婚約者に愛されない悪役令嬢が予言の書を手に入れたら

山田露子☆12/10ヴェール漫画3巻発売

side-A

第1話 階段落ち


 ここはまるで世界の果てだ。


 アクリル板を隔て、こちらとあちら、明暗ははっきりしている。


 紫野夏樹(しの なつき)は刑務所の面会室に来ていた。


 対面にいるのは、幼女誘拐犯――当時五歳だった西大路綾乃(にしおうじ あやの)をさらった男。


「私は彼女を追うことを、やめはしない」


 仕切りのアクリル板に右手を当て、不気味なほど静かに、凪いだ瞳でこちらを覗き込んでくる。親指だけを水平に開き、長さが綺麗に揃ったほかの四指で、アクリル板をグッと押すようにして。


 愛憎の果て……ギリギリ踏みとどまれるか、あるいは、真っ逆さまに堕ちるか。


 それは本人次第。


 夏樹は薄く笑んでみせた。


「僕とあなたは、とてもよく似ている」




 :::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::


 はじめまして、西大路綾乃様。


 驚かないでね。


 あなたが手にしているこの本には、これから起こる未来の出来事が書いてあるの。


 これは『予言の書』です。


 あ、今――馬鹿じゃないの、って思った?


 まぁ、信じる信じないは、あなたの勝手だけどさ。


 でも、そうね――この本がゴミ箱に放り込まれないように、私はあなたの注意を引く必要がありそう。


 じゃあ、早速いくわよ。


 とっておきの情報を教えてあげる。


 あなたは今すぐ、高等部の校舎に向かったほうがいい――ダッシュでね。


 うーん……間に合うかなぁ? どうだろう、間に合うといいねぇ。


 目指すのは、昇降口に続く大階段よ。


 あなたの大事な人が、これから大階段で危険な目に遭います。


 それは誰かというと、あなたのお姉様です。


 彼女、これから階段落ちして、大怪我を負う。


 この本を閉じたあなたは、全速力で駆けつける――……でもおそらく、間に合わないと思うんだ。


 ごめんね。


 失敗から学ぶことって多いんだよ。


 だからそれを知るためにも、駆けつけなさい。


 そして惨状を目撃して、自覚するの。


 今の自分が無力であることを。


 これからあなたは学ばなければならない。


 賢く生きていく方法を。


 だっこの事件は、ほんの始まりにすぎないのだから――


 :::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::⁑:::




 この本が手に入ったのは、昨日のことだ。


 綾乃が通う学園にはロッカールームがあり、生徒は鍵つきのロッカーをひとつずつ与えられている。


 あの時、休憩時間に荷物を取りに行った綾乃は、ロッカーの中に、見たことのない緋色の本が入っていることに気づいた。


 いつもロッカーには鍵をかけている。


 ということは、これを入れた『誰か』は、鍵がかかっていたロッカーをどうにかして開けて、本を入れ、そしてまた鍵をかけたのだ。


 ――綾乃はその本を取り出した。ズシリと重い。革装丁の立派なものだ。


 中を開き、一ページ目を読んだ綾乃は色を失った。


 何これ……ただの悪戯? でも……


 眉根を寄せ、考えを巡らせる。


 いくらなんでも、仕かけが凝りすぎていないかしら?


 本はしっかりしているし、印刷されたものだ。


 そしてロッカーの鍵――これを中に入れた人物は、鍵開けのスキルがあって、かつそれを実行に移せるメンタルの持ち主なのだ。明らかに一線を越えている。


 綾乃は本を持ったまま、ロッカールームを出た。


 初め早足だったのが、すぐに駆け足になる。


 中等部の校舎から飛び出した時には、全速力で駆けていた。


 そのまま中等部の敷地を出て、高等部を目指す。


 成藍(せいらん)学園は、中等部と高等部が隣接しているものの、敷地はしっかりと区切られているのだ。


 走った。ただひたすら足を動かし、夢中で走った。




   * * *




 高等部の敷地に駆け込むと、昇降口へと続く外階段が視界に入った。


 踊り場に三人の男女が立っていて、言い争いをしているようだ。揉み合っているのが遠目にも分かる。


 それを見てゾッと血の気が引いた。


 ――お姉様だわ!


 階段の端に追い詰められている女子生徒。


 後ろ姿であっても、姉だとすぐに分かった。長い髪を左右に分け、きっちりと三つ編みにしている。


 残るふたりは、男子生徒と、女子生徒だった。


 ひとりはとびきり麗しい外見をした男子生徒だ。彼を見てすぐに、深草楓(ふかくさ かえで)であることが分かった。


 中等部二年の綾乃が、高等部一年の彼を知っているのにはちょっとした理由がある。以前、彼が姉と一緒にいる場面を見かけたことがあったからだ。


 そしてふたり目は、険しい顔で何かを罵っている女子生徒。彼女のことはよく知らない。美人ではあるが、かなり気が強そう。


 動揺のあまり綾乃の足がもつれる。


 待って、お願い、私が行くまで、待って!


