エルフの里 5

 エルフの里に戻ると、オーベロンはさっきと同じように村長宅で竪琴をつま弾いていた。


「戻ったか。世話になったな」

「まったくだぜ! あんなのを相手にするのはもうごめんだ!」


 アーサーがぷりぷりと怒って悪態をつく。

 オーベロンは小さく笑うと、「助かった」と言って立ち上がった。


「約束だ。私もティアのもとに戻ろう。その前にエルフの秘薬だったな」

「はい。お願いできますか?」

「約束だ。構わぬよ。ついて来い。


 オーベロンは竪琴をベンチの上に放置したまま、ふらりと歩き出した。

 オーベロンは村の中をしばらく歩いて、村と山の境界に植えられている月桂樹のもとで足を止めた。

 そして月桂樹の黄色い花を手折ると、すぐそばを流れる小川の水と混ぜて、妖精の魔法であっという間に薬を作り上げる。

 どこから取り出したのかそれを小瓶に入れて、エマに差し出した。


「これでいいだろう」


 秘薬と呼ばれるものを作りには何ともあっけないものだった。


「綺麗だね」


 ユーインがエマの手元を覗き込んで言う。

 小瓶の中に入っている液体は、薄黄色をしていて、金粉を混ぜたようにキラキラと光っていた。確かに綺麗だ。……だが、秘薬というからには、こう、いかにも薬、という姿の――はっきり言えばマズそうなものを想像していたエマは、ちょっとだけ不安を覚えた。


「あの、エルフの秘薬って、どんな病でもたちどころに治してしまうんですよね?」

「もちろんだ。これで治癒できない病はない」


 オーベロンがきっぱりと断言するのを聞いて、エマはホッと胸をなでおろす。


「これで王太子殿下の病は治るわね、ユーイン」

「ああ。ありがとう、エマ。それから妖精王、感謝します」


 エマがユーインにエルフの秘薬を手渡すと、ユーインは大切そうに両手で包み込んでオーベロンに頭を下げる。


「礼を言う必要はない。交換条件だったからな」

「それでも、本当にありがとうございます。これがないと、俺の大切な友人は死を待つだけだったでしょうから。あ、そうだった、これを……」


 ユーインは自分の左手を見て、その親指にはまっている指輪に触れた。

 抜き取ろうとしたユーインを、オーベロンが軽く手を上げて制す。


「それはそなたがそのまま持っているといい。その体質で妖精が見えないのは大変だろうからな。いつ妖精界に連れ去られるかわかったものではないぞ」


 それについてはエマも大いに同意する。

 バンシーの加護のおかげで今までは大事に至らなかったようだが、この先もそうとは限らない。

 ユーインは驚いて、それから指先で指輪を撫でると、もう一度「ありがとうございます」と繰り返した。


「これがあったら、アーサーのこともポリーのことも見えるし、嬉しいよ」

「べっ、別にオレは嬉しくも何ともねーけどな!」

(もうアーサーったら、素直じゃないわよね)


 つーんとそっぽを向くアーサーに、エマはやれやれと肩をすくめる。

 ポリーが「あれは放っておきな。天邪鬼ってやつだよ」と返せば、途端にアーサーが怒って、ぎゃーぎゃーと言い争いがはじまった。


「うるさくしてごめんなさい。妖精王、薬のことも指輪のことも、本当にありがとうございました」

「なに、こちらも本当に助かった。いくら私でも、ボギーとなった妖精をシーリー・コートに戻すのは不可能だからな。そなたをここに遣わしたティアにも感謝せねば。……癪だが」

「あ、はは……」


 妖精女王のもとに戻ると約束してくれたけれど、この様子だと戻った後でまたひと悶着あるのではなかろうか。

 エマは心配になったが、余計なことを言ってオーベロンの気が変わってはたまらない。


「では私はティアのもとに帰るとするが、秘薬の取り扱いは注意するように。それにしてもここ数日は慌ただしいな。この前、人間をひどく恨んでいたサラマンダーにも薬を頼まれたが、果たしてあれば何に使うのか……」

「え……ま、待って‼」


 ぶつぶつ言いながらオーベロンが踵を返そうとしたのを、エマは慌てて呼び止めた。


「今、サラマンダーって言いました⁉ サラマンダーがここに来たんですか⁉」

「うん? ああ。先日ここにふらっと訪れて、エルフの毒を持って行ったサラマンダーなら確かにいたが……」

「エルフの毒……?」


 聞きなれない単語に、エマは眉を寄せた。「毒」というからには毒で間違いないのだろうが、一体それはどのような毒なのか……。

 オーベロンはエマの持つ瓶を指さした。


「それと正反対の薬だ。この世のあらゆる毒よりもよく効く毒で、ほんのひとなめするだけで、人間ならば確実に息の根が止まるだろう」

「な……!」


 喚いていたアーサーも思わず黙り、ユーインもポリーも目を見開いた。


「そんな毒を、サラマンダーが……? 何に使うか、言っていましたか?」

「さて、思い詰めた顔をしていたが、何に使うかまでは聞いておらん」

「ちょっと待てよ王様! 理由も聞かずにそんな危ないもんを渡しちゃだめだろ‼」


 オーベロンは笑った。


「長く生きていると、些末なことはそれほど気にならなくなるものだ。サラマンダーは私が欲しいものを持ってきた。だから交換にエルフの毒をやった。それだけだ」

「欲しいものって?」

「竪琴だ」


 竪琴というと、オーベロンが先ほどつま弾いていたあれだろうか。


(竪琴と交換でそんなとんでもない毒を渡しちゃだめでしょ!)


 エマはあきれたが、それよりも重要なことがある。

 もし、オーベロンがエルフの毒を渡したサラマンダーがロイだったならば、そんな危険なものを持って、ロイは大丈夫なのだろうか。

 いや、もっと言えば――ロイは、今もエマの知るロイのままでいてくれているのだろうか。

 エマの知るロイならば、エルフの毒なんて危険なものを欲しがったりはしないはずだ。


(まさかロイは本当にボギーになってしまったの……?)


 エマはぎゅっと自分の腕を抱きしめる。


「妖精王。……その、エルフの毒を欲しがったサラマンダーは、どんな様子でしたか? まさか、ボギーになっていたり……」


 オーベロンは思い出すように顎に手を当てた。


「いや? ボギーではなかったが……」

「よかった……」

「だが、それも時間の問題かもしれぬな。誰かにエルフの毒など使おうとするほどに心が荒んでいるのならば、いつボギーになってもおかしくないだろう。もしかしたら、すでに憎しみで心が黒く染まり、ボギーとなっているかもしれないな」

「そんな!」


 安堵したのもつかの間、淡々としたオーベロンの言葉にエマは悲鳴を上げた。


「どうして渡したりしたんですか!」

「人間の娘。毒を渡す渡さないについては大きな問題ではない。要は心の問題だ。毒があろうとなかろうと、それで誰かを殺したいほどに憎んでいるのならば、シーリー・コートのままではいられない」

「――っ」


 息を呑んだエマの肩に手を置いて、ユーインがまっすぐにオーベロンを見つめる。


「妖精王。あなたは同胞であるエルフがボギーになったのを憂いて、エマに助けを求めましたね。それなのにどうして、他の妖精がボギーになるかもしれないのを、黙って見ていたんですか」

「人間。妖精には妖精の理がある。私は確かに同胞がボギーとなったのを憂いたが、私ではボギーとなる妖精をとどめることはできない。もしここにそこの人間の娘が来なければ、同胞はボギーのままだっただろう。そういうことだ。どこでどの妖精がボギーに変わるか。それをすべて感知できないし、私もティアも、それに対して何かをするわけではないのだよ。すべては自然のままに。心のままに。それが妖精だ」


 オーベロンは少しだけ気の毒そうにエマに視線を向けて、そっと目を伏せると、くるりと踵を返した。


「気になるならば追えばよい。サラマンダーはこの山の向こう、ブラクテン国の方に行った。私が教えられるのはそれだけだ。……あのサラマンダーがそなたにとって大切な妖精ならば、そしてボギーとなっているのならば、そなたの力で戻してやるといい」


 オーベロンはもうこれ以上話す気はないようだった。

 茫然と立っている間にエマの視界がゆがみ、気がつけば山の中の木の前に立っていた。

 ムーンストーンはもう光っていない。

 木に触れても、エルフの村には入れなかった。


「エマ……」


 ユーインがエマの名をささやく。

 エマは反応できなかった。

するとユーインは、慰めるようにエマの肩を撫で、遠慮がちに、背後から腕を回して抱きしめた。


「……ありがとう。大丈夫よ、ユーイン」


 なんとか答えたエマの声はかすれていた。

 オーベロンを訊ねたサラマンダーがロイなら、ロイはエルフの毒を何に使うつもりなのか。


 ――この前、人間をひどく恨んでいたサラマンダーにも薬を頼まれたが、果たしてあれば何に使うのか……。


 オーベロンの言葉が、耳の奥に張り付いている。


(わたし……、もしかして、殺したいほどロイに憎まれてしまったのかしら……)


 ロイが恨んでいる人間。

 おそらくそれはエマだろう。それ以外、考えられない。

 ならば、ロイはエマのせいでボギーに変質するかもしれないのだ。

 オーベロンは、ロイがボギーになっているのならばエマが元に戻してやればいいと言った。

 けれど、ボギーになったきっかけがエマならば、この力は果たして、ロイにも通用するのだろうか。


(ロイ……)


 ロイは、許してくれるだろうか。

 もしロイが心の底からエマの死を望んでいるのならば――


(わたしがその毒を飲めば、ロイの心は晴れるのかしら……)


 もし、ロイがエマのせいでボギーになっていて、エマの力では彼を元に戻すことができなければ――エマは、エルフの毒を煽った方がいいのかもしれないという思いが、脳裏をよぎってしまう。


 一体何が正解かもわからず、エマはしばらく、動けなかった。



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