25.1

25.



 一つ目。目の前に立ちはだかる規格外に大きな体躯を持つ熊は、片側しかないその真っ黒の一つ目で私を睨め付けると、後ろ二本の足で立ち上がって、ぐおうと威嚇した。

 大熊の背後には彼女の子と思われる、小熊の気配が二つ。

 私も同じく片側の世界しか映さない瞳をその一つ目に向ける。

 二本足で凛然と立ち塞がる大熊に私は、自然の中で生きる気高さと誇りを感じ、思わず畏敬の念を抱いたが、それと同時に強き者である彼女に課せられた重しや、その内に隠した、未知のものに対しての恐れを感じ取って私は内心、彼女に同情した。

 何倍も体格差のある自らの威嚇に対して、何の反応も示さずぼおと立ち尽くす私に、ついに痺れを切らしたのか、大熊は四つ足に戻って力を溜めると、その力を全て使って雪が降り積む地面を蹴り上げ、こちらに猛然と突進してきた。

 まだ距離はある。私は静かにその躍動する巨躯を眺めた。獰猛と襲い来るその一つ目には未だ恐れがあった。それは過去に負ったその一つ目の代償か、それとも目の前に立つ自らと同じ一つ目に感じ取る、得も知れぬ恐怖か。しかし彼女はその歩みを止めることは出来ないだろう。その強さ故に。

 私は憤然と突き進む大熊に向かって、おもむろに両手を持ち上げると、彼女の進む、雪に覆われた地面の、またその先の大地に力を集中させて、イメージする。隆起する土。割れる大地。全てを飲み込む裂け目。

 大地は悲鳴を上げて隆起し、大熊の巨大な体躯は走る勢いそのままに、その悲鳴の中に飲み込まれていった。

 森の中に大熊の悲痛な叫び声がこだまする。イメージ通りに裂け目に捕らわれた大熊は、そこから逃れようと手当たり次第にその巨大な両腕を叩きつけるが、裂け目に捕らわれた下半身は逃れることは出来ず、むしろ土の下に隠されていた硬い岩盤が、逃れようともがけばもがくほどに埋もれた足を傷つけて、そのたびに大熊は痛みで惨たらしい悲鳴を上げた。

 私はその姿に憐れみと、同情と、そして恐怖を抱いた。次はお前だと誰かに言われている気がした。左目に埋め込まれた金色の義眼が熱く燃えて、目の奥を抉られるような痛みが走った。

 “道”を開いた時から、いや、もっと前からか、ずっと体調が悪い。

 ユーリのあの頼りなさげな、それでいて何か気に掛かる顔が脳裏に浮かんだ。彼は私を連れ戻しに来るだろうか。

 裂け目の中からまた大熊の悲鳴が上がった。

 いや、彼は来ない。あの坑道の入り口で私が外を見て回ると言った時、彼は言葉では私を止めたが、内心では引き留めるつもりは無いように見えた。きっと私がもう用済みであることが彼にはわかったのだろう。確かに今日の私はもう限界だった。濃度の高いマナが瘴気のように漂うあの坑道は今の私にとっては、毒そのものだった。


 (だけど、こんな目にあうならそれぐらい我慢すればよかった……)


 ずきずきと痛む目を抑えて、私は彼女を一刻も早く終わらせてやるために、隆起した地面に上って彼女を見下ろすと、大熊の首筋に力を集中させた。しかし――――


 「っ――――!」


 ふいに大熊の手元から伸びた大きな鉤爪が、逃げ遅れた何本かの銀色の毛先を刈り取った。まさか手の裏にあんなに大きな爪を隠し持っているなんて……

 とっさに密度を高めていた大気を自らに纏わせて、その一撃の威力を殺したが、反動で私は後方に吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。

 痛い。魔術で大きく衝撃を緩和したものの、口の中に混じる土の味と雪の冷たさ、そして目の奥を抉るような頭痛は、確実に私の精神をすり減らしていた。

 私は身を起こして口の中の砂利を吐き捨てると、もう一度大熊の方へと近づいていった。慎重に歩みを進めて、鉤爪の当たらない程度の距離を確保すると、また地面に力を込めて、今度は裂け目から飛び出す木の根にイメージを与える。イメージは蠢く触手。

 地中にある根を無理やり引っ張られた木々がめきめきと言う音を立てて倒れた。それと同時に、地中に埋まった無数の木の根、それ自体がまた新たな命を得たかのように、独りでに大熊の半身を伝って、徐々に締め上げていく。それに対して大熊は手と爪を振り回してあがくが、足元を拘束された状態で、無数に迫りくる木の根全てを防ぎきることは難しかったようだ。ついには幾本の太い木の根が全身に絡みついて、あの巨大な体躯が指一つ動かせぬほど、きつく締め上げられてしまった。