 しかし無慈悲にも、願いは聞いてもらえなかった。


 気の強そうな女子生徒が目を見開き、何かを叫びながら、姉の胸を突く――……


 華奢な姉の体は抵抗するすべもなく踊り場から押し出され、背中から宙に放り出された。


 落ちる――


「お姉様!」


 がくりと膝から力が抜けそうになるのを、根性で抑え、歯を食いしばるようにして駆ける。


 階段はまだ遠い。絶望的なほどに遠い。


 嘘よ。嘘、嘘、誰か助けて!


 視線を素早く巡らせるが、階段下に人影はない。姉の体を抱き留めてくれそうな人は誰も存在しなかった。


 華奢な体がもうすぐ硬いコンクリートに叩きつけられてしまう。


 ――その時。


 横手から、弾丸のようなスピードで誰かが飛び出して来た。


 しなやかに地を駆ける彼は、ストライドを大きく取り、滑り込むようにして階段下に到着すると、右手で手すりを握り、左手で落ちて来た姉の背中を包み込んだ。


 それは奇跡のような離れ業(わざ)だった。


 人間離れしているその華麗な動作に、綾乃はただ見入ってしまう。


 姉の命を救ったその彼は、まさに救世主だ。


 あれだけのことを簡単にやってのけ、なおかつよろけさえしていないのだから、運動神経が相当良いに違いない。


 姉を助けてくれた恩人――綾乃は彼の雄姿を心に刻み込んだ。


 美しく通った鼻筋に、色気の滲む瞳、薄い唇。艶やかな黒髪は走り込んだせいで乱れてはいたものの、そこから覗く横顔は、とんでもない美形である。体つきは均整が取れ、長身な上に手足が長い。


 ああ、なんて素敵な人なの。もう私、あの方に全財産渡してもいいくらいよ。


 感動のあまり胸が痺れた。


 あと五メートルほどで綾乃も階段下に着く。これでもうなんの心配もない。


 ところが。


 救世主は胸に抱え込んだ姉の顔を一瞥した途端、嫌悪に顔を歪めたのだ。


 そして吐き捨てるようにこう言った。


「――お前みたいな根暗女、助けるんじゃなかった」


 そして彼は姉の体を無造作にポイと投げ出した。そして投げ出したあとは、後ろを振り返りもせずにさっさと立ち去ってしまう。


 は……なんですか、それ……!


 すでに近くまで走り寄っていた綾乃は、慌てて姉を抱き留めた。


 急転直下の出来事である。


 あの無礼な男は、どういうつもりなのでしょう……!


 可憐なお姉様に対し、根暗女だなどと、よくぞ言えたものだわ。


 お姉様は大きな眼鏡をかけているし、髪形もきっちりと編み込んだ三つ編みであるから、パッと見は地味かもしれない。


 けれど綾乃は、この女性が誰よりも美しいことを知っている。彼女がその美しさを封印しているのには、理由があるのだ。


 姉妹は幼い頃に誘拐された過去があり、その直後から、姉はこうなった。誘拐されたのは綾乃も同じだけれど、その後顕著に影響が出たのは、姉だけだ。


 とにかく。


 姉を助けてくれたという感謝よりも、顔を見た途端に態度を急変させた、男子生徒の暴挙に怒りが湧いた。


 呼び止めてひとこと物申そうかと思ったのだが、抱え込んだ姉の体が弱々しく震えているのに気づいて、ハッとして声をかける。


 どこか怪我でも?


「お姉様……! ご無事ですか?」


 顔を覗き込むと、紙のように顔色が白い。


「わ、私……どうして? 何が……」


 姉の動揺は相当なものだった。


 階段から落ちたと思ったら、無事だった……ホッとするよりも、訳が分からず脳が混乱しているのだろう。


 今思い返してみても、あの男子生徒が間に合ったのは、神様が気まぐれを起こしたとしかいいようがない奇跡だった。


 姉妹で地べたに腰を下ろし抱き合っていると、綾乃の肩に誰かの手が置かれた。


 視線を上げると、友人の藤森七美(ふじもり ななみ)が立っている。


 ……そういえば、ロッカールームには、彼女と一緒に行ったんだった。


 綾乃がいきなり出て行ったので、心配してくれたのだろう。今ここにいるということは、あとを追いかけて来てくれたようだ。


 肉食系女子でいつもはキリッとしている七美の顔が、今はねぎらうように穏やかだ。


 友人に肩をポンポンと叩かれ、綾乃はやっと肩の力を抜くことができた。


 傍らに放り出された革装丁の本は、落ちた拍子にページがめくれ、開いた状態にある。


 そこに書かれていたのは、驚愕の内容で――


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