レッド・レター・デイズ
山口 隼
第1話 手袋の男
草原を走るささやかな川は、やがてメキシコ湾へと流れ落ちる。安らぎと豊かさをもたらすせせらぎは、しかし時に姿を変える。雷が鳴り、嵐の訪れと共に暴れだす。底も見えぬ泥水が畑や農場さえも犯し奪い尽くしていく。抵抗などできない、圧倒的な力だ。
やがて荒天が過ぎ去る。川は何事もなかったかのように、また清流へと戻っている。だがその姿は以前と完全に同じではない。
「つまり君も、元に戻ることはできない」
ケリーは笑顔を見せた。視線は床に転がされた男に向いている。ソウ、とケリーは優しげに、粘つくような声で彼の名を呼ぶ。
「二つ選択肢を用意した。死ぬか、すべてを話してカンザスあたりで新しい生活を始めるか。僕なら鉄道でフィラデルフィアに行くだろうけれど。さあ、どうする」
「生憎と列車は嫌いでね。カロライナ・スペシャルにはおふくろが乗ってたんだ」
ソウは唇を捻じ曲げて皮肉に笑った。背中に
「ソウ、時間稼ぎはやめてもらおう」ケリーは明瞭な、東海岸のアクセントで言った。「決断できない理由があるかい」
「あるね」ソウは短く答えた。「話せばおれは追われることになる」
ふむ、とケリーはもっともらしくうなずいて頬を撫でた。皺がなく、髭の一本もない、卵のように剃り上げられた白い肌だった。テキサスの男としては異様な清潔さの中で、黒い瞳だけが泥の深さを帯びていた。
気味の悪いやつめ、とソウは内心で悪態をつきながら、
「おれを、おれたちを奴らから逃がすと保証するなら話す。そうじゃなけりゃ拷問される、間違いなく、な。苦しんで死ぬのはごめんだね」
「なるほど、理解した」ケリーは口元を緩めて立ち上がった。「君は、僕らが本気でないと思っているらしい」
「そういうわけでは……」
「そうだとも」
ケリーの右手が滑るように動いた。間を置かず銃声が響いた。
抜き打ちにリンダを撃っていた。女が痙攣し、一拍置いてこめかみからドス黒い血が流れ落ちた。
「これで理解できたはずだ、状況を。君がグリズリーと平和条約を結ぼうとするほどに間抜けだったとしてもね」
ケリーの言葉も、ソウには届かなかった。まるで口が利けなかった。殺しやがった、という衝撃だけが頭の中をぐるぐると回り、怒りを飛び越えて背筋が凍った。この男にとって人の命などちり紙かマッチぐらいの価値しかないのだと理解した。おれはまだ火が点くかもしれないから生かされている。最悪の相手だ、とソウは悟った。これまで密造酒の売価を交渉してきたようなギャングとはわけが違う。こいつにとって暴力は最後の手段なんかじゃない。日常だ。
「金庫がある」ソウは唇を舐めながら辛うじて答えた。「隠し部屋に」
「中身は何かね」
「売上と地図、引き渡し場所のわかるやつだ」
ケリーはよろしい、と笑顔を作り、先からウィンチェスターを構えていた黒人に、顎で「連れて行け」と合図をした。それから煙草に火を点け、一口吸ったところで思い出したように、「ああそうだ、チャールズ、嘘なら撃ち殺していいぞ」
承知しました、と男は低い声で答え、二人は奥へ消えていった。
一人になって、さて、とケリーは手を擦り合わせて戸棚を物色し始めた。スイートコーンの缶詰がいくつかと干し肉が見つかったが、荷物を重くするほどのものではなかった。だが引出しからはブランデーが見つかり、ケリーは嬉々として瓶に口をつけた。「やはりレアードは間違いないな」と呟いて口元を拭った。その下でリンダの死体がまだかすかに蠢いていた。
ケリーはそこで初めて死体に気づいたように目を丸くし、膝を屈めて顔に見入った。薄い翠の目を、特に丹念に観察した。しかし彼の思う色とは違っていた。こんな汚れたものではないと思った。記憶の中にある、少女の鋭敏さはもっと美しかった。