 しかし、それでも大熊はあらんかぎりの力を振り絞って、咆哮を上げながら裂け目の中であがく。私は今度こそ、彼女を終わらせてやらなければならなかった。さっきと同じように、隆起した土に上り、首元の大気に力を込めて、締め上げていく。大熊の首元は太く人間とは比べ物にならない程頑丈だった。更に力を込める。大熊が大きく開いた口を空に向け、苦しみに喘ぐ。でも私にはこれ以上に彼女が出来るだけ苦しまずに終わる方法を他に知らなかった。

 力を込める度に義眼が熱を持って、目の奥を焼く。痛みで引き延ばされた時間が、永遠の責め苦となって私に罰を与えた。あまりの痛みに私は顔をしかめ、声を上げた。大熊の大きな口から苦痛の叫びが漏れ出して、それが自らの声と混ざる。同じだ。そう思った。私は彼女で彼女は私だった。

 そしてその時は唐突に訪れた。ぐしゃっと首の骨が砕ける音がして、勢い余った力が大熊の首をはじけ飛ばした。首から溢れ出した血が雨のように降り注いで、雪の白を赤黒く染め、その上にはじけ飛んだ巨大な熊の首がぽてりと落ちて、その中に埋まった。

 私自身もその雨に打たれながら、終わってしまった彼女に思いを馳せる。

 きっと彼女は強かったのだろう。熊は冬を穴の中で眠り、過ごす動物だと聞く。しかし彼女はまだ穴の中で眠らず、こうして私に出逢い、そして死んだ。

 熊の生態を記したその書物には、熊が冬眠をする理由は冬の間は餌の確保が難しくなるためであると記されていた。そして、稀に現れる冬眠を行わない個体はそれをする必要が無い、つまり冬の間であっても餌の確保が容易な環境にある個体であると――――

 熊は雑食である。木の実などの植物由来の食糧が確保しづらくなる冬で、その命を繋ぐのはやはり他の動物の命だろう。それが出来るのは強者のみだ。

 気付けば小熊の気配がなくなっていた。あの子らは強者ではなかったのだろう。だがそれで良い。あの子らの母は死んだ。その強さ故に。あの子ら自身は生き残った。その弱さ故に。どちらがこの世界で本当に優れた存在かは、この厳しい自然が証明する。

 私は大きく息を付いて彼女に背を向ける。

 私は憤然と迫りくる彼女の一つ目を目の裏に浮かべた。強者であるはずの彼女のその目には恐れがあった。

 彼女が残した雪の跡を辿って、その道を進む。あの左目の傷――人に恐れを抱いているのなら、私に立ち向かってくることはないだろう。では立ち向かってきたのは何故か。それは彼女らに退路がなかったからではないか。彼女の背後には彼女以上に危険な存在がいた。そこで偶然私と遭遇した――――

 しばらく進むと、ふと目の端に違和感を覚えた。それと同時に足跡が途切れて、これ以上の追跡が不可能となってしまった。念のため足跡と地面を注意深く観察したが、足跡はなにかを探るように、ふらふらと行ったり来たりしていて、要領を得ず、これ以上手掛かりとなる物は見つけられそうもない。

 私は足跡からそれ以上の情報を得ることを諦めて、先ほど感じた違和感に焦点を移した。雪と木々に囲まれた森の中を見渡して、じっくりとその違和感の正体を探る。私の予想が正しければ――――


 「…………」


 見つけた。薙ぎ倒された草木、点々と雪の上に残された靴の跡。人の通った跡だ。恐らく三人分と思われるその跡は、私たちが張り込む坑道の入り口とは別の方角に進んでいたが、しかし決して無関係とは言えない方角、例えばあの入り口以外に入り口があるのなら恐らくそこだろうと思われる方角へと進んでいた。

 私は地面にかろうじて残ったその足跡を見つめながら、しばし思案に耽った。恐らくこの跡から見て、彼らがこの道を通ったのはそれほど前のことではないが、彼らに追いつこうと思うのなら、本隊に報告して戻ってくるほどの余裕はないように思える。それに――――

 私は顔を上げて、木々の隙間から、灰色に染まっていつ降り出してもおかしくない空を眺めた。今追わなければきっとこの手掛かりは消えてしまう。この手掛かり無くしては、昨晩の斥候部隊にも見つけられなかった入り口を時間内に見つけることはほとんど不可能に近いだろう。

 先ほどの戦闘から引き摺っている、刺すような頭痛が、自らの存在を主張するようにずきずきと頭の中をかき回す。思わず閉じた瞼の裏に、母親の顔となぜかユーリの顔が浮かんだ。

 私はそこで強制的に脳内の思考を遮断させると、目を開け、地面に刻まれた今にも消えそうな足跡を辿って歩き始めた。元より私に選択肢など無かった。

 強さ故に……彼女がそうであったように、私もこの歩みを止める訳にはいかない。それがどれだけ愚かで罪深いことであっても――――

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