第2話 居場所
目を覚ますとすぐ、マチルダは起き上がって部屋の中を見回した。
どうやらあの大広間ではなく、どこかへ運んでくれたらしい。
横たわっていたベッドは、大きいサイズのもの。やや傷んではいるが、シーツは清潔に保たれている。
部屋の広さは、以前マチルダが暮らしていた自室の半分、といったところだろうか。とはいえ、机や椅子など、生活に必要な家具はそろっているようだ。
「……ここは……?」
わたくしは生贄として魔王様のところへ連れていかれて、でも実は生贄ではなくて、プロポーズをされて……。
「あっ、指輪っ!」
慌ててきょろきょろと視線を動かすと、ベッド横のサイドテーブルに指輪の入った箱がおかれていた。
なんとなく安心して、箱におさめられた指輪をじっと観察する。
「結婚……」
マチルダは十八歳だ。周囲には、同年齢で結婚している子も多かった。ただ、父はマチルダの結婚相手に悩んでいたらしく、縁談の話が届くことはなかった。
まさか、ここでプロポーズされることになるなんて、思ってもみなかったわ。
それも、あんなに格好いい方に。
魔王だ、という情報がなければ、飛び上がって浮かれていたかもしれない。爽やかな美貌に、紳士的な所作。非の打ちどころなんて全くない青年だった。
「でも、魔王様……なのよね」
考えても何もわからず、頭が混乱するだけだ。マチルダが深い溜息を吐いた時、いきなり扉が開いた。
「起きましたか?」
「わ……っ!」
中に入ってきたのは、可憐な少女だった。年齢は十一、二歳にしか見えない。ただ、人間の少女とは明らかに違う。
耳と尻尾が生えているのだ。
「あ、起きてますね!」
少女はにこにこと笑い、マチルダの傍へ駆け寄ってきた。
「目が覚めたら、魔王様のところへお呼びするように、と!」
牙があるわ、口の中に、鋭い牙が二本……!
一瞬身体がかたくなった。しかしすぐに、少女の溌溂とした笑みを見て力が抜ける。
「貴女は?」
「あたしはハンナ! ここで、魔王様のお手伝いをしていたんです。それで、今日からは奥方様のお世話をと……!」
「お、奥方様……」
どうやら生贄だと思っていたのは人間側だけで、魔物たちは花嫁がくる、という認識をしていたらしい。
だったらノアさん、何か言ってくれてもよかったと思うのだけれど……!
案内役への不満が浮かんだが、今さら気にしても仕方ない。気を取り直して、マチルダはハンナをじっと見つめた。
「今日からは貴女が、私のお世話をしてくれるのよね?」
「はい! なんなりと!」
ハンナが胸を張ると、尻尾がゆらゆらと揺れた。正直、頼もしいとは言い難いけれど、なんだかほっとする。
「魔王様がおっしゃったんです。あたしならきっと、奥方様も怖くないんじゃないか、って」
「え?」
「見た目が人間と全然違ったり、荒っぽい魔物もいるので……その点、あたしなら、安心かと!」
魔王様は、わたくしのことを……いや、ここへくる花嫁のことを心配してくれていたのね。
「では奥方様、あたしについてきてください!」
「分かったわ」
ベッドを下り、手で乱れた髪を整える。ベッド近くにあった姿見を確認してから、マチルダは部屋を後にした。
「ここが、魔王様のお部屋なんです」
ハンナが立ち止まったのは、マチルダが眠っていた部屋から、少し離れたところにある部屋の前だった。
コンコン、とハンナが二度ほどノックすると、扉がゆっくりと開く。
「魔王様……!」
「きてくれてありがとう、マチルダ」
にっこりと笑うと、フェリックスはハンナへ目を向けた。
「ハンナもありがとう。もう下がっていいよ」
「はい!」
元気よく返事をすると、ハンナは勢いよく去っていった。
二人きりになるなんて、聞いていなかったのに……。
「さあ、入って」
「……はい」
小さく深呼吸をしてから、部屋に踏み入れる。部屋の広さは、先程マチルダが眠っていた部屋とあまり変わらない。
内装もシンプルで、飾り気のない家具ばかり。
とても、この大きな城の主が住まう部屋には見えない。
「座って」
フェリックスが指をさしたソファーに腰を下ろす。少し硬くて、座り心地は微妙だ。
フェリックスは、ソファーの向かい側にある椅子に座った。
「驚かせてごめんね。まさか、倒れてしまうなんて」
「い、いえ。魔王様のせいではありませんわ」
マチルダがそう言うと、フェリックスはわずかに顔をしかめた。
え? わたくし、何かまずいことでも言ったかしら?
