4 赤ん坊、話す(1)

 夜がけて、僕を寝かしつけたベティーナがそっと部屋を出ていく。

 奥の自室の扉が閉まり、静まるのを待って、僕はもぞもぞと動き出した。

 床に滑り下り、ドアへ向けてふく前進。ぬのひもでのドアノブ操作は、前回よりうまくいった。

 廊下へ出て、扉を二つ数える。その木の板の下からは、中のあかりが漏れ出ていた。

 少し息を整えてから。僕はこつんと、ドア板に軽く頭を打ちつけた。

 一呼吸、二呼吸。

 ゆっくり扉が開かれる。

「…………」

 立ち塞がる兄は、黙って僕を見下ろしていた。

 驚いた様子もなく、まるでこの訪問を予想していたみたいに。

 やがて身をかがめて、よいしょと僕を抱き上げる。

 扉を閉じて、ゆっくり僕をベッドの上に座らせる。

 それから、いつもの自分の位置なのだろう、机の前の椅子に腰かけて、ふうう、と長く息を吐き出していた。


「どうにも信じられない……自分でも馬鹿かと思ってしまうんだけど」

 独り言のようなつぶやきを漏らして、僕に向き直る。

「もしかして、本当に……お前もしかして、俺が話していること、理解しているのか?」

 黙って、そのまま兄から視線を離さない。

「何にしたって、信じられないことばかり、なんだ。もうどんな奇跡でも信じて、すがりたい気分なんだが。今日のおかしな出来事も、もしかしてお前、何か分かっているのか?」

 ゆっくり。

 しばらく間を置いて。

 ゆっくり、僕はうなずいた。

 はああーーー

 と、兄は長々とした息を吐き出した。

「教えてくれよ。何なんだ? 今日の出来事、あの野菜、不思議な光とか」

「……カゴ」

 やっぱり、うまく口は動かない。

 だからどうしても、短い言葉だけになる。

 それでも。

 僕の意味ある言葉を誰かが聞くのは初めて、だ。

 目を丸くして、兄は数秒黙り込んだ。

 もごもごと口を動かし、何を問い返したらいいか分からない、といった顔で何度もまばたきをし。

「カゴ? って、あの加護か?」

「『ひかり』のカゴ」

「『光』? ──って、お前の加護が『光』?」

「ん」

「お前の加護の『光』が、あの小屋の中を照らしてた? いや、ないだろ、それ。お前があそこにいないのに」

「できりゅ」

「え?」

「しゅこしはなれても……」

 加護の『光』は、自分を離れた頭上からでも照らせるのだ。

 その例を、兄も頭にえがいたのだろう。

 少し考え、しかしすぐに首を振る。

「それは自分のすぐ頭の上とかだろう? そんな離れたら──」

「どれだけ……ならできりゅ?」

「え?」

「どれだけ……ならできない?」

「……いや、分からない。って言うか、知らない?」

 だと思う。

 どれだけ離れたらできるのか、できないのか。

 実験した人がいるのかどうかも、知らない。

 おそらくたいていの人は、確かめる気も起こしていないと思う。

 自分がいない場所に光を作る必要を感じた人も、めっにいないだろう。

 でも、やったらできてしまった。

 三日前、あの小屋を出るとき、試しに室内に『光』をともしてみた。

 どれだけ離れて大丈夫かと、何度か振り向いてみたけど、裏口に入るまで、壁の隙間に光は残っていた。

 部屋に戻って窓から見たら、やっぱり光はあった。

 窓から見て小屋はすぐ近く、僕の部屋の奥行きより少しあるか程度の距離だ。

 それで大丈夫なら、少なくとも昼間は灯し続けることができる。

 僕はたいていの時間自分の部屋にいるし、ぼんやり灯すだけならほとんど無意識に続けていられる。

 僕が部屋で起きている合計時間、本来なら昼間の日照がある時間近くまで灯し続けられたら、実験として十分だろう。

 それを三日間。

 結局、実験は成功したことになる。


「しかし──」兄はもう一度、うめごえを取り戻した。「そんな離れて光らせるの、できるの、お前だけかもしれないじゃないか」

「しょれ……もんだい……じゃない」

「え?」

「カゴ、やくたつ、だいじ」

 またひとしきり、兄は口もごもごをくり返した。

 しばらく、ややしばらく、考え。

「そうか……」

「ん」

「離れる必要、ないんだ。これを実際やるなら、村の誰か何人かに担当させる。『光』の加護は何人も、何十人もいる。交替で畑の近くにいるようにすればいい」

「ん」

「問題はただ、他の人の『光』加護でもうまくいくか、だけ?」

「ん」

「それならただ、一人連れてきて実験すればいい。日光じゃなきゃダメだと思っていたのが、加護の『光』でうまくいった。むしろ日光よりよっぽど早く、いい結果が出た。そこが大事なんだものな」

