第2話 人格者、千誠の独白

「――良い事も悪い事も楽しんで、ねぇ」


 千誠は滅多に吸わなくなった煙草をベランダでくゆらせていた。元々、そんなに煙草を吸う人間ではなかった。煙草を吸うと味覚が狂うからだ。だが、吸いたくなる時だってあるのだ。……年に数回ほど。


「どの口が言うんだか」


 そう独り言を吐いて皮肉げに笑う千誠は、普段の「まじめだけど穏やかで優しく、面倒見が良い」という人物像とはかけ離れている。ゆっくりと煙草を吸い、肺を煙で満たす。

 吸った後は毎回後悔する。口内に残る煙さや苦みが千誠の和菓子屋の息子という土台を汚すからだった。コーヒー以外の飲食物の後味が全て煙草になる。あれは、煙草が好きでなければ耐えられないのではないだろうか。

 この後襲ってくるであろうそれを考えると憂鬱な気持ちになるが、なかなかやめられない習慣だった。


 それはともかく、祥順達は大丈夫だろうか。彼らの生活は順風のようだが、あの不満は少々不安だ。千誠のただの想像だが、恐らくあの二人は恋人同士なのだろう。

 同性間の恋愛事に否定的でない人間が社内での二人の姿を見れば、一目瞭然だ。恋人でもない人間が、そんなに頻繁におやつ休憩を共にしたり夕食を共にしたり、ましてやほとんど毎週“お泊まり”なんてするわけがない。


 マイノリティに厳しい世の中なのは違いない。とはいえ、それは個人の自由だ。会社の運営に支障が出なければどうでも良い。

 だからこそ、彼らから曖昧な感じで恋愛相談――彼らはそんな風に思っていないだろうが――をされると少し困ってしまう。まあ、最近は彼らなら話をしても問題ないだろうと寛茂との生活をついつい話し込んでしまうから、お互い様というところか。

 祥順と浩和は、恐らく同居を始めたところからしてやっとの蜜月だろう。そんな時のあの不満。千誠には遠い過去にそれが原因で起きた苦い過去があった。是非とも、あの二人には乗り越えてもらいたいものだ。


「……って、言っても俺は失敗したっきりだっての」


 指もとが熱くなり、吸殻入れにぽとりと落とす。小さくじゅっと音がして小さな煙を吐く。もう一本取り出して、火をつける。過去の苦い思い出と共にゆっくりと紫煙を吐き出した。

 普段の生活からは想像できないかもしれないが、これでも千誠はゲイである。自覚してからは、和菓子屋だって跡を継ぐ事よりもサポートをする方向へと転換したし、“もしも”の事を考えてそれなりの人格者になった。この会社に入ってからは特に人格者であれと意識している。

 そんな千誠はそれ以前は少し自由な生活をしていた。いくつか出会いもあった。だが、人格者であるように心がけているのは“もしも”の事だけではない。あの時のような苦い思いはしたくない、というのもある。


 ……我ながら臆病な人生を送っていると思う。千誠は彼らにそんな風にはなってほしくなかった。


「まあ、余計なお世話か」

 ベランダの手すりに身を預け、ゆっくりと煙草を味わう。紫煙を見ていると思考が曇っていく。この煙たいのが良い。くだらない事を考える時には効果的だ。


 千誠は自分の事を思う。もっぱらわんこ系の賢くて可愛い男が好みだが、千誠の隣はしばらく空席のままだった。そんな千誠の潤いは寛茂だ。

 あれは駄犬だが、バカほど可愛いの典型だ。――さすがにバカすぎるから調教中というだけで。メインは会社的な事情であるものの、多少なりとも千誠の私情が挟まれているのは確かだ。


 あの駄犬とどうこう、という積極的な気持ちは今のところない。懐かれたら生活の潤いになって良い。ただそれだけだ。それだけのつもりだ。最近は異様に懐かれていて、たまに困惑する時もある。

 そういう時はちょっとむず痒い気持ちになる。ノーマルだったはずの彼らがくっついて、しかも順調なのを見ているからだろうか。何となく、寛茂の“栗原さん大好き”発言にどぎまぎしてしまう。


 寛茂といえば、今日は祥順と浩和に付き合って飲んでくると言っていた。久しぶりに静かな夜だった。いや、営業である寛茂がいない夜はあったが、出張中は何かと電話をしてきたりして意外に静かではなかった。

 千誠は彼から電話がくる度、離ればなれになって寂しがる犬を面倒みる気分になったものだ。今夜は飲み終わったら帰ってくるという事で、連絡はこないだろう。だから、寛茂から連絡のない夜というのは千誠にとってある意味煙草をくゆらせるチャンスだった。


 もう一本。これで最後にしよう。


 千誠は新しく煙草を取り出した。寛茂はちゃんと足を延ばして飲めているだろうか。のんびりできていると良い。千誠との生活でのストレスは、少なからずあるだろう。そういうのを発散してきてくれれば良い。


 静かでゆっくりとした時間が過ぎていく。こうして一人、煙草を吸っている内に、静かすぎて物足りない気がしてくる。きっと寛茂がにぎやかすぎるせいだ。

 一緒の生活はまだ一ヶ月ほどしか経っていない。たったそれだけの期間でこんな気持ちになるのは、相手が寛茂だからだろう。あれは本当に人の心に滑り込んでくる。

 寛茂が千誠に本気で惚れたら相手くらいはしてやっても良い。それくらいには愛着が湧いてきていた。


 だが、それだけだ。千誠がパートナーにしたいと望む程に強い“何か”は今のところない。


 そもそも好みなのは性格だけだ。見た目は自分の好みよりもごついし、脳みそは悪すぎる。暇つぶしには丁度いいが。


 千誠は、多分本気の恋などもうしないだろうと思っていた。自分で制限した最後の一本を吸殻入れへと落とす。名残惜しそうに薄い煙が立つ。

 寛茂に見つからないように煙草を隠し、シャワーを浴びてしまおう。そして先に寝てしまおう。明日からはまた人格者として寛茂を指導すれば良い。

 千誠はすっかり煙くなってしまった口の中を入念に手入れしようと室内へ戻りながら、そう自分に言い聞かせるのだった。

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