1 赤ん坊、目覚める(1)

わがはいは赤ん坊である』


 なんとなくいきなり、そんな言葉が頭を横切っていた。

──はい?

 いきなり、すぎるだろう、まったく。

 ツッコミ? って言うのか? よく分からないけど、そんな言葉もすぐに続いて。

『名前は……あるのかもしれないが、まだ分からない』

──何じゃ、こりゃ!

 続く頭の中の声に、心中絶叫してしまっていた。


 戸惑い混乱する、しかない。

 何しろこちとら、自分の現状把握さえまだできていないのだから。

 自分は今、硬いものの上にわずかばかり柔らかく薄いものを敷いたらしい感触を背に、横たわっている。

 何となくついさっきまで長い時間をかけて、ようやく何とか意識がはっきりしてきた、そんな感覚。

 それなのに、それでようやく当然の流れなら周囲の現状認識に移ろうとするはずのところ、いち早く別のものに頭の中を占領されてしまった、と言えばいいだろうか。

 別のもの──浮かんできた言葉を素直に使って表せば、それはつまり何らかの『記憶』というものらしい。それも、どうも今いる現実世界とはかけ離れているもの、というどこかで赤く点滅する注釈つきの。


──どういうこっちゃ。

 再度ツッコミを入れて、しばし考える。

 考えて、その『記憶』なるものはとりあえず横に置いておくことにした。

 それが現実とかけ離れているというなら、まだ認識しきれていない現状の方を優先しよう。

 身体からだを動かしてみる。

 足も手も動く。しかしなんと言うか、ぎこちない。

 素足は、ややごわごわした布地の上をぐにぐにとこすれるばかり。

 やたらとぎこちないながら持ち上げた手は。

──うん、小さい。

 ぼんやり視認すると同時に、さっきの内なる声を思い出した。

──吾輩は赤ん坊である。

 つまり、そういうことらしい。

 自分は今、赤ん坊という存在としてここにいる、らしい。

 うん、ととりあえず、うなずく。


 いや、ふつうの赤ん坊、こんな落ち着いた現状認識をするわけがないじゃないか、とどこからかささやく声も聞こえる気がするのだが。

 そう言われても、どうにもしようがない。

 自分の頭はとりあえず横に置いたわけの分からない『記憶』と共に、妙に落ち着いた認識に働いている。

 同時に、目の前に見えるまぎれもない自分の手は、『記憶』に照らし合わせて赤ん坊と判断するしかない外形だ。

 つまり、自分の現状。

 見てくれは赤ん坊。

 頭の中は、赤ん坊としてはあり得ない思考。

 以上。


──それでいいのかよ?

 またどこからか、異をとなえる声が聞こえる気もするけど。

 やっぱり、そう言われても、どうにもしようがない。

 違和感はちゃちゃあるのだけど、現実として受け入れるしかない、というような。

 これ以上は、もっと周囲を観察して認識を深めるしかない、と思えるのだが。

 とにかく、身体がぎこちなくしか動かせないのだ。

『記憶』に照らし合わせる限り、まだ寝返りもできない状態、と思うべきのようだ。

 何とか、わずかながらにも左右を見回すことができるらしい状況からかんがみるに、赤ん坊の成長過程において『首が据わる』と『寝返りが打てる』の中間期、ということになるのか。

 視界も、かなりぼんやりしか映像をとらえられない。

 これも生後間もない赤ん坊として自然と思うべき、か。

 そこから考えるに、どうもあわててじたばたしても仕方ない、ということになりそうだ。

 ゆっくり現状認識を進める、しかないということだ。


 思ううち。

 どうも、下半身の方に湿った不快感を覚えて。

「ふにゃ、ふにゃあ」

 ほぼ条件反射的に、我ながら情けない声が口をついて出た。

 少し間を置いて、

「××××」

 妙に幼げな声が、どこからか近づいてきた。

 本音のところはもちろん分からないのだけれど、何とも慌てた感じ。

 想像の上で翻訳して音声で表現すると、

「はい、はい、はい、はい、今すぐ──」

 と、まるで一人受け答えでもしているみたいだ。

 よくある、年輩者から、

「『はい』は一度でいい!」

 と、たちまちしっせきされそうな?

