妖精女王の住む山 1
ユーインと出会った日から十日目。
エマたちはようやくアリス山の麓に到着した。
見上げれば、山頂のあたりが雲に覆われている。
眼前の山には入り口らしき道はどこにもなく、ただ、葉が色づく前の深い緑色をした木々が、侵入者を阻むかのように複雑に絡みあうように存在していた。
ユーインが教えてくれた通り、この山では行方不明者が何人も出ていると、登山の準備のために立ち寄った近くの町でも教えられた。
アリス山の近くの町では、この町を別名「帰らずの山」と呼んでいるそうだ。
特に小さな子供は近づけるなと言い伝えられているそうなので、行方不明者の大半は妖精に惑わされたに違いないと確信する。妖精は特に、純真無垢な小さな子供が好きなので、遊び感覚で揶揄ったり、下手をすればフェアリーリングを作って妖精界に引きずり込んだりするのだ。
ボギーの悪質な悪戯であることももちろん考えられる。
ただ、妖精女王が好む霊峰には、ボギーはそれほど居つかないだろうと思われた。シーリー・コートは清らかな場所や優しい場所を好んで住み着くが、ボギーは暗く淀んだところを好むからだ。ここはボギーが暮らすには清らかすぎるだろう。
けれど、ボギーにかかわらず、妖精が見えない人にとっては、彼らはときとして非常に厄介な存在となる。
何故なら多くの妖精たちは、人間の物差しで道理を測らないからだ。
ちょっと揶揄っただけ。気に入ったから一緒に遊ぼうと思っただけ。欲しくなったから連れ帰っただけ。妖精にとってはそんな些細な理由での行動も、妖精が見えない人間には、致命的な結果を及ぼす。
例えば妖精界に引きずり込まれた子供は、ほとんどが戻ってこられない。エマのように妖精が見えて、妖精の友達がいる人間は妖精の手引きで出入り自由だが、そのような人の方が少ないからだ。
妖精が見えない人にとっては、妖精界はただただ綺麗なだけの何もない場所だ。綺麗な花、美しい川や湖、気持ちのいい風、鮮やかな青色をした空……。
人間界のように、温かい地域もあれば寒い地域もある。景色も変わる。
けれども、妖精が見えない人にとっては、誰もいない、美しく寂しい世界だ。
妖精界に引きずり込まれた人は、妖精界の果物や木の実を食べながら死ぬまでそこで生活する人もいれば、心を病んで死んでしまうものもいる。
運よく帰り道を見つけられる人なんて、ほんの一握り。そして、その一握りの人も、住んでいた場所に帰れるとは限らない。見つけた出口がどこにつながっているのかなんて、妖精の手引きがない限りわからないからだ。
登山用の大きなリュックを背負って、エマは同じくリュックを背負っているユーインを振り返った。
(わたしは大丈夫だけど、ユーインから目を離さないようにしないと。妖精に気に入られそうな見た目や性格をしているのに妖精が見えないんだもの)
人のそばではなくこうした自然の中を好んで生活している妖精は特に注意しなければならない。彼らはとても無邪気で、それゆえに残酷だ。
アーサーやポリーのように人のそばが好きな妖精は、人がどういう存在かをある程度は理解している。そういう妖精は、人の側にいることを望むゆえに、人を観察し、理解しようとするからだ。ゆえに無茶なことはしないし、人の命が脅かされるような悪戯を仕掛けたりはしない。
しかし、人とあまり関わらずに生きてきた妖精たちは、加減がわからない。本人たちに悪意がなくとも、時に、一瞬にして人の命を奪い取ってしまうような悪戯を仕掛けることがある。
ましてや人嫌いの妖精なんて最悪だ。
もっとも、人嫌いの妖精は、滅多に妖精界から出てこないものも多いのだが、こういう人が足を踏み入れない人間界には姿を見せることがある。
(妖精って不思議よね。自分の世界があるのに、人の世界に遊びに来たがるし、アーサーやポリーなんかは滅多に妖精界に帰らない。……まあ、もともと妖精界と人間界は一つだったって聞いたことがあるし、彼らにとってはどっちも自分の世界のようなものなのかしらね)
妖精のことは妖精にしかわからない。気まぐれな彼らの考えていることなんて、いくら妖精の見えるエマでも、すべてを理解するのは無理な話なのだ。
「鉈を買ってきて正解だったわね!」
「鉈があっても厳しい気がするけどね。獣道すら見当たらないよ」
木々の合間を縫いながら、時に足元にぬっと飛び出している笹や蔦を鉈で払いながら進んでいく。
これはなかなかに重労働な登山になりそうだ。
時折ぽっかりと、小さな穴が開いているように木々のない部分を見つけてはそこで休みながら進むこと半日。
日が暮れてきたので、今日のところは休む場所を決めて寝る準備を整えたほうがよさそうだとエマは思った。
「あそこがいいかしら? ほら、丸太も転がっていて、座るのにちょうどよさそうだし」
