第8話 義母

「アリエッタ様」


 ぼんやりとした意識の中で、アリエッタの視界にミリアムの安堵した顔が見えた。


 部屋の中は明るくて、少なくとも六時間以上は意識を失っていたようだとアリエッタが思っていると、「人を呼んでまいります」とミリアムはアリエッタの視界から消えた。



「アリエッタ、気分はどう?」 


 なんとなくアリエッタが目覚めたと聞けばエドワードが来ると思っていたのに、エドワードではなくアネットが来た。

 エドワードではないことをアリエッタは残念に思ってしまう。


「あら、これはちょっと意外ね。ねえ、ミリアム」

「然様ですね」


 楽しそうな顔をするアネットと困惑しているミリアムにアリエッタは戸惑ったが、まだ本調子じゃなかったこともあったため一旦は疑問をおいていくことにした。


「気分はどう?痛みは?」

「……大丈夫です」


 痛みで気を失ったのだったと思い出したアリエッタは、そのことすら忘れていたことに少しだけ申しわけなく思った。

 ミリアム同様にアネットも何でもないようにしているが、その表情の翳りから心配をかけてしまったことが分かる。


「あの、私はどのくらい寝ていましたか?」

「安心して、ほんの数時間よ。エドワードもついさっきまでここにいたんだけれど、どうしても外せない用事が入ってしまって……何というか、相変わらずタイミングが悪い子ねえ」


 呆れたようなため息を吐くアネットに、思わずアリエッタの顔が緩む。


 成人し、一児の父であるエドワードを完全に子ども扱い。

 エドワードは幼い頃から神童といわれるほど頭脳明晰、武芸は最低限だが領地で自ら農具を扱っているので実戦は強いため文武両道といってもいい。


(あのエド様にダメ出しできるのはアネット様母親の特権ね)


「リチャードはどうしていますか?」

「あの子にはローランドがついているから安心……いえ、トーリがいるから大丈夫よ」


 ローランドに何かあったのだろうか。

 首を傾げるアリエッタに、「内緒よ」とアネットは声を潜める。


「ローランドったらリチャードが“大のほう”をするとね、私かトーリにリチャードをそっと渡すの。目に入れても痛くないって言っているくせに、いざ“大のほう”となると怖気づくのだから」


 上品な公爵夫人の口から「大のほう」と連呼されてアリエッタは唖然としたが、次第にその様子が想像できてしまいアリエッタの口元は震える。


「アネット様も『……臭いわ』と遠慮なく言いましたけれどね」

「ミ、ミリアム、それは内緒だって」


 ミリアムの言葉に慌てるアネットの様子に、アリエッタは声を出して笑ってしまった。

 そんなアリエッタに言い合っていたミリアムとアネットは驚いた目を向け、互いに目を合わせて頷きあうと、


「お元気そうなので、食事を用意するようにいってきます」

「お願いね。アリエッタ、昨夜も食べていないから何か食べておいたほうがいいわ」


「母親は風邪もひけないといいますものね」


 アリエッタの言葉にアネットがきょとんとする。


「まあ、乳母や使用人はもちろん、わたしたちがいるのだからあなたが無理を……「アネット様の食事もこちらに用意しますが、よろしいでしょうか?」……ミリアム?」


 言葉を遮ったミリアムに、アリエッタの驚きの目とアネットの訝し気な目が向けられる。

 ミリアムは「申しわけありません」と言ったあと、説明をする。


「母親は風邪もひけないなど、下女たちが大きな声でそんなことを言っていたのをアリエッタ様がお耳に挟んでしまったのです。全く、初めてのご懐妊で不安なアリエッタ様にそんなことをきかせるなどと、侍女長のノラ様が厳しく罰したのでお許しください」


