずれの病院に移動になった。
人生初の入院。母は娘が1ヶ月も家を離れるのが心配なのか、入院に持っていくスーツケースは元のサイズの2倍にまで膨らんでいた。着替えや生活用品だけとは思えない大きさ。一体母は何を入れたのか。
「頑張ってね。空いてる時間に会いにいくからね。」
昨日からつけ始めた補聴器のおかげで、ある程度の生活音までは聞き取れるようになったが、高い声や音はまだ聞き取りづらい。部分部分しか聞こえない母の声だが、この言葉だけは、はっきりと聞き取ることができた。
「いって…きます。」
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入院病棟の5階。505号室。ぱんぱんの鞄を引きづりながら、入るとそこには一つのベッドと、シャワー、トイレがついている、一人用の部屋だった。てっきり、ベッドとベッドがカーテンで仕切られている大部屋かと思っていたので、驚いた。
持っていた携帯が震える。母からのメッセージだ。
「どう?びっくりしたでしょ。お母さん奮発したんだから。真冬寂しいだろうから大部屋にしようとしてたんだけどね。修学旅行で周りに人が居ると寝れないってあなたが言ってたから。なにかあったらすぐに連絡しなさいよ。」
母からのメッセージにはわたしへの愛がたくさん込められていた。
確かに、小学校の修学旅行で寝れなかったって話をした気がする。6年前になにげなくした会話がこんなところで役にたつとは思ってもみなかった。
また携帯が震える。
「今日中にスーツケースの中身整理しなさいよ。」
「みてるのはわかってるんだからね。返事してね。」
「補聴器痛かったりしたら、絶対看護師さんに言うんだよ?」
母からの心配のメッセージは止まらない。耳が聞こえなくなった後、母からメッセージを送られてくる頻度は前よりも圧倒的に多くなった。
母と同じ熱量で返事をしていたらキリがないので、とりあえず、「はい」とだけ打つ。既読のマークはすぐにつき、嬉しそうな顔のスタンプが送られてきた。
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ビジネスホテルより少し広いくらいの部屋に、ぱんぱんのスーツケースを広げる。あまりの荷物の多さに、荷物だけで足の踏み場がなくなってしまいそうだった。
スーツケースの中には、1週間分の着替えに、歯磨きやタオル、その他の生活用品と、謎の黒い袋が入っていた。この黒い袋がはかなり重く、スーツケースの半分を占めていた。
袋を持ち上げると、本のようなシルエットが浮き出る。気になって中を見ると、それは私が今まで弾いてきた、ピアノの楽譜の全てだった。使い古して色褪せたもの、表紙が破けているもの、血眼で練習した日々が思い起こされる。最近弾いたものから、小学校の頃に弾いたものまで全部がこの袋に入っていた。
「余計なお世話を。こっちは必死に忘れようとしてんのに!!!」
手元のあった楽譜を手に取り、壁に投げつける。
ガンッッッッ!!
目線を下にやると、
「大会本番頑張れ!」
と母直筆の付箋が貼られたベートーヴェンの楽譜が目に入る。その付箋のおかげでコンクールを鮮明に思い起こされる。
「はあ、はあ……」
頭に血が昇る。心拍数が上がる。呼吸が乱れる。
大好きだったピアノを本能で拒絶する自分が怖かった。
とりあえず落ち着こう。
私は散乱した部屋を尻目に廊下へ飛び出した。
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