──いや、勝手な想像で状況を作って、ギャグを構築しても仕方ないんだけど……。

 気を取り直して、観察し直す。

 ぼんやりながらの視界で認識する限り、予想以上に小さな女の子らしい。

『幼女』と『少女』の合間あたりか、と『記憶』が告げる。

 慌てふためきながらも一生懸命、という仕草で、小さな手をベッドの僕に伸ばしてきた。

 ついでに分かったこと、二点。

 聞こえてくる音声は『記憶』にある言語からは意味がとれないものだった。

 またぼんやり見てとれる女の子の外見、服装は、『記憶』で見慣れたものとはかけ離れている、と思われる。

『西洋』とか『中世』とか『メイド?』そんな言葉が頭をよぎる。つまり、そのたぐいの形容がつけられてしかるべき外見らしい。

 どうも『記憶』自体がなかなか明瞭に整理されず、はっきりした判断に結びつかないのだが。


 その後すぐ、その女の子の世話を受け。

『記憶』と照らすとどうにもこらえきれない羞恥に耐えるしかなく。

 ついでに、自分が男の子であることをここで知った。

──うん。だいな情報を得た、と思っておこう。

 男の子である以上、自分の一人称は『僕』ということでいいだろうか。

 そのまま、つまり、ゆっくり現状認識を進めるしかない、という決意のもと。

 しばらくは、周囲の観察に努めることになった。


   ◇◇◇


 その後、分かったこと。

 僕の世話をするのは、ほとんど最初の女の子一人が担当らしい。

 世話係、『子守り』とかいう役割になるのだろう。

 してみると、僕の生まれた家は、少しは上流階級寄りということになるのだろうか。

 しかし、世話係が幼い子守り一人というあたり、十分裕福という気もしないわけだが。

 僕のおなかいた頃、子守りとは別の女性がやってきて、乳を含ませてくれた。

 どこか事務的に感じられるその様子では、母親というわけでもないようだ。ということになるのか。

「××××、ベティーナ」

「××××」

 というやりとりで聞きとれた限りからすると、子守りの名前はベティーナというらしい。

『西洋』という単語が、また頭をよぎる。

 抱き上げられた拍子によく見た、青い目、ピンク色の髪、顔つき。

『西洋』という以上に元の世界とかけ離れている、と『記憶』が告げる。

 乳母が出ていくと、ベティーナはしばらく僕を抱っこして部屋の中を歩き回っていた。

 開いている窓を見ると、どこか長閑のどかな木々が並ぶ景色に、ゆうらしい色合いがんでいる。


 ベッドに寝かされてしばらくした後、ベティーナに抱かれて部屋を連れ出された。

 薄暗い廊下の先に見えるのは、下り階段らしい。とすると、ここは二階ということか。

 そのまま階段までは進まず、手前のドアにベティーナは向き直った。

 その拍子に、妙な気配みたいなものを感じて、僕は廊下の後先を見回した。けれど、誰の姿もない。気のせいだったか、と改めてドアを見直す。

 ノックして入った部屋で、ネグリジェ姿の小柄な女性がベッドに半身を起こして僕を迎えた。

 この人が、母親らしい。

 にこにこうれしそうなその金髪に色白の顔は、まだ幼さが残るが相当な美人と言ってよさそうだ。

 そばについているメイドらしい中年女性のづかいようからして、どうも身体が弱くてせっているということらしい。

 育児を子守りと乳母に任せている実態が家柄のせいか母の健康のせいかは分からないが、とにかく僕を抱きとるその仕草に愛情は感じとれて、安心した。

「××××」

「××××」

「××××」

 この日の僕の様子をたずねているのではないかと思われるベティーナとのやりとりも、息子への気遣いがこわもって感じられる。

 あまり長い時間母親のもとにいることはかなわず、また僕はベティーナに抱かれて元の部屋のベッドに戻された。

 その後、部屋に照明がともされることもなく、僕が大人おとなしくベッドに収まっているのを確かめて、ベティーナは部屋を出ていった。

 子守りの寝室は別にあるようだ。

 一人残されていろいろ考えようかと思っていたが、赤ん坊の悲しさ、いつの間にか僕は眠りに落ちていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る