今日の野宿の場所を決めると、エマはさっそく火を起こす準備をはじめた。
山の中に住んでいるのは何も妖精だけではない。獣も多く生息しているので、獣除けのためにも火は欠かせないのだ。
「薪になりそうなものを拾ってくるよ」
「ありがとう、気を付けてね」
エマはこっそりアーサーにユーインの後を追いかけるように頼んで、ポリーとともに小枝を積み上げて火をつける。
丸太に座ってユーインが戻ってくるのを待っていると、あちこちから妖精たちの話し声が聞こえてきた。
くすくすくすくすとささやきあう妖精たちの声は、妖精の見えないユーインにはただの風のささやきや、獣の唸り声にしか聞こえないだろう。
しばらくしてアーサーが枝と、どこから拾ったのか、大きな切り株を抱えて戻ってきた。
「倒れた木から切り取ってきたんだ。幹の方は腐っていたけど、ここは大丈夫そうだったから。鉈で割って薪にしよう」
「その前に少し休んだ方がいいわ。汗だくよ」
エマはリュックから水筒を取り出すと、コップに水を入れてユーインに差し出した。
「ありがとう。でも、俺よりエマの方がつらいんじゃないかな。女の子にはなかなか厳しい道のりだろう?」
「大丈夫よ。歩くのには慣れているの」
確かにつらいにはつらいが、音を上げるほどではない。
(それに、わたしよりユーインの方が辛そうだわ)
あっという間に水を飲み干したユーインのコップに水を注ぎ足してやりながらエマは考える。
山頂に到達するには数日はかかるだろう。途中でユーインが倒れたら大変だ。エマでは彼を背負って下山できない。
「わたしは食事の準備をするわね。ユーインは少し休んでいて」
エマはリュックの中から出かけの町で買ったパンを取り出すふりをしながら、小声でアーサーに話しかけた。
「ねえ、もっと上りやすそうな場所はないかしら。ここより開けた場所みたいなところがあれば探してきてほしいんだけど」
鉈を振り回しながらの登山では、あっという間に体力が奪われる。
アーサーはちらりとユーインを一瞥し、「ま、いーぜ。ただし、あいつのためじゃない、エマのために探すんだからな!」と言ってふわりと飛んでいった。
「アーサーも素直じゃないねえ」
ポリーがやれやれと笑いながら、リュックからアーモンドを一つ取り出して、ちまちまとかじりはじめる。
エマは「ふふ」と小さく笑って、パンを持ってユーインの元へ戻る。
山の中では呑気に炊き出しもできないので、今日は町で買ったパン。明日以降は固いビスケットと干し肉、ナッツとドライフルーツがエマたちの食事になる。
パンを食べ終わるころにはユーインの疲れた顔も少しはましになってきて、さっき拾ってきた切り株を薪にすると言って、鉈で割りはじめた。
ユーインが薪を作るのをぼんやりと見ていると、しばらくしてアーサーが戻ってきた。
「あったぜ。東の方に歩いていくと川があって、その近くには木が少なくて歩きやすそうだった。水の補給もできそうだぜ。あの辺に住んでいた妖精に訊いたら、あの水はとってもうまいってよ。確かに綺麗な水だった」
「それは助かるわ」
エマは小声でアーサーに返した。
数日がかりの登山を見越して水は多めに持ってきたが、それでも持てる量には限りがある。
節約しなければと思っていたが、水が補給できるなら多少贅沢に水を使っても大丈夫そうだ。
エマはリュックからタオルと取り出すと、水で湿らせて、薪割を終えたユーインのところに持って行った。
「お風呂は無理だけど、汗だけでもふいた方がいいわ」
「ありがとう、エマ。ちょっと汗を拭いたいと思っていたところなんだ」
ユーインが嬉しそうに笑ってタオルを受け取る。
エマも濡らしたタオルで、腕や首、顔など、服を着たままでも拭える部分の汗を拭って、ユーインを振り返った。
「終わったらタオルを洗うから――」
言いかけたエマの言葉が途中で途切れる。
ぼっと顔を赤く染めて、エマは慌てて顔をそらした。
ユーインがシャツを脱いで、上半身が裸になっていたからだ。
歩き回った上に薪割までして、汗だくになっていたのだろう。男の人は女性よりも汗をよくかくと聞いたことがあるし、気持ちが悪くて脱いだに違いないが……せめて一言教えておいてほしかった。
「ぷぷぷ、エマはうぶだねえ」
ポリーが笑って揶揄うが、仕方がないだろう。上半身だけとは言え、男の人の裸なんて見たことがないのだから。
ユーインは汗を拭ってシャツを着替え終わったらしく、エマが赤くなっていることにも気づかずに、呑気に「エマ、タオルをどうしよう」と声をかけてきた。
「せ、洗濯して朝まで干しておくから、貸してくれる? そ、そっちのシャツも、よかったら洗っておくわ。朝まで火を焚くから乾くと思うの」
「それは助かるけど、水をそんなに無駄遣いして大丈夫?」
