第17話 噂
「ありえません!」
あまりにも突拍子もない話に、ヴィオレッタは思わず大声で否定した。
結婚して、侯爵領に入って以来、外には出ていない。客人も来ていない。使用人や領民と仕事や話はしたりするが、愛人などありえない。
どこからそんな噂が生まれたのか。
そしてどうして王都でそれが広まるのか。
王都では、そんなに話題が枯渇しているのか。そんなわけがない。
日々、様々な物語が生まれては忘れられる王都で、一年前に王都から消えたヴィオレッタの噂が生まれたとしても、広まりもせず立ち消えるだろう。
怒りと戸惑いと共に、恐怖を覚える。
(誰がそんなことを言い出したのよ……わたくしの評判を落としたい人? だとしたら……)
だとしたら――……
ヴィオレッタはエルネストを見つめる。
(エルネスト様に恋をしている方が、わたくしとエルネスト様を離婚させようとしている?)
侯爵夫人の座に収まりたい誰かの仕業だと考えれば、しっくりくる。
そしてエルネストは、噂を信じたのだろうか。
「根も葉もない噂だとはわかっている」
エルネストはあっさりと言い切る。
「セバスチャンの報告には、君が領民と協力して領地の発展に勤しんでいることが書かれていた。私財を投げ打って土地改良を施し、領民とも良好な関係を築こうとしていると。正直、にわかには信じられなかったが……今日、真実だと確信した」
青の瞳が、ヴィオレッタをまっすぐに見つめる。
「――ヴィオレッタ。君に礼を言わなければならない。いままで私は、領地のために何もできていなかったことを思い知らされた」
「そんなことはありません。エルネスト様はご自身にできることで、家と領地を守っていました」
帳簿を、そして領民たちの姿を見ていればよくわかる。
領民たちは豊かではなかったが、けっして飢えてはいなかった。
領主に不満も抱いていなかった。
「領民はヴォルフズ家を尊敬し、敬愛しています。だからこそ、新参者のわたくしの声も聞いてくれました。これは、エルネスト様や先代様たちのお力です」
悪政を敷いていれば、そんなことはありえない。
ヴィオレッタがいくら声を上げたとしても、なかなか聞いてはもらえなかっただろう。
「それに、わたくしは領主夫人です。領地の発展を願うのは当然のことです」
胸を張って微笑むと、エルネストは少しだけ安堵したような顔をした。
その表情を見て、ヴィオレッタもほっとする。
これで話は終わりだろうか。
王都で誰が何のためにヴィオレッタの新しい噂を流し始めたかは気になるが、エルネストがヴィオレッタを信じてくれるのなら、それで充分だ。
「――ヴィオレッタ」
「はい?」
「どうして悪意にまみれた君の噂が再び流れ始めたのか……昔のことも含め、改めて調べさせてもらった」
ざあっと、身体から血の気が引いていく。
「そして昔、君の妹が、君の名前を騙っていたことがわかった」
「…………」
「噂の出所を探っていったら、複数の人間からも証言が取れた。彼らの言う『ヴィオレッタ』は、菫色の瞳と金色の髪――君の妹は、君の名前を使って色々と遊んでいたらしいな」
心拍数が上がっていく。冷汗が背中を伝っていく。
「君の兄の確認も取れている」
もう、逃れようがない。
――ルシアは、ヴィオレッタとは違い、街での遊びが好きだった。
夜の遊びも、悪い遊びも好きだった。貴族令嬢として厳格に育てられたが、抑圧されていたものが、悪い方向に解放されてしまったようだった。
そしてその折、自分の名前を出すのはまずいと思って、咄嗟にヴィオレッタの名前を騙ったらしい。悪びれることなく。
そのことを切っ掛けに、「悪女」「ふしだらな女」「遊び好き」という悪評がヴィオレッタについて回ることになった。
「――君のかつての不名誉な噂は、真実ではなかった」
「……申し訳ありません……」
「何故君が謝る? 噂に振り回され、君にとても無礼なことをしてしまったのは私だ」
「いえ……噂を放置していたのも、否定しなかったのも、わたくしですし」
「何故だ」
鋭く問われ、ヴィオレッタは息を呑み、目を逸らす。
「……実害はありませんでしたから。わたくしは社交界にはほとんど顔を出さなかったですし、領地で趣味の時間を過ごすのに夢中でしたし……それに……」
「それに?」
「いえ――」
ヴィオレッタは口を噤む。これだけは言うべきではない。
(綺麗なルシアの名誉を汚させるわけにはいきませんでしたから、なんて)
父はルシアに期待していた。
第一王子の王太子妃にもなれるのではないかと期待していた。
それが無理でも、王族、あるいは高位貴族へ嫁げるほどの器量があると信じていた。
だから、醜聞が流れることを許さなかった。
父はこれ以上ルシアが遊び回らないように、常に見張りを付けて家に閉じ込めた。
悪評がついたヴィオレッタは、困窮していたヴォルフズ侯爵家に多額の持参金と共に押し付けた。
侯爵家も名門の高位貴族だが、遠い痩せた地に愛娘を嫁がせたくなかったためちょうどいいヴィオレッタが選ばれた。
王太子妃の座はアイリーゼ公爵令嬢に内定していて、ルシアが選ばれることはありえないだろう。すべての格が違う。
あの日の――異国土産の人形のように可愛いルシアは、いまも結婚相手が決まっておらず、籠の鳥のように過ごしている。
(それに、わたくしにとっても都合がよかったから)
悪評が立てば縁談など来ず、ずっと家にいられると考えていた。
実際は結婚が決まったが、悪評のおかげで侯爵夫人の義務――跡継ぎを産むことからは解放されて、とても都合が良かった。
「……お怒りはわかります。侯爵家の体面に関わることですもの。ですが、それも込みでの政略結婚だったのでは? お父様との契約の内容は、わたくしはよく存じておりませんが……」
「体面ではない。私が、嫌なんだ。噂を信じて、君を貶めた自分自身も許せない」
エルネストの腕に力が入る。
己に対する怒りと後悔で震えているようだった。
「……すまなかった」
「エルネスト様……」
「私にできる贖罪は何か、ずっと考えていた」
苦しげな声に、胸がずきりと痛む。
(――いけない)
それ以上はいけない。
言葉にさせてはいけない。
ヴィオレッタから何か言わないといけないのに、何も言葉が出てこない。
「――ヴィオレッタ。離婚しよう。君を、自由にする」
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