「できれば、君には名前で呼んでほしい」
「……名前で?」
「ああ。僕はあまり、魔王と呼ばれるのが好きではなくて」
「分かりましたわ、フェリックス様」
ありがとう、と柔らかく微笑んだフェリックスの顔はわずかに憂いを帯びている。
ざわ、となぜだか胸が騒いだ。
「マチルダが勘違いをしていたようだから、まずは誤解をときたかったんだ。君は、生贄として呼ばれたと思っているんだろう?」
「……はい。てっきり、そうかと」
「妻をめとりたい、と伝えたつもりだったのだけれど、どこかで話が変わってしまったらしい」
困ったな、とフェリックスは苦笑し、軽く頭を下げた。
「それで、結婚の件なんだけど」
「は、はいっ」
フェリックスはちら、とマチルダの左手を確認した。
あ、わたくし、指輪を部屋においてきてしまったわ……!
「急に言われて、困っただろう。ごめんね」
「え、いや、いえ、確かに驚きはしましたけれど」
別に、嫌だったわけじゃない。指輪を忘れてきたのも焦っていたからで、意図的なことではない。
どうすればそれが上手く伝わるだろうかと考えていると、フェリックスが再び口を開いた。
「実は今、魔界は全く統制がとれていない状態なんだ」
「え?」
「人間に先々代の魔王が殺されてから、ずっと」
フェリックスの言葉に、責めるような響きはない。けれど人間としては少し、居心地の悪さを感じてしまう。
そうよね。魔界からすれば、いきなり君主である魔王が殺されたんですもの。社会が混乱するのも当然だわ。
「僕は、魔界でもきちんと社会制度を整えたいと思っている。そのために、人間の知恵もかりたくて」
「あ……だから、人間との婚姻を?」
「ああ。その、強引な手段かもしれないとも思ったけど、他に思いつかなくて」
「いえ……そういったことは、人間の世界でも珍しくありませんし」
でもわたくし、社会制度や政治にすごく詳しいわけじゃないのよね。そりゃあ、お父様は優秀な文官ですけれど……。
とはいえ、きらきらした瞳を向けてくるフェリックス相手に、そんなことは言えない。
どうしようかと悩んでいると、フェリックスに両手を握られた。
「真剣に話を聞いてくれて、ありがとう」
「そんな……」
「人間は、僕たちの話をまともに聞いてくれないかもと思っていたから」
フェリックスの言葉に、マチルダははっとした。
人間と魔物は違う存在。お互いの違いを気にしているのは、人間だけじゃなかったのね。
「きてくれたのがマチルダでよかった」
温かい眼差しに、胸の奥がじんわりと温かくなる。気を抜けば、泣いてしまいそうだ。
だって、こんなことを誰かに言われたのは初めてだから。
母は、交通事故で亡くなった。幼いマチルダをかばってのことだった。
もしあの時死んでいたのが、母親じゃなくて私だったら?
父は、本当はそうなることを望んでいたのかもしれない。
だから、せめてお父様の役に立ちたくて、必死に生きてきたわ。
でも結局、お父様を深い悲しみから救い出したのは義母。
わたくしにはもう、居場所なんてないのだと、そう思っていたのに。
「マチルダに、ここにいてほしい」
真っ直ぐな言葉が、眼差しが、マチルダの心を震わせる。上手く喋れなくて、マチルダは頷くことしかできなかった。
わたくし、ここにいてもいいのね。
ここがわたくしの、新しい居場所……。
「はい。わたくし、フェリックス様のお傍にいますわ」
きっとフェリックスは、優しい笑顔で笑ってくれたのだろう。
マチルダの瞳は涙で潤んでいて、はっきりと見ることはできなかったけれど。
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