「ん」

「うまくいきそう、じゃないか!」

 椅子の上で、兄はぐっとこぶしを握った。

 そんな兄に。

 今日いちばん伝えたかったことを、どう伝えるか、僕はひとしきり頭に巡らせた。

「くろあおそう……」

「うん?」

「……かあ、ちゃ……に」

「母上?」

「ん」

「母上に食べさせる?」

「ん」

「それはいいけど、なんでだ?」

「……きく」

「きく? ……えーと、何だ? 病に?」

「ん」

「聞いたことないぞ、そんなの。母上みたいな病にクロアオソウなんて」

「んーー」

「何でそんなこと、お前知ってる?」

「ん……」

 説明の言葉が出ず、僕はぱたぱたと両手を振り動かした。

 慌てた様子で、兄は顔を寄せてきた。

「落ち着け。いや大丈夫、ちゃんと聞くから。疑ってるわけじゃないから」

「……ん」

「だけどほら、病に効くなんて、ちゃんと裏づけ? 必要だろ」

「ん」

「誰かに聞いたとかか?」

「んん」

 小さく首を振って。しばらく考えて。

 僕は両手を前に差し出した。

「ちゅれてって……ぶどへや」

「ぶど? ああ、武道部屋か、下の?」

「ん」

「分かった、行こう」

 すぐに僕を抱き上げ、兄はもう一方の手でランプを持ち上げた。


 階下に降りて、武道部屋の手前奥、先生席の後ろの本棚を探る。

 手書きの植物図鑑。

「おさまが書いたものって言ってたな、これ」

 兄の記憶が正しければ、先代領主が領地内の植物を調べて記録したもの、ということになるようだ。

 開き、『クロアオソウ』の記述を当たる。

 その下、『効能』と書かれた部分。指で辿たどっていく。

「『めまい』とあるな。しかしこれが、母上の病?」

「ヒンケツ」

「何だ?」

「……チがたりない……」

「そんな病のことか。確かに母上がそんなのらしいな」

「しょうじょう……めまい」

「んーーまあ分かった。母上の病の症状で多いのがめまいで、それに効くってことだな」

「……ん」

「分かった。お祖父様の保証があるなら、母上も他の人も、信じるだろう」

「ん」

 正確には。

 クロアオソウの見た目から、ホウレンソウ、コマツナ、と『記憶』が連想した。

 それらの野菜は『鉄分』を多く含み、貧血に効くらしい。

 その知識に加えて、この図鑑の記述を見つけて確信に近づけた、ということだ。

 そこまでは、兄に説明できないけど。

 階段を昇りながら、ショボショボの目をこする僕に、兄は笑いかけてきた。

「まだまだきたいことがあるけど、今日はもう限界だな。また明日以降、相談に乗ってくれ」

「……ん」

「今日は助かった。ありがとうな」

「ん……」


 自分の部屋で、ベッドに寝かせてもらう。

 そっと頭をでてくれる感触は、何故なぜか前に感じたことがある気がした。

 そんなぎこちない奉仕も、僕の内でもう夢うつつの中に遠のいていった。


 さんざん、迷ったけど。

 結局、思い切るしかなかった。

 僕の目指すところ──領民と母を救いたい。

 その実現のためには、兄の力と僕の知識を合わせることが、必要だ。

 兄を信じて、腹を割ろうと心を決めた。

 不安で、不安で、仕方なかった。

 もしかすると、自分が化け物とか、たんしゃとか、きゅうだんされるのではないか、と。

 恐ろしくて仕方なかったけれど。兄を信じようと、決めた。

 それが、受け入れられた。

 ここ数日でいちばん、しばらく得られなかった、熟睡に、僕は落ちていた。

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