「……そういうことなのね。アリエッタ、使用人たちのコソコソ話で実害はないのだし、この件はノラの判断に任せてしまっていいかしら?」


「はい、もちろんです」


 アリエッタはエドワードの妻としての自覚がなかったし、何よりもウィンソー邸の女主人は公爵夫人であるアネットだ。

 アネットがノラに任せると言った以上、アリエッタが返せる答えは「是」のみだ。


「いい子ね……でも“母親は風邪もひけない”という言い回しはもう忘れてほうがいいわね。心意気としては立派だと思うし、おそらく真実なのだろうけれど……私は好きではないわね」


 アネットはアリエッタの手を両手でとると、そのまま自分の額にこつりとあてる。


「だって、誰にも助けてもらえないみたいじゃない。貴族だからとか、身分やお金で解決しているのだとか、何と言われても構わないわ。あなたは一人じゃない。お願いだから、もうそんなことは……」

「……はい」


―――“一人じゃない”?それは、本当?


 アリエッタの中の何かがそんな疑問を、どこかその言葉を嘲笑するかのような音で投げかけたが、アリエッタはアネットに握られた手の熱さを受けいれた。


***


(……まただわ)


 少しずつ歩く距離が伸びて、体力も増えたアリエッタは起きている時間が長くなった。

 そしていつの頃か、廊下で侍女たちが自分のことを言っていることに気づいた。


 部屋の中にはいまアリエッタしかいない。

 声の主、おそらく三人はそれを分かっているのだろう、「アリエッタ様って」とアリエッタに対する不満をつらつらと述べていく。


 卑怯だとアリエッタは思った。

 アリエッタが暴漢に襲われて記憶を失っていることは新聞で明らかにされた。


 個人情報ではあるが、社交に穴をあけることになってしまうため仕方がないというのがアリエッタの意見でもあり、抗議しかけたエドワードはアリエッタの言葉で踏みとどまった。


(声では誰だか分からないと思っているのよね……確かに分からないけれど)


「アリエッタ様の記憶喪失って本当だと思う?」

「嘘に決まってるじゃない。ああ言って、エドワード様の気を引こうとしているのよ」


 悪口の盗み聞きをしていて、あの中にエドワードに想いを寄せる侍女がいることは分かっていた。

 その誰かは父親同士が親友というだけで婚約者になれたアリエッタをズルいといつも言うのだ。


(確かにズルいかもしれないですけど、結局ああいう方は誰がエドワード様と結婚しても何かと理由をつけてズルいというのよね)


「アリエッタ様だけど、いつまでこっちにいるのかしら?いつもならもう領に帰る時期なのに」

「ケガをしているから馬車に乗るのも大変なんじゃない?」


(……え?)


「ケガも自作自演かもよ」

「まさか、聞いた話では相当なキズだったみたいよ?」


「だってアリエッタ様がケガしてから、旦那様たちも偉い使用人の人たちも皆おかしいじゃない。いままでアリエッタ様に冷たい態度だったのは知っているでしょ」

「まあ、そうね」


「あの部屋だって、突然アリエッタ様に使わせるって言い出して。いままでアリエッタ様がどんなに使いたいといってもエドワード様は突っぱねていたのに」


(……う、そ……)


「リチャード様にしたって、いままで私たちリチャード様のことを知らなかったのよ?ヴァルモント伯爵を継ぐ方だから身の安全のために秘密裏に産んで領地で育てていたというけれど、ちょっと変じゃない?」


「確かに変だけれど私たちが知らされてなかっただけじゃない?だって、拾ってきた子どもだといっても、あの色はありえないでしょう」


(どういう……あっ!)


 慌てて扉のほうに向かおうとして、自分が今までのように簡単に動けないことを忘れていたアリエッタはドタンとベッドから落ちる。

 ずうんっと体に響いた振動と、それに続いた痛みに息を飲む。


「やばっ、聞こえてた?」

「ちょっと、早く行こう」


「……まっ、待って」


 バタバタと走り去っていく足音よりも小さな、囁くような声しか出ない自分がいやになった。



「……どういう、ことなの?」


 痛みか、それとも訳が分からないからか。

 アリエッタの視界が涙で滲んだ。

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