第7話 引越しに思わぬ伏兵
あっという間に次に住む家が決まり、とんとん拍子に何もかもが進んでいく――と思いきや。思わぬ伏兵が待っていた。
「おっま……! こんな事ヘマする奴いるかぁ?」
珍しく浩和の声がフロアに響く。彼は周囲の視線を感じて我に戻ると、慌てて寛茂の腕を掴んでブースへと引っ張っていった。
たまたま旅費精算の確認で同じフロアをうろついていた祥順はその様子に首を傾げる。
「ありゃかなり怒ってるなー」
そう近くで呟いたのは浩和と同じ企画部に所属している英俊だった。
「そうなんですか」
怒っている彼を見た事のない祥順は実感のない声色で、のほほんと合いの手を入れた。
「ま、同じ部署の俺でも数回しか見た事ないけど。不思議なくらい結構沸点が高いじゃん? だからああなるってのは、伊高がよほどヤバい事をしでかしたか何かだと思うね」
だんだん不安になってきた。引っ越しは今週末だ。業者にも依頼しているし、入居の手続きも終わっていて日にちをずらすのも難しい。今は水曜日、残り数日で解決できる問題なら良いが……。
そんな祥順の不安は、現実となった。
何が起きていたかと言うと、寛茂が納品先を間違えて手配してしまっていたらしい。しかも、佐渡に。納品するはずだったのは長崎で、方向も何もかも違うから間違えようがない――はずだったのである。
強いて似ているところをあげるとすれば、社内で使っている得意先番号が似ていた。が、しっかりと送り先の名前を確認していれば間違いに気が付くはずである。なのにも関わらず、間違えたのであった。
間違ってしまったのは、もうどうしようもない。本来の納品日は発売日よりも事前だった――と言っても先方の希望で直前になっていた――為、ほんの少しだけ猶予がある。
幸いな事に、佐渡からであっても間に合う日数であった。が、しかし。
「日曜日、かぁ……」
発売日を休日に当ててくるのはそうおかしな事ではない。ただ、先方がお怒りの為、納品と共に謝罪をする事となってしまった。因みに納品は土曜日の予定である。
つまり、土日の休日返上であった。かと言って引っ越しの日程を変えるわけにはいかない。苦肉の策で、浩和の引っ越し立ち会いも祥順が行う事にした。一緒に暮らすとは言え、人の荷物の移動を任されるとは少々気が重い。
不幸中の幸いで、荷物の移動は別の日程にしてあったから可能だったのだ。土曜日の午前中は祥順の荷物、日曜日は浩和の荷物、それぞれ移動する事になっている。この順番になったのは祥順の荷物の方が少ないからであった。
備え付けの納戸を有効活用していて大きなタンスはないし、棚や電化製品の類は浩和の方のものを使う事になっている。一通り段ボールにまとめたら、後はベッドぐらいであった。
当日。あらかじめベッドの位置は決めてあった為、ベッドを置く部屋に段ボールも全て置いてもらうだけで祥順の引越しは終了した。引越しで他にやる事があるとすれば、明日運び入れられる浩和の荷物の確認、そしてそこに含まれる冷蔵庫へ祥順の家の冷蔵庫から中身を移動させる事くらいである。
その日の夜、夕食をコンビニで済ませた頃、丁度電話がかかってきた。浩和からであった。
「そっちは大丈夫?」
祥順がそう問えば、浩和は苦笑して答えた。
「まあ、明日店舗の手伝いをすれば何とか許してくれるみたいだ。本人もかなり反省しているし、良い薬になっただろう」
「そう言えばホテルは同室だとか」
「今シャワー浴びてるよ」
隙を見て連絡してくれたようである。
小さな気遣いに祥順はほんのりと口元を綻ばせた。
恋人になってから約一ヶ月。穏やかなスタートかと思いきや引っ越し期間にアクシデント。一緒にいる時間がなかなか取れないでいた。恋人になる前の方が一緒に過ごす時間がとれていたなんて、不思議な話である。
むしろ、ずっと恋人以上の関係を友人として過ごしていたのだろうと考えれば、少々気恥ずかしい思いを祥順に抱かせた。
「カジくんに全部任せるような感じになっちゃってごめんね」
「いや、構わないよ。荷造り自体は済ませてくれてるから、俺はただ引っ越しを見届けるだけだ」
事実、浩和は持って行く家具類の中身を取り出して箱詰めしただけではなく、事前に冷蔵庫の中身を祥順の家の冷蔵庫へ移してしまい、電化製品全てがすぐに運び出せるようにしてくれていた。祥順がする事と言えば、持って行く家具を業者に伝え、引っ越し先のどこに置けば良いのかを指示するだけである。
人の荷物を見届けるという精神的な緊張を除けば、やる事なんてほとんどないのであった。
「頼むからにはできる限りの事はやっておかないと。今日は大丈夫だった?」
「ああ、もちろん。俺の大物はベッドだけだし、割と簡単だったよ。だから明日やる君の荷物が本番って感じかな」
祥順は段ボールに囲まれた部屋を見回した。
荷物が少ないとは言い切れない量だが、許容範囲だろう。いらなかったら捨てれば良い。
「俺の方は心配ないから、明日は仕事の方……というか、伊高さんの事に集中しろよ」
「これ以上の失敗はしようがないと思うけど、極度の緊張ってのは人間の思考を混乱させるからなぁ。でも接客は得意だから、憎めない性格も相まって、先方も荷物が間に合ったからーって許してくれたよ。
明日のは、自分達がどれだけ真剣にこの日に挑んでいるのかを見てもらいたい、だからこそこういうミスは今後しないでほしい、そいういう意図があるんだと思う」
そう言ってから、浩和は小さく「誰だって大きな失敗の一つや二つ、こなさないとな」と付け足した。
浩和にはそういう失敗があったのだろうか。失敗には程遠そうな姿しか知らない祥順は、いつの日かそのエピソードを教えてもらおうと脳内にメモした。
「何かあったら連絡してくれ。タイミングを見て折り返すから」
「大丈夫だって。でも、万一そういう事があれば連絡する」
心配性なのか、と思いつつ、心配されるのは嫌いじゃない。祥順はこれ以上ない程に落ち着いた気持ちだった。
「あー……もう少し話していたいけど、時間切れみたいだ」
「滝川さん、風呂でましたーって……お電話中?」
残念そうな浩和の背後で呑気な声が聞こえている。
確かにその様子では立ち直ってはいるようである。
「ああ、じゃあまた明日。……帰ってくるんだっけ?」
「そのつもり。遅くなると思うけど、新しい方に帰るよ」
「待ってるよ」
「うん、じゃあまた」
早口で会話を切り上げ、通話を終わらせた。明日の夜までにある程度は綺麗にしておかないとな。祥順は明日の段取りを脳内でシミュレーションしながら寝落ちしたのだった。
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