第6話 夏樹の正直な気持ち
夏樹の手がこちらに伸びて来る。
もうすぐ頬に触れそう……というところで、彼がピタリと動きを止めた。
視線を横にスライドし、七美に向かって冷たい口調で告げる。
「彼女に話があるから」
七美はわざとらしいきょとん顔を作り、肩をすくめるようにして、手のひらを上に向けて答えた。
「ええ――私は気にしないから、どうぞ続けて?」
「君の気持は聞いていない。部外者は席を外してくれと言っている」
「それはお断り」
小首を傾げ、意地悪な笑顔を浮かべる七美。それから綾乃のほうを見て、軽くウィンクしてみせた。
「一応説明しておくけど、これはね――彼を焦らしているのよ。見事なテクでしょ。夏樹の気持ちをあなたに向けさせるための、高度な策略だから」
そう聞かされた綾乃は頭を抱えたくなった。
脈がないのに焦らしても、逆効果だと思うのだけど……しかも夏樹本人に聞かせるって、どういう神経しているの?
「やめて七美……」
呻くような声が漏れる。
「大丈夫よ、とことん押していこ」
……いえ。『予言の書』にはむしろ、『押してだめなら、引いてみな』と書いてあったのですが。
「七美、お願い。ふたりにして」
今度は強めに頼むと、七美がこれみよがしにため息を吐く。
「分かったわ、あなたがそこまで言うのなら……。あ、でもそうね、この男がいやらしいことをしないように、遠くから見張っておいてあげるわね。だから安心して!」
まったく安心できない! それに彼がいやらしいことなんてするわけないのに。
気まずさから、俯いた綾乃の頬が赤くなる。
夏樹のほうから小さな舌打ちが聞こえた気がするけれど……気のせいよね?
嫌いな女のことでからかわれたから、心底忌々しく思っているとか?
それはさすがにないと思いたい。悲しすぎるわ……。
ふたりきりになると、夏樹は長椅子の隣に腰を下ろした。
彼が手に薄青の封筒を持っているのに気づき、
「その封筒は?」
と尋ねてみた。ラブレターかしら、と思う。
この学園では改まった連絡の際、データでメッセージを送るのではなく、手紙という形に残るもので送る子が多い。
彼はプレゼントや手紙をしょっちゅうもらっているみたいだ。
綾乃という(便宜上の)婚約者がいても、夏樹は女子にとても人気がある。
それに対し、綾乃は男子に不人気。思い返してみても、告白されたことすらない。
……どうしてかしら。
夏樹に好かれていると思い込んでいた時は、それでも全然構わなかったのだけれど、すべてが下向きになってくると、そんな些細なことも気になってくる。
……実は私って、男子から見て、可愛げがない?
意中の相手以外からどう思われようが、どうだっていいじゃない……確かにそうなのだけれど、段々とそんな余裕も失いつつある。
誰にも見向きされないような女だから、彼に愛想を尽かされたんじゃないか……なんて落ち込んでしまって。
「これは最近、僕が忙しくしている理由」
封筒を手の中で弄ぶようにしながら、夏樹がぽつりと呟きを漏らす。
彼の冷ややかな美貌に、一瞬――愉快そうな、それでいてひどく不快そうな、薄い笑みが浮かんだ。
「いずれ決着はつけるけれど」
どういう意味かしら?
小首を傾げる綾乃に、彼は詳しく語る気はないようで、さりげなく話を変えられてしまう。
「ところで……今夜の『プレ・パーティー』のエスコート、無理そうなんだ」
……まあ、なんてこと。
思わず目を瞠る。
じゃあ、今夜の『プレ・パーティー』で、夏樹がヒロインと会うことはなくなった?
それは喜ばしいことであるはずだ。彼がほかの女性に心惹かれるのが分かっていて、それを見守るのはつらい。
けれど。
そのイベントがなくなっても、やはりどうにもすっきりしない。なんともいえないおかしな気分だ。この感情をどう処理したらいいのか。
もしかすると心のどこかに『嫌なことは早く済ませたい』という気持ちがあって、それが今胸をモヤモヤさせているのだろうか。
夏樹とヒロインがいつか出会う運命ならば、こちらの覚悟ができているタイミングで済ませてほしかった。
パーティーだったら、ドレスと化粧でばっちり武装しているから、通常時より心を強く保てる気がする。
けれどまあ、無理強いして、シナリオの流れに乗ることもないか……そう思い直し、綾乃はこくりと頷いてみせた。
「承知しました」
「……かまわないの?」
綾乃があっさり引き下がって彼は助かったはずなのに、どうしてだろう。
なんだか不穏な空気を漂わせているような……?
こちらの戸惑いが伝わったのだろうか。彼が物思うような表情を浮かべる。そして不可解なことを尋ねてきた。
「君はひとりで出る?」
「え、そんな、出ません」
咄嗟に嘘をついてしまった。口に出した途端、『好きな人を騙した』というやましさが込み上げて来て、反射的に視線を逸らしていた。
彼が不参加だとしても、綾乃はヒロインを観察するために、今夜のパーティーに出席するつもりだ。
……だけどそれって姑息というか、なんだか惨めよね。
夏樹は彼女のどこに惹かれるのだろう? 私よりも彼女は素敵なの? 観察する理由は、ドロドロした嫉妬にほかならない。
胸がズキズキ痛んで、上手く表情を取り繕うこともできなくなっていた。
すると、彼が。
「君の顔」
夏樹の掠れたような声が耳に届いて、顔を上げた。
彼は伏し目がちに、まるで嫌悪をこらえているかのように、苦い呟きを漏らした。
それはたぶん、ほとんど無意識だったと思う。彼にしては迂闊だったから。
「……きついな」
きつい……。
ここまで正直な気持ちを吐露されたのは初めてで、動揺してしまう。
そこまで私の顔が嫌いだなんて。
パーティーを前にして、綾乃の生命力はほとんどゼロまで削られた。
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