「どこにいるんだい、かわいいネッサ」
とケリーは嘆き、冷たくなった手を取った。検分するように掌を握って弾力を確かめ、長い指を一本一本観察し、泥で汚れた爪を様々な角度から見た。
「所詮偽物か。素材は悪くないのだがね。手入れがなっちゃいない」
大仰にため息をついて、ケリーは鞄に手を差し入れた。中から現れたのは薄橙の手袋に思えた。いや、手袋であることは正しい。ただし人の皮で作られたものだった。ケリーはそれを光に透かすようにして眺めた。肌の皺や丸く綺麗に切り揃えられた爪に陶然とうなずいて、これぐらいでないと価値は出ないな、と悲しげに眉をしかめた。
ケリーは首を振って手袋を大事そうに鞄に仕舞おうとした、まさにその時銃声がした。二発、腹に響くような音だった。男の目の色が変わった。今しがたまでの、文学青年を思わせる感傷的な色は一瞬で消え去り、淀んだハイエナの気配を湛えていた。
駆け上がってくる足音。奥の扉が蹴り開けられ、
「クソ野郎、くたばりやがれ!」
ソウは散弾銃の引き金を引き、ぎょっとした。弾は正面にいたはずのケリーに届かなかった。遮蔽物はなかったはずだというのに。
弾丸を受け止めたのは死体だった。ケリーはリンダの死体を掲げていた。肩の横から銃口が昏い口を開けていた。
あッ、とソウは絶叫した。ケリーは無言で撃ち抜いた。乾いた音がして、ソウは二三歩よろめき、どうと後ろ向きに倒れた。ケリーは素早く駆け寄り、心臓に二発撃ち込んだ。それで男は完全に絶命した。
ケリーはしばらく立ち尽くしていたが、やがて我を取り戻し、
「おい! 誰か生きているのか! 全員くたばったか!」
うめき声がして、ワードローブの後ろから一人這い出してきた。チャールズは頭から流れ出ている血をそのままに、
「ボス、自分以外は駄目です。ロブが油断しました……」
「縄を解いた馬鹿は誰だ!」
「ロブです、ボス」
「お前は何をしてた!」
「一瞬目を離した隙に……」
ケリーはまだ何か言いたそうに口を開きかけたが、天を仰いで、
「ああ、畜生。終わったことは仕方ない。僕は切り替えのできる男だ。ロブも死で償ったとしよう。やつらの銃と金は持っていけよ」
「了解です、ボス」
ケリーはうんざりしたとばかりに目を閉じ、ひとしきり叫んでからナイフを取り出した。それは死骸に向けられていた。
「いい死に様だった、ソウ。できれば生きているうちに、女の前でこうしたかったが」
刃が首元に突き立てられた。水を零したように血が溢れ出てくるが、ケリーは一切気にしなかった。切れ目からさらにナイフを入れ、皮を引っ張りながら剥がしていく。まるで靴下を脱がせるような手つきだった。苛立っていたケリーの表情が次第に落ち着き始め、チャールズが戻ってくる頃には何か呟きながら慎重に目元へ取り掛かっていた。皮の下から真っ赤な筋肉が顕になっていた。
チャールズは耳を澄ませた。
――この地から離れ/よりよい場所へ/優しい声が呼んでいる/オールド・ブラック・ジョー
ケリーは上機嫌に口ずさんでいるのだった。死を悼む歌を。
チャールズは何も言わず、ただかすかに目を細めた。
ケリー・"ヘッズマン"・ホワイト。ケリーと会って死んでいないものはそう呼ぶ。かつては斬った首を持ち歩いていたことでついた悪名だった。殺した相手の顔を剥ぎ、次の犯罪に使う男。
「チャールズ、手が空いたのなら」ケリーは肩越しに表のほうを指し、「女の顔も剥いでおいてくれ。誰かが使えるかもしれない」
承知しました、とチャールズは恭しく言った。その間にも、ケリーは笑みを浮かべながら、作業を続けている。
赤い血が、静かに床へと染み込んでいった。
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