エマの過去 5
思い切り泣いたら、今度は急に恥ずかしくなってきた。
他人の胸で、それも男の人の胸で泣いたのははじめてだ。
泣いている間、ユーインはエマの背中をポンポンと叩いてくれていて、それがさらに羞恥を誘う。
(声を上げて大泣きするなんて、子供みたいじゃない……)
赤くなっていると、ポリーがハンカチを持ってきた。
ユーインが目を丸くして、「もしかして、妖精?」と訊ねる。ユーインにはハンカチだけがひらひらとエマのもとに飛んできたように見えただろう。
エマが妖精が見えると打ち明けたからだろう、ポリーはもう、ユーインに気づかれないように気を配るのをやめたようだった。
「そうよ。さっき話した友達のポリーよ」
ハンカチを受け取って、おそらく赤くなっているだろう目元を隠すように押し付けながらエマは答える。
ユーインはきょろきょろと周囲を見渡すように視線を動かした。
「あたしはここだよ」
ポリーが近くに咲いていた名前も知らない黄色い花をちぎって、ユーインの前でひらひらと揺らした。
ユーインは笑って、ポリーの声も聞こえていないだろうに、揺れる黄色い花に向かって「はじめましてポリー」と挨拶をする。
「面白い男だね。ほら、アーサー、あんたも挨拶おし」
「なんで俺がそんなことしなくちゃいけねーんだ」
アーサーは文句を言って、エマのリュックの中からアーモンドを一つ前足で器用に持って、ユーインのそばまでやってきた。
それを、これ見よがしに目の前で食べはじめる。
「素直じゃないねえ」
ポリーがあきれたが、アーサーは「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「おいユーイン! 俺は認めたわけじゃないからな! 顔がいいやつはだいたいすけこましって相場が決まってんだ! いいか、調子乗んなよ!」
「ええっと、エマ……」
「アーサーよ」
アーサーの声は聞こえていないはずなのだが、悪態をつかれたのを薄々感じ取ったのだろうか、ユーインが戸惑った顔をしている。
そんな彼がおかしくてエマはつい吹き出してしまった。
それから立ち上がって、湖で軽く顔を洗って戻ってくる。これで泣いた目元も少しはましになっただろう。
「ごめんなさい。もう大丈夫よ。それで、本題に入りましょうか。もう隠さなくていいでしょうし」
「本題って?」
「あなたの探している薬のこと。……本当はね、ここには幻の薬草なんてないの。ここに来たのは妖精女王に会うためなのよ」
「妖精女王?」
「ええ。さっき、わたしがキラキラ光って見えたって言ったでしょ。妖精女王に会っている時だと思うわ。そして光っていたのはわたしじゃなくて妖精女王よ」
「そうだったのか……」
パチパチと音を立てる焚火に、エマは小枝を数本足す。
リュックを引き寄せて、中からピーナッツの袋を取り出すとユーインに渡した。
お湯を沸かすための小さな鍋を取り出して水を入れると、焚火のそばに置く。
「お湯が沸いたらお茶を入れるわね」
エマはピーナッツを一粒口に入れる。
「ユーインはパナセアを探しているって言ったでしょ? でもね、やっぱりパナセアは伝説のもので、いくら探しても見つからないと思うのよ。でも、エルフの秘薬ならもしかしたらあなたの恋人の命を救ってくれるかもしれないわ。どんな病にも怪我にも聞くと言われている薬なの」
「そんなものが……って、うん? ちょっと待って、エマ、君、恋人って言った?」
「え、ええ、言ったけど……え? 違うの? だって、それこそ伝説の薬にまですがりたくなるほど大切なお友達って言ったから……」
「違うよ! どこをどうしたらそんな勘違いができるんだ!」
ユーインは焦ったような声を上げた。
「第一、その友達は男だよ! そう言ったよね⁉」
「で、でも、ほら、世の中には男の人が好きな男の人もいるから、その、ねえ?」
「ねえ、じゃないから!」
ユーインは見たことがないほど慌てていた。
ぱちぱちと目をしばたたくエマの横で、アーサーが腹を抱えて笑っている。
ポリーが「やれやれ」と首を振って、少し離れたところで糸を紡ぎはじめた。
「ええっと、その、ごめんなさい……。勘違いをしていたみたい」
ユーインがあまりに慌てるので、エマはしおしおと縮こまった。我ながら盛大な勘違いをしていたようだ。
「いや、怒っているわけじゃないけど、でも、違うから! 俺はちゃんと……っていう言い方もどうかと思うけど、とにかく女性が好きだし、男に恋愛感情は抱かない! それに俺に恋人はいないから!」
「そ、そうなの。わかったわ、ええ、もちろんよ。変な勘違いをして、本当にごめんなさい……」
「あ、や、俺もきちんと自分のことを話していなかったから……。うん、君も秘密を打ち明けてくれたんだから、俺が黙っているのもフェアじゃないよね。ええっとね、俺の、病気の友達はね、この国の王太子なんだ」
「ええ⁉」
驚いて目を見張るエマに、ユーインは小さく笑う。
「俺のフルネームは、ユーイン・ファルコナー。ファルコナー公爵家の三男だ」
「ええ⁉」
エマは驚いた。
いいところのお坊ちゃんだろうとは思っていたが、まさか公爵家の子息だったとは。
しかもユーインの母は王姉で、同じ年の王太子とは従兄弟同士にあたるという。
「俺は大切な友人を助けたいが、それだけが理由じゃないんだ。今の王位継承順だと、このまま王太子の病が快癒しなかったら、俺の長兄が王位継承権一位に繰り上がる。そうなるとね、国がごたごたするんだよ。口さがないものはすでにファルコナー公爵家が王位簒奪をもくろんで、王太子に毒を盛ったとか呪いをかけたとか好きなことを言い出しているし。だからね、俺は友人のためにも、国のためにも、家族のためにも、なんとしても病気を治すことができる薬を探さなくてはいけなかったんだ」
