scene 6. 凶報

 ――ピートが云ってくれたとおり、カードを作っておけばよかったんだ。

 ジョニーはそう後悔しながら、これまでと勝手の違うラインで、今朝初めて顔を合わせた同僚からあれこれ指示されてはまともに返事ができず、怒鳴られていた。

 わかったらわかったってちゃんと返事してくれないと! こっちもずっとおまえひとりを見てるわけにいかないんだから! 理解してないならちゃんと訊かなきゃだめだろう! 事故が起こったら困るんだよ!

 すっかり萎縮し、ますます喋れなくなってしまったジョニーに、傍で見ていた新しい工場長は大きく溜息をついた。まったく、なんだってこんなまともじゃない奴を雇ってるんだ? ただのお荷物じゃないか。そう聞こえよがしに呟くと工場長は、今週中に周りに迷惑をかけず作業できるようにならないとクビだ、とジョニーに宣告した。そして、今日のところはもう帰れ、仕事の邪魔だ、とタイムカードも押させずジョニーを追いだした。

 ジョニーは真っ昼間に放りだされた街で泣きだしたい気持ちを、必死に抑えた。泣いてもどうにもならない。学校に通っていた頃もそうだった。環境が変われば周りの人間も変わる。自分のことなどなにも知らず、好奇の目だけ向けてきて、そのくせなにも理解してくれようとはしない人間ばかりになるのだ。そう、母親でさえ自分のことをわかろうとはしてくれないのだから――。

 ピートに会いたい。切実にそう思った。ジョニーは腕時計を見やり、まだこんな時間じゃ帰ってこないな、と息をつき――ふと、今日がマイアミ旅行に行くと云っていた日だと気づいた。

 がっくりと肩を落とし、ジョニーは空を見上げた――自分にはもうピートしかいないが、ピートには大学にたくさんの友人がいるのだ。それも、一緒に旅行するような。自分に気を遣って云わないだけでもう恋人がいてもおかしくないし、旅行するのだってその恋人とふたりでかもしれない。

 ――ナイフ、棄てなくて正解だったかもしれないな。ジョニーは自嘲気味に唇を歪めて笑うと、いつものバス停に向かおうと交差点を渡った。





 鍵を開けて家に入る。まだ陽の高いこの時間、母はスーパーマーケットで働いていて不在だ。もっとも、居たとしてもおかえりの言葉ももうかけてはくれないが。



 母とはもう、同じ家で暮らしていながらほとんど口を利くこともなく、一緒に食事をすることもなくなっていた。もしも間借りしている下宿人でもいたなら、そっちのほうがましかもしれなかった。下宿人なら少なくとも二週間に一度くらい、下宿代を払わせるために声をかけるだろうから。

 自分が最後に話しかけられたのは、もう数年ほども前のことだった――酔っていた母が溢した、おそらく本心からの言葉。帰宅した自分に向き、母は「ばかみたいに意地張って、あんたなんか産むんじゃなかった」と溜息とともに吐き、ビールを呷った。

 耳にこびりついて消えないその言葉は、僅かに残る幼い頃の母との想い出を、すっかり黒く塗りつぶしてしまった。



 玄関に入るとすぐ左手にある階段を上がりかけ、ジョニーは思いついて踵を返しキッチンに向かった。母がいるときはついつい遠慮するように避けてしまうが、こんなときくらいリビングでTVを見ながら食事をしよう。

 ジョニーは冷蔵庫から『SKIPPYスキッピー』のピーナツバターと、『SMUCKER'Sスマッカーズ』のブラックベリージャムの瓶を取りだした。そしてスライスされたホワイトブレッドを二枚、袋から出して皿に並べた。一枚にはピーナツバター、もう一枚のほうにはブラックベリーのジャムをたっぷりと塗り、合わせて挟む。これはジョニーの大好物だった。

 他にもなにかないかと戸棚をあちこち開けるとチートスがあった。これでいいやとジョニーはサンドウィッチPB&Jとチートスをリビングのテーブルに置き、TVをつけた。

 キッチンに戻って冷蔵庫からコーラを取りだし、ジョニーは缶を開けてそのまま飲みながらソファへ向かった。そして腰掛けようとTVのほうを向き――その画面を視て、ぴたりと動きを止めた。

 映っていたのはニュース番組だった。その画面には今、シカゴ、ニューヨーク、マイアミあたりをフォーカスした地図が映されている。その中心より少し上、シンシナティから赤い線が伸び、マイアミに向かって弧を描いていた。

 なんだろうと眉をひそめ、ジョニーはTVに近づくと、ダイヤルを回して音量をあげた。



『――が、十一時四十分頃、マイアミ国際空港の約三〇〇マイル手前で墜落しました。機体は大破し現在も炎上中ですが、周囲に民家などはなく、二次的な災害はないということです。現在、現場では必死の消火と乗員乗客の救出が試みられているようですが、今のところ生存者が確認されたという情報は入っておりません。繰り返します、シンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港からマイアミ国際空港に向かっていた航空機が――』



 画面には険しい顔つきでニュースを繰り返すアナウンサーと、墜落したという航空機のフライトナンバーと発着予定時刻を記したパネルが映っていた。その三桁の数字には見覚えがあった。思わず手にしていたコーラの缶を取り落とす。ジョニーはがたがたと躰が震えるのを感じ、込みあげてくる吐き気を抑えるように口許に手をやった。

 ――ピート。あれは、ピートが乗っているはずの便ではないのか。初めて見た航空券に記されていたあの数字――まさかそんな。ピートが、ピートが――

 そんなはずがない。信じられない、こんなことありえない。そう思いながらも、ちゃんと確かめなければとジョニーは居ても立っても居られずリビングを飛びだし――玄関に続く廊下に置かれている電話機に目を留め、立ち止まった。

 ピートの家の電話番号はアドレス帳に書いてあったはずだ。電話をかけて、子供の頃、遊びに行くと焼きたてのアップルパイやクッキーをだしてくれたおばさん――ピートの母親に、あの飛行機じゃないですよねと確かめる。たったそれだけのことだ。それできっと、フライトナンバーを自分が思い違いをしているか、予定が変わってピートは家にいるとか、そんな答えが聞ける。きっとそうだ。だが――

 やり場のない怒りや口惜しさや、たったひとりの友人を失う虞れへの慄き。そして、これまでに溜めこんだいろんなものが噴きだしたかのように、ジョニーは力を込めた拳で電話機を叩き落とした。その勢いのまま、壁を何度も殴りつけながら泣き叫ぶ。ちくしょう、どうして、なんで俺は。壁に穴が空き、拳が血に染まり、そしてその血が白い壁紙に散った。

 しかし、発している声はいつもと同じで、まともな言葉にはなっていなかった。

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