第13話 帳簿とカブ
数日かけての小麦の刈り取りが終わってすぐに、付近の領民総出で、海藻肥料を来年小麦を植える予定地に撒いていく。
領民たちの顔には未知の試みに対する不安と、ほんのわずかな期待が浮かんでいた。
「みなさん、本当によく頑張ってくれました。これはささやかながら、わたくしからのお礼です」
予定されていなかった農作業を頼んだ詫びと礼に、ヴィオレッタはすべての散布が終わった後に、特別に酒を振る舞った。マグノリア商会が海藻肥料と一緒に運んできた、最上級のビールだ。
領民たちの顔には一瞬で笑みが溢れ、祭りのような騒ぎは夜まで続いた。
ヴィオレッタは皆が楽しんでいる姿を見届け、少し早めに屋敷に戻った。
(海藻肥料の散布は無事終了)
ヴィオレッタは部屋で農作業を行った日付と、天気、所感をノートに記録していく。
今年やれることはもうない。
海藻肥料は春まで土の中で熟成させ、春が来たら、肥料がなじんだ土地に小麦の種を蒔く。今年小麦を植えた土地には、クローバーの種を蒔く。
そして次の年には、ジャガイモやカブも育てていく。
(やるべきことはたくさんあるわ。それにしても、まだ秋なのに寒いわね……覚悟はしていたけれど、レイブンズ領とはかなり気候が違うわ)
この土地は王国の中でも北に位置する。冬は長く、寒さも厳しく、雪も深いという。
温暖なレイブンズ領でのやり方が通用するだろうか。
もっといいやり方があるのではないだろうか。
「奥様、どうぞこれを」
メイドが持ってきたのは、白く輝くキツネの毛皮のコートだった。
一目でその上質さがわかる。これだけの毛皮は、上級貴族でもそう持っていないだろう。
「これは……?」
「旦那様が、寒いこの地での奥様の生活を想って、特別に準備されたものです」
「…………」
毛皮のコートを羽織ると、ふわりと柔らかさと暖かさが身体を包み込む。寒さで緊張していた身体が安堵で緩み、ヴィオレッタはコートに身を預けて深く息を吸った。
(やさしいのか、そうでないのか、よくわからないわ)
――夫であるエルネストが何を考えているのか、よくわからない。
ただ、この毛皮は暖かい。
大切に使おうと心に決めた。
翌日、ヴィオレッタは朝食時に執事セバスチャンに声をかける。
「この地の方々は、冬の間は何をするのですか?」
「冬は狩猟が主となります。旦那様も狩猟の名人なのですよ。奥様のお召しになられている毛皮も、旦那様が仕留められたものです」
羽織っている白いキツネの毛皮を見つめる。
「まあ……お礼の手紙を書かないといけませんね」
「それはきっとお喜びになられるでしょう」
「……それはどうかしら……いえ、旦那様は王都でどんなお仕事をされているの?」
「詳しいことは私共にもわかりません」
結婚が決まった時に兄オスカーから聞いた話では、ヴォルフズ家には女王陛下直々の任務があるらしい。詳しい内容は明らかにされていないが、忙しいのは間違いない。
領地運営にまったく手が回っていないところから見ても。
(執事にも明かせないなんて、よほど重要なお仕事なのでしょうね)
この国の貴族は、何かしらの異能を持つ。――持っていた。時の流れと共にほとんどが失われてしまったり、弱体化してしまったり、厳重に隠されてはいるが。
レイブンズ家がいまだ鳥類と心を通わせられる異能を持ち続けているように、エルネスト・ヴォルフズにも異能を持っているのだろうか。その異能を活用する仕事だろうか。
――なら、そちらに思う存分集中してもらおう。
「セバスチャン。領地運営に関する帳簿を見せてくださる」
「かしこまりました。では、執務室へ参りましょう」
執務室に移動し、ソファに座ることを勧められる。座ると、前のテーブルに大量の帳簿が積まれていく。
一体何年分あるのだろう。
「とりあえず十年前の分から、去年の分までです」
「ありがとう」
帳簿を追っていきながら、ヴィオレッタは頭が痛くなってきた。
(毎年赤字ギリギリ……王室からの援助でなんとかなっている状態ね。この援助が、王都での旦那様の働きへの報酬ということかしら……)
――莫大な金額である。いったいどんな仕事をしているのだろう。
それにしても、当主が出稼ぎをして領地を支えている状態というのは健全ではない。
当主に何かあれば、没落一直線である。
(財政状況が急激に悪化したのは……三年前)
――三年前。
当時の当主夫妻が部下と共に事故死し、十八歳のエルネストが爵位を継いでからだ。