「そうだったの……」
そうとは知らず、エマはとんでもない勘違いをしてしまったものだ。
ユーインの事情は、エマが考えているほど能天気なものではなく――いや、誰にも治せない病気なのでとても重たい事情なのはわかっていたが、それ以上に、もっともっと重たい事情が絡んでいたのである。
「……って言うのは建前だよ」
ユーインはじっとエマを見つめたまま、自重するように笑った。
「今言ったことは嘘じゃない。でも本当は……本当は、もう一つ重大な秘密があるんだ。誰にも伝えてない秘密。……聞いてくれる?」
ユーインがあまりに沈痛な表情をしたので、エマは驚いて、それからきゅっと真剣な顔を作って頷いた。
「ええ。もちろんよ」
「……ありがとう」
ユーインは、ふうと長い息を吐き出すと、目を伏せて口を開いた。
「王太子――ハミルトンが病気になったのは、俺のせいなんだ」
「……え?」
エマは目を丸くした。
それは一体どういうことだろう。人には誰かを病気にする力なんてありやしない。
ごくまれにボギーによって体調を崩す人はいるけれど、それも病気とは少し違うものだ。
ユーインは、膝の上で拳を握り締めてつづけた。
「ハミルトンが倒れる一か月くらい前のことだったと思う。俺の周りに、緑色の服に灰色のローブをまとった変な女が現れるようになったんだ。その女は、どうしてかほかの人には見えなかった。ただ、こういうことは昔よくあって……だから、俺は、それほど気には留めなかったんだ」
「緑色の服に、灰色のローブ……?」
エマはハッとしてアーサーとポリーを振り返った。
ポリーは糸をつむぐ手を止めて、アーサーもさっきまでのニヤニヤ笑いを引っ込めて難しい顔をする。
「そりゃあ、バンシーだ。たぶん」
「そうだね。そんな姿をした誰にも見えない存在なんて、バンシーくらいなものだろうよ」
(やっぱりそうよね……)
エマはひやりとした。
バンシーは、死を前にした人間の側ですすり泣くと言われる妖精だ。
エマはバンシーを直接見たことはないけれど、知識だけなら知っている。妖精と付き合いの長いエマは、それなりに世の中に住んでいる妖精のことを聞いてきたからだ。
「そ、その女の人はどんな様子だったの?」
ごくりと唾を飲んで、エマは訊ねた。
ユーインはちらりと顔を上げて、それから考え込むようにまた視線を落とす。
「よくわからない。フードを目深にかぶっていて表情は見えなかった。ただ何も言わず、オレのそばにいただけだよ」
「泣いていなかった?」
「泣いて? ……いや? 泣いてはいなかったと思うが……」
「そうなの……」
エマはホッと胸をなでおろした。
ユーインは視線を落としたまま続ける。
「その変な女が、ある日、訊ねてきたハミルトンの方へ飛んで行ったんだ。ハミルトンが倒れたのはそれから三日後のことだった。……きっとあの女は、俺についていた死神だったんだろう。その死神がハミルトンに移ったから、彼は病気になったんだ。俺のせいで……俺の……」
「待って! それは違うわ!」
エマは咄嗟に顔を上げた。
バンシーは死者のそばですすり泣くとされているが、決して死神なんかではない。
その人を失うのが悲しいから泣くのだ。
「あなたのせいじゃないわ。多分それは妖精よ。バンシーというの。死が迫った人のそばで、その死を悲しんで泣く妖精よ。彼女は決して、あなたの死を王太子殿下に移したりなんかしない。もしバンシーが王太子殿下に移って、そして彼が倒れたなら、バンシーが移ったときにはすでに王太子殿下には死の影が付きまとっていたのよ」
「だけど……」
「あなたの側でバンシーは泣かなかったのでしょう? だったら違うわ。たぶん彼女は……」
エマはそこで言葉を区切って、確かめるようにアーサーとポリーを見た。
二人は大きく頷く。
「ようやくわかったぜ。これだけ妖精に好かれるやつが、今まで無事で生きてこられた理由がよ。バンシーの加護があったんだ」
「そうだね。そうとしか考えられないよ」
エマは大きく頷き返した。
やっぱりそうだ。
バンシーは死ぬ運命を前にした人の側ですすり泣く妖精だが、それだけの妖精ではない。
乳飲み子のときに、バンシーの乳を飲んだ人間を大切に加護する性質があるのだ。
バンシーは気に入った赤子のそばに行き、その赤子に乳を飲ませようとする。
生まれたばかりの赤子は純粋で、半数以上が妖精を見ることができるが、大概の赤子は泣き叫んで嫌がって、バンシーの乳は飲まない。だが稀にいるのだ。バンシーの乳を飲んで育つ子が。
(ユーインがそれなんだわ)
ユーインはほかの人に見えないものを幼いころに見ていたと言っていた。それは間違いなく妖精だろう。妖精を見ることができるほど妖精に好かれる人間が、妖精界に引きずり込まれずに今まで生きてこられたのは、バンシーが彼を加護していたからに他ならない。
「ユーイン。そのバンシーは死神なんかじゃない。あなたをずっと守って来てくれた、むしろ守り神よ。そして王太子殿下の病気は決してあなたの責任じゃない。あなたのせいじゃないの。だからそんな顔をして自分を責めないで」
エマはそっとユーインの手を取る。
「あなたは何も悪くないわ」
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