「ええ。ここから東に少し行った先に川があるみたいだから」
「どうしてそんなことを知っているんだ?」
「え? それは……ほ、ほら! 町の人が教えてくれたじゃない。名水が流れている川があるって!」
「そうだったっけ?」
ユーインは「そんな話聞いたかな?」と首をひねったが、深くは考えなかったようだ。
「それなら大丈夫かな。じゃあ、お願いしてもいい?」
「もちろんよ」
エマはユーインからタオルとシャツを受け取ると、自分が使ったタオルと一緒に洗濯をして、木と木の間に張ったロープにかけた。洗濯と言っても石鹸は使えないので、軽く水洗いするだけだが、何もしないよりましだろう。
「これでよし、と! じゃあ、少し早いけど、体力を温存するためにも休みましょ。最初はわたしが火の番をしておくから、ユーインはそのあたりにシートを敷いて、休んでいてちょうだい」
見上げれば、夜の帳がようやく落ちようとしている時分だったが、山の中は暗くなるのが早いし、しっかり休んでおかないと明日からがつらい。
ユーインが素直に横になるのを見た後で、エマは火の中に枝を三つほど入れて、丸太の上に腰を下ろす。
リュックの中に押し込んでいた手提げカバンからかぎ針と絹糸を取り出すと、日課のレース編みをしていると、くすくすくすくすと、楽しそうな妖精の笑い声が聞こえてきた。
「くすくす、何をしに来たの、人間」
振り向けば、妖精が三人固まって、遠巻きに見ている。
「あら大変、あなたわたしたちが見えるのね」
「ふふふ、珍しい」
「妖精が見える人間に会ったのは何年ぶりかしら? いえ、何十年ぶりかしら?」
「百年ぶりだった気がするわ」
「まあ、もうそんなに時間が経っていたのね」
「それで人間。何しに来たの?」
「せっかくだから遊びましょ」
「最近ここには人間が来なくて退屈していたのよ」
エマはユーインが寝入っているのを確認した後で、声を落として妖精たちに答えた。
「ごめんなさい。今は遊んでいる暇はないのよ。山頂に向かっているの」
「山頂?」
「妖精女王にお会いしたいのよ」
エマが答えると、妖精たちは一様に目を見開いて、「まあまあ」と慌てはじめた。
「妖精女王様?」
「大変大変、今はとってもご機嫌斜めよ」
「気を付けないと怒られてしまうわ」
エマは首をひねった。
「ご機嫌斜めってどういうこと」
エマが訊ねると、妖精たちはハッと両手で口を押させる。
「いけないけない」
「妖精女王様に怒られちゃう」
「じゃあね人間!」
「妖精女王様に怒られないようにね!」
「あ! 待って! もう一つだけ訊きたいことがあるの!」
「聞きたいこと?」
「あらなあに?」
「いいわよいいわよ、何が知りたいの?」
「美味しい木の実のなっている場所かしら?」
「それとも水晶洞窟の場所が知りたいの?」
彼女たちは気のいい妖精なのか、面白そうな顔をしてエマを取り囲む。
「そ、そうね。それにも興味があるけど……、ええっと、人……じゃなくて妖精を探しているの。サラマンダーなんだけど、あなたたち、見なかったかしら?」
「サラマンダー?」
「珍しい種族を知っているのね」
「サラマンダーは滅多に人間界に出ないのに」
「数も少ないものね」
(そうよね。そう簡単には見つからないわよね……)
エマががっかりと肩を落としたとき、彼女たちの中の一人が、ぽんと手を叩いた。
「ああ、そういえば少し前……一か月くらい前かしら? 会ったわよ、サラマンダーに」
「え⁉ 本当に⁉」
「ええ。と言っても、別に話したりしたわけじゃないけど、なんだか怖い顔をしてぶつぶつと独り言を言いながらどこかへ飛んでいったわ。探しているのはそのサラマンダーかしら?」
「怖い顔……?」
エマは記憶の中のサラマンダーを思い浮かべた。彼はいつもにこにこと笑っている、優しい妖精だった。彼の怖い顔なんて、一度も見たことがない。
(怖い顔なんて……もしかして、わたしが傷つけたせいでボギーになってしまったの……?)
エマは青くなった。
まさかそんなはずはないと思いたいけれど、でも、エマは彼にとてもひどいことを行ってしまったのだ。傷ついて、エマを恨んで、ボギーに変質していないとどうして言い切れようか。
(ううん、ボギーになったと決まっているわけじゃないわ。大丈夫よ。でも……)
エマが言葉を失っていると、妖精たちは「じゃあね、人間」と手を振って、ひらひらと蝶のようにどこかへ飛んで行ってしまった。
もし彼が、ボギーになっていたらどうしよう。
エマはボギーをシーリー・コートに戻す力があるが、だからいいという問題ではないのだ。
エマはゆっくりと目を閉じると、小さな声でぽつんとつぶやいた。
「……ロイ…………」
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