【真戸矢 信司編】一第三話一
《あの日》が来るまで、俺は《いつも通りの日常》を謳歌していた。 登校するときは一緒にいても、放課後はみんな自分達の所属している部活に行くことが多かった。秋人と緋都瀬はバスケ部に行き、玲奈はバトミントン部に行き、羽華は美術部へ行き、祈里は、部活には入っていないが、バスケ部に見学に行くことが多かった。 俺は、特にやることもなかったので、部活に入部することはなかった。 本当は、部活に入ったことがよかったかも知れない。
でも、俺に、そんな余裕はなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……うっ、げほげほっ!!」
男子トイレで、俺は、兄さんからの《暴力》に耐えていた。
兄さんは、俺が《日常》を送るのが気に入らないと、すぐに腹部で暴れ回るんだ。小さな暴力なら、耐えられる。だけど、今日は激しくて、トイレの中に入らないと耐えられないほどだった。
「ごめん、なさい…ごめんなさい、ごめんなさい……!!兄さん、お願い、許して…」
便器に座り、蹴られ続ける腹部を庇うように丸くなる。そうするしか、俺には出来ないから。 涙を流しながら、耐えていた時だった。入口の向こう側から二人組の声が、こちらに向かってきているのが聞こえてきた。
「……っ…」
咄嗟に、信司は、口を両手でふさいだ。さすがに宗弥も驚いたのか、暴力をやめた。 やがて、二人組…孝治と優太が笑い声を上げながら男子トイレの中へと入ってきた。
「………」
(こうちゃんと…ゆうちゃん…?)
何故だろう。とても、嫌な予感がする。 両手で、口を塞ぎながら、二人の会話に意識を集中した。
「あー…今日の小テスト疲れたよなぁー」
「はは、孝ちゃん、苦手だもんねー」
「ま、期末とか違って、すぐに点数分かるからいいんだけどさー…待ってる間のあの時間って、眠くなるんだよ」
「ああ、わかるわかる。僕もそうなるよ」
「だろう?で、毎度のごとく点数と名前と一緒に発表されるじゃん?あれ、たまんねぇよなぁ…」
「確かに。今日も満点は、秋ちゃんだったんだよね」
「チッ…気に入らねぇの…」
「………」
孝治の舌打ちと共に放たれた言葉に、信司の心臓が高鳴った。
「え?何が?」
「たかが、小テストぐらいで満点とって、ドヤ顔しやがってよ。ホントに気に入らねぇ奴…」
「い、いいじゃんか。それぐらい、許してあげようよ。それに、秋ちゃんはドヤ顔なんてしてないと思うよ?」
「…俺には、そう見えたんだよ。ったく…一回分からせてやらないとだめだな。 あの《オモチャ》は、痛い目みないと分からないんだよ」
「こ、孝ちゃん…まさか、またやるの?」
「当たり前だろ。どうせ、俺達には逆らえないんだし。なんだよ?ビビってんのか?」
「そんなこと…ないけど…」
「………………」
(今、なんていった?)
秋ちゃんが、《オモチャ》?? は?何言ってんだよ?どういうことだよ?またやるってどういことだよ?ズボンのチャックを閉める音が二つ響き、 水が流れる音がしたあと、孝治が言った。
「別にいいじゃんかよ。アイツを虐めようが何しようが、俺らの好きにやっていいんだ」
「…でも、さ。もう、そろそろ…やめたほうがいいんじゃない?いじめてることが竜舞先生が知っちゃったら、どうするの?」
「ははは!そんな心配しなくていいって。ちゃんと先生達の行動は把握してるし、バレない方法はいくらでもあるんだ」
「……まあ、孝ちゃんがそう言うなら、いいけどさ。ほどほどにしてあげないと、秋ちゃん、かわいそうじゃない?」
「…なんだよ?お前。アイツの味方になったつもりか?」
「そ、そんなことないよ…」
「だったら、一々口答えするな。俺に黙って付いてくればいいんだよ」
「う、うん。 分かった…」
「…………」
(そうか。優ちゃんは、逆らえないだけだ。悪いのは…孝治だけだ)
ドロリと、黒い塊が池の底に落ちるような感覚を感じた時だった。
【長サマヲ、助けタイカ?】
「……っ」
兄ではない別の声に、信司は体を強張せた。 おそらく、《罪鬼の先祖》の声だろう。 《長》とは秋人のことだと思った信司は、頷いた。
(秋ちゃんを…助けたいです。でも、俺には、そんな力はありません)
【クク…ソウヨナ。お前ハ、我ノ試練モ乗り越えられないオ愚かモノダカラナァ?】
(申し訳、ありません…!)
すでに、孝治と優太の気配は遠ざかっていた。声は出してもよかったが、《罪鬼の先祖》への恐怖で信司は、声を出せなかった。
【愚かなオマエニ、再起のキカイヲヤロウ】
「…え…?」
【ナニ…簡単なコトヨ。《鬼巫女》ヲコロセ】
「鬼巫女…? ま、まさか…!!」
チリリン。
鈴の音と共に、こちらを見て、にこりと笑顔を浮かべた祈里が、脳裏を過ぎった。 彼女を、殺す…?
「い、いやだ…!いやだいやだ…!そんなの、絶対無理です!!」
【出来ぬノナラ、貴様ガコウナルダケダ!!】
「あ、がっ…!」
天井から黒い両手が伸びると信司の首を強く強く、締め始める。上へと持ち上げられ、抵抗しようにも、できない状態だった。
「やめて……ぐ…!し、しぬ…いやだ…!」
【ナラバ、我ノメイニシタガエ。 鬼巫女ヲ殺したアカツキニハ……母ト父ニ、会わせてヤロウ】
「え……父さんと、母さんに、会える…?」
《罪鬼の先祖》の言葉に、信司は、父の顔を思い浮かべた。母のことは分からないが、顔を見てみたいと思ったことはある。 祈里を殺せば、大好きな父と、自分を産んで、亡くなってしまった母に、会える? 頭の中で《罪鬼の先祖》の言葉がグルグルと、回っていた。少しずつ、信司の首を、絞める力が弱くなっていく。 信司の目と、天井に浮かぶ大量の赤い目と目があった。
「……や、る…」
【ン?何と、イッタ?】
「いのりちゃんを……殺します…!! 今度こそ…使命を果たしてみせます…!! ですから、どうか……約束を、お守り下さい…!!」
信司は、涙を流しながら宣言した。その言葉に、ニヤリと、赤い目が笑い始めた。
【キヒヒヒヒヒヒ…!!もちろんダ…約束ハ、守ロウ】
「ありがとう…ございます…!」
【こちらニ、来るノダ。お前ニ、マジナイヲ、ヤロウ】
「え?」
信司が目を見開いた時だった。 天井に信司の顔が、光の速さで吸い込まれていった。
「……っ……っ……」
両足をばたつかせ、何かを言っているが、周りには響かない。その間にも信司の体に《何か》が送り込まれる度に、びくりと体が魚のように跳ね上がっていた。 痙攣が収まると、信司の体が、黒い手によってトイレの便座の上へと座らされた。
「………」
目から光が消えた信司は、しばらく呆然としていると、腹部が、大きな蛇が通ったようにぬらりと動いた。 それに反応した信司は、ニヤリと笑い、腹部を撫でた。
「キヒ、ヒヒヒヒヒ…!!絶対に、使命を、果たさないとね…!! ヒヒ…!」
この時、信司の精神は、《罪鬼の先祖》によって徹底的に壊された。信司と共に、兄の宗弥も心を壊され、《鬼の鎖》で縛られた。しばらくは宗弥は、自由に動けないと共に、信司に暴力を振るうことも無くなった。 信司の頭の中にあるのは、ただ一つ。
《両親に会いたい》
その願いのために、祈里を殺すことを《罪鬼の先祖》に誓ったのであった。
END
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