名探偵とワトスン君
僕は吐き気を催した。
それは、被害者が、昨夜顔を突き合わせていた友人だった、ということにも由来するし、別のものにも由来する。
吐瀉物である。
貞廣の顔のあたりが吐瀉物で覆われていたのである。それが異臭を放っていた。
その光景が、僕にフラッシュバックさせたのは、十七年前の祭りの光景である。
あの日、運悪く毒豚汁を飲まされてしまった村人は、急な吐き気を催し、その場で戻していた。
あの日の地獄のような景色が、否が応でも僕の脳裏に過ぎったのだ。
「犯人を見つけたぞ!!」
背後から、男性の、威勢の良い叫び声をした。
やがて、叫んだ男性が、人だかりの中央、つまり、貞廣の死体のあたりに歩み出てくる。
男性は、別の男性のTシャツの首根っこを捕まえている。
――いずれも僕の知っている人だった。
「犯人を見つけたぞ!」と叫んだのは、
そして、冬馬に引きづられている男は、あの垂れ目の男だったのだ。
「この男が犯人だ!」
垂れ目の男が、冬馬によって、貞廣殺しの「犯人」だと糾弾されていたのである。
「違う! 俺じゃない! 離してくれ!」
そして、垂れ目の男は、犯行を否認している。
「暴れるな! 大人しくしろ!」
冬馬は、大工を生業にしており、鍛えられた身体を持っている。冬馬は、自慢の握力を使って、垂れ目の男のTシャツの襟を締め上げる。
「痛い痛い! 離してくれ! だいたい、俺が犯人だという根拠はあるのか!?」
「根拠? お前、怪しいんだよ! 最近この村にやって来て、不審な行動を繰り返してただろう?」
不審な行動をとっていた、というのは、まさに冬馬の言うとおりである。おそらく娘の唯鞠からの被害申告なども受けていたのだろう。
とはいえ、それだけの根拠で、この垂れ目の男を貞廣を殺した犯人だと断言するのは、さすがに論理が飛躍しているように思える。
案の定、垂れ目の男は、
「違う! 不審行動じゃない! アレにはちゃんとした目的があったんだ!」
と反論する。
「はあ? 目的? なんだよそれ?」
「調査だ!」
「調査だって? 何のための?」
「……そ、それは……」
垂れ目の男は、口篭った。
この男は、秘密主義者なのである。自分自身のことは、極力他人に話さないタチなのだ。
とはいえ、黙ってしまったことで、冬馬による、首の締め上げがさらに厳しくなる。
「く……苦しい。やめてくれ! ちゃんと話すから!」
もはや拷問である。さすがに垂れ目の男が不憫に見え始める。
「……よし、じゃあ、正直に話せよ。嘘ついたら、窒息死させるからな」
「……は、はい。実は、俺――」
「探偵バロックなんだ」と垂れ目の男は答えた。
――探偵バロック?
聞いたことがなかった。
それは、他の村人においても、冬馬においても然りだっただろう。
「はあ? 探偵? ますます怪しいじゃねえか」
同感である。探偵という仕事がこの社会に存在していることは知っているが、決してマトモな仕事ではないと思う。
浮気調査など、法律スレスレのところで、他の人がやりたがないどぶさらいをして、法外な報酬を得ているのだ。
「探偵」と名乗ったことで、垂れ目の男への信頼は地の底まで落ちた。
「とりあえず、今から、お前を警察に引き渡す」
「……ま、待ってくれ……」
「抵抗するな!」
垂れ目の男が、本当に貞廣を殺したのかどうかは分からないが、不審者として警察に引き渡すことについては、僕も両手を挙げて賛成したい。
しかし――
「待ちたまえ!」
思わぬ人物が、垂れ目の男に助け舟を出した。
声を張り上げた人物は、僕もよく知っている人物、もっといえば、この村の者ならば全員が知っている人物だった。
「夕凪君、その男を離してやってくれ」
「村長……どうして……」
「良いから早く」
さすがの冬馬も、村長の命令に逆らうわけにはいかなかった。
冬馬が、掴んでいた襟を離すと、垂れ目の男は、空気の萎んだ風船のように、力無く地面に倒れ込んだ。
「君、『探偵バロック』というのは本当かね?」
どうやら太田牧村長は「探偵バロック」を知っているようである。
「ええ……」
「どうしてこの村に……?」
「……興味があったから」
垂れ目の男の回答は、たったそれだけだったが、太田牧村長は、納得したようである。
「君がかの有名な『探偵バロック』なのだとしたら、この村の村長である私から、頼みがあるのだ」
「頼み?」
「ああ、この殺人事件の解決を君に委ねたい」
僕は耳を疑った。
太田牧村長は、この不審な男に――今まさにその殺人事件の犯人だと疑われていた男に――何を頼もうというのか。
頭にクエスチョンマークが浮かんでいたのは僕だけではなく、この場にいるほとんどの村人がそうだった。
しかし、太田牧村長と、垂れ目の男との間では、話がトントン拍子で進んでいく。
「その依頼、受けさせてもらう」
「助かるよ。この事件は、探偵によって解決されねばならないのだ。もちろん、報酬は相応に支払うよ」
「それはありがたい」
ところで、と村長は首を傾げる。
「探偵バロック、君は本当に名探偵なのか?」
「もちろん」
「では、『ワトスン役』はどこにいるのだ?」
ワトスン役? これも僕にとっては少しもピンと来ない単語だった。
ゆえに、垂れ目の男――探偵バロックが、人混みの先頭にいる僕の方に向き直り、僕を指差した時も、その意味するところさえ分からなかったのである。
「この男がワトスン君だ」
僕が「ワトスン君」?
そんな名前で呼ばれたことは、過去に一度もないが。
「えーっと、たしか彼は……」
僕と太田牧村長は、初対面ではない。
もっとも、僕がこの村にいたのは、八年前であり、顔は大きく変わってしまっている。
それゆえ、太田牧村長は、僕の顔をマジマジと見つめても、ついに僕の本当の名前に気付くことはなかった。
村長は、探偵バロックの虚偽の説明を鵜呑みにした。
「彼は、俺が東京から連れて来た『ワトスン君』なんだ」
「なるほど。そうか。ならば安心だ」
僕が何か言いたそうにムズムズしているのに気が付いたのだろう。探偵バロックは、僕のところまで歩いて来て、耳打ちをする。
「筑摩君、とりあえずここは話を合わせてくれ」
僕は囁き声で反論を試みる。
「『話を合わせろ』って言われても、僕は何が何だかサッパリ……」
「村長の話を聞いただろ? 報酬がもらえるんだ。二人で山分けしよう」
別に、僕は、贅沢な生活を望んでいないので、お金に困っているわけではない。
それでも、お金の力というものは絶大だ。
僕は、「……分かった」と、探偵バロックの提案を了解してしまったのである。
こうして、僕は、まさしく「ハチャメチャ」としかいえない経緯によって、忌々しき事件の「ワトスン役」を務める羽目になったのである。
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