第16話 夫の帰郷





 眠れない日々が続いても、朝はやってくるし、農繁期は怒涛のように過ぎていく。


 特に収穫期直前のいまは、収穫に向けての準備に忙しい。それでもまだ収穫期真っ只中よりは余裕があるが。


 ヴィオレッタはクロに乗って、空から小麦畑を視察する。


 美しい光景だった。

 黄金の海のようだ。


 だが、大地の恵みを見つめるヴィオレッタの胸中には、迷いが渦を巻いていた。


(もう、いつエルネスト様が帰ってきてもおかしくない……いったい、何を話せばいいのかしら)


 自分たちは契約夫婦だ。

 しかも一年も顔を合わせていない夫婦。

 どんな顔をして会えばいいのか、どんな話をすればいいのかわからない。


(農法のことならいくらでも話せるけれど、面白い話ではないわよね。王都での話を聞く? いえ、仕事のことは詮索されたくはないわよね)


 そして、あの匿名の手紙の内容を思い出すだけで、胸が重くなる。

 思わずため息を零しかけて、ぐっと呑み込む。


 風に揺れる黄金の海――この素晴らしい光景の前で、浮かない顔はしていられない。


 顔を上げたその時、波の狭間に黒い点が見えた。馬車の姿だ。


(エルネスト様が帰ってこられた――)


 ヴィオレッタは急いで屋敷に戻る。

 クロを庭に降ろし、お礼の水とエサを与え、急いでメイドのアニーに着替えを頼む。


「エルネスト様がもうすぐ帰っていらっしゃるわ。アニー、着替えをお願い」

「かしこまりました、奥様。気合いを入れて準備させていただきます」

「――気合いは、そこまで入れてもらわなくてもいいのだけれど。格好だけ整えてもらえれば」

「何をおっしゃいます。奥様の魅力を最大限に引き出すことこそ、メイドの使命。旦那様をびっくりさせて差し上げましょう」


 アニーは急ぎながらも丁寧にヴィオレッタにドレスを着せた。ヴィオレッタが嫁入りのときに持ってきた、長く着ることのなかった綺麗なドレスを。

 その後は髪を結い、アクセサリーを飾る。

 貴族の妻の体裁を整え、急いで玄関ホールに向かう。


 何とか間に合ったようで、エルネストはまだ到着していない。


 ほどなく、重厚な扉が開く。

 外の光が差し込み、馬車から降りてくるエルネストの姿が見えた。


 ――約一年会っていなかった夫との再会。

 信頼関係などない、他人のような夫。――しかも浮気疑惑もある。


 どういう顔をしていればいいのか。


 緊張で強張る顔を、隠すように伏せたその時――


「ヴィオレッタ!」


 エルネストが走ってくる。いつも落ち着いていた彼が、まるで少年のように。


 エルネストは玄関ホールに入ってくると、ヴィオレッタの前で立ち止まり、ヴィオレッタの肩を両手でつかんだ。


「君はいったい、どんな魔法を使ったんだ!?」


 声は高揚し、瞳は興奮に満ち溢れていた。


「どんな奇跡で、この地にこんな豊かな実りをもたらせた?」


 エルネストにとって、黄金の小麦畑は、それほど衝撃的な光景だったらしい。

 ヴィオレッタは、嬉しくなって微笑んだ。


「わたくしだけの力ではありません。この地の人々が、がんばってくださったからです」

「だが、報告では君の力だと――」


 ヴィオレッタは首を横に振る。


「わたくしが使ったのは、魔法でも奇跡でもありません。農法です」

「農法を? それだけで?」

「それだけ、ではありません。具体的にはまず肥料ですね。最初に、海藻肥料で大地の力を充填させて、クローバー肥料でも大地の力を高めつつ、家畜を活用してするんです。クローバーは本当に素晴らしいんですよ。牛も喜んで食べますし、その堆肥もとてもいい肥料になって――」


 ヴィオレッタははっと息を呑み、口元を押さえた。

 エルネストの高揚に当てられて、大切なことを忘れていた。


「詳しいことは、後程お話します。いまは長旅の疲れを癒してください。おかえりなさいませ、エルネスト様」

「……ああ。ありがとう、ヴィオレッタ」


 エルネストの声が優しく響く。

 しかし同時に、どこか悲しそうな眼差しをしていた。


「私も、君に話さなければならないことがある」





 その日の夕食は、夫婦でテーブルに着いた。


 食堂の重厚な木のテーブルには、汚れひとつない真っ白なテーブルクロスがかけられ、磨き上げられたシルバーの食器とクリスタルのグラスが並ぶ。


 そして次々と気合いの入った料理が並んでいく。このような豪勢な食事は結婚式の以来だ。


 米が入ったスープは滋味深く、料理人テオの心遣いを感じて胸があたたかくなる。


 ベリーソースが使われた肉料理も、酸っぱいソースが肉の旨味が絶妙に調和していて、肉もとても柔らかくておいしかった。

 試作中の黄金糖を使ったシャーベットも、深い甘みと爽やかさが食事の締めにぴったりだった。


 だが、食事を楽しんでいる間も、食堂にはぎくしゃくとした雰囲気が流れている。

 会話もなく、気まずい沈黙が続いている。食器の奏でる音だけが、沈黙を更に強調している。


 エルネストの『話』に、ヴィオレッタは緊張し続けていた。


 食事が終わると、静かな居間へと移動した。

 緊張感の満ちる中、深い赤色のソファに座ると、ヴィオレッタは勇気を振り絞って聞いた。


「お話とは何でしょうか?」


 エルネストは立ったまま、しばしの間、黙って床を見つめていた。

 その間も、ヴィオレッタの心臓は緊張で高鳴っていた。


 そして、エルネストはゆっくりと口を開く。


「王都で、君の噂が流れてきた。夫が不在をいいことに、領地で愛人を何人も囲い込んでいると」






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