その辺りのことは、ヴィオレッタも結婚前に聞いている。
エルネストが領地運営にまで手が回らなかったのは間違いない。
次期侯爵としてずっと勉強していただろうが、彼はあまりにも若かった。
せめて父親の側近たちが生きていれば、支えてくれたのだろうが。
更に運が悪く、天候不良による凶作が続き、税収が落ち込み。
財産を処分して、土地や鉱山の権利を抵当に入れて、なんとかギリギリ回していた状態のようだ。
(でも、希望はあるわ。借金は持参金で全額返済できたから、土地の権利大丈夫。それに、この地は手つかずの大地。手をかければかけるだけ伸びてくれる。そのためにも――)
ヴィオレッタは立ち上がる。
「領地の視察に行ってくるわ」
「それでは、護衛と馬車を用意しましょう」
「いいえ。わたくしにはクロがいますから」
クロは誰よりも頼れる護衛であり、なによりも早い翼だ。
ヴィオレッタは部屋に戻り、騎乗服に着替える。
(嫁入り道具に持ってきていて良かったわ)
念のために持ってきた服が、こうして役に立つなんて。
クロの小屋に改造された元物置に行き、クロに乗って秋の空を飛ぶ。
上空からこの地を見るたびに、ヴィオレッタはその広さを実感する。
そして、王都やレイブンズ領と比べてかなり涼しいことも。
雪も深いらしい。気候の違いで生えている植物の顔ぶれも違う。
(やっぱり、レイブンズ領と同じようにはいかないでしょうね。もっと適したやり方を探さないと――……うーん……わくわくするわ!)
道が険しければ険しいほど、やりがいがあるというもの。
ヴィオレッタがますますやる気を出していたその時、クロが急に下へ行こうとする。
「クロ、どうしたの?」
クロはあっという間に降下し、ある民家の前に降り立つ。
小さな村の、小さな家だ。隣に家畜小屋が建っていて、牛の鳴き声が聞こえる。
家の軒先には、白い大根のような――カブのようなものが、ずらりと吊るされて干されていた。
クロはヴィオレッタを乗せたまま、それに向かって歩いていく。
「ちょっとクロ、ダメよ。落ち着きなさい」
手綱を引いてやめさせようとするが、嫌がる。
どうしたことだろう。農作物は食べてはいけないと躾しているのに。
「コラァ!! なにやってんだオメエら!」
家畜小屋の方から農夫が農業用フォークを持って飛び出してくる。
大きなフォークの切っ先が鋭く光った。
「ああーっ、すみません、すみませんっ! すぐに出ていきますから! ほらクロ!」
軒下から引きはがそうとするが、どうしても引き下がらない。
恐ろしい執着だった。
「なんだぁ? 甘カブが気になんのか。しかたねぇなぁ」
農夫はそう言うと、甘カブと呼んだそれを一つ取り、クロの口元に持っていく。
クロは目をキラキラと輝かせて食いつき、美味しそうにゴリゴリと食べる。
「あ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけします……」
「いやいや。にしても牛用の甘カブを、こんなでっかいカラスが喜ぶなんてなぁ」
「甘カブ?」
「甘い汁が出るんで、牛の食いつきがいいんだよ」
――その瞬間、思考の中にある何かと何かが繋がった感覚があった。
全神経が澄み渡り、視界が、嗅覚が、覚醒したような感覚が。
(なに……この感覚……わたくし、この野菜を知っているような……)
ごつごつとした、ダイコンとカブの間のような根菜に、ヴィオレッタは強く引き付けられる。
「人間も食べられるんですか?」
「いやいや、生でも煮ても甘ぇは甘ぇが、土臭くて食えたもんじゃねぇよ」
純粋に家畜用のエサのようだが、毒があるわけではないようだ。
「このカブは……この地方でしか作れないのかしら。わたくしの生まれた土地では、このような野菜はなかったので」
「いやぁ、わしにはよくわからんが、よそで作ると、ほとんど甘くなねぇんだとよ。だから先祖代々、ここだけでつくっとる」
農夫は誇らしげに胸を張る。
(甘いカブ……砂糖大根……? ビーツ……? ――てんさい?)
――てんさい糖。
「これよ、これだわ!」
探し求めていたものが、いま目の前にあるかもしれない。
ヴィオレッタは大興奮しながら農夫を見る。
「わたくしも一ついただいていいですか? もちろん代金はお支払いします」
「金なんていいよいいよ。持って行っていきな」
「――では、次に来た時にお返しを